再び名和氏関係の話題に戻る。
◆以前、名和氏の史跡を探訪した際、地元にある正式な「名和氏館跡」というのを写真に納めていなかったことと、この付近の風景写真がどうしても欲しくなり、1月17日、雪の残る名和地方を訪れた。
◆前回、名和氏の館跡として名和神社周辺、という ことを記したが、確実に屋敷があった場所として史跡の表記がなされているのは、今回の写真でとりあげる場所である。
◆所在地は、「名和一族郎党の墓」がある長綱寺から、北西の方向へ狭い道を約100m程度入った民家が建ち並ぶところにある。
写真でもわかるように、その屋敷跡は予想以上に小さく、現在の普通の民家の敷地並である。
周囲は石柱を4,50センチ間隔で並べ、間を鉄製の棒でつないだ塀が囲ってある。
敷地奥の位置に石碑が立ち、「名和神君碑」という文字が上部タイトルに見え、その下の縦書きはほとんど判読不能だが、左側に「寛政9年冬11月…」という文字がかろうじて見える。
◆以前、名和氏の史跡を探訪した際、地元にある正式な「名和氏館跡」というのを写真に納めていなかったことと、この付近の風景写真がどうしても欲しくなり、1月17日、雪の残る名和地方を訪れた。
◆前回、名和氏の館跡として名和神社周辺、という ことを記したが、確実に屋敷があった場所として史跡の表記がなされているのは、今回の写真でとりあげる場所である。
◆所在地は、「名和一族郎党の墓」がある長綱寺から、北西の方向へ狭い道を約100m程度入った民家が建ち並ぶところにある。
写真でもわかるように、その屋敷跡は予想以上に小さく、現在の普通の民家の敷地並である。
周囲は石柱を4,50センチ間隔で並べ、間を鉄製の棒でつないだ塀が囲ってある。
敷地奥の位置に石碑が立ち、「名和神君碑」という文字が上部タイトルに見え、その下の縦書きはほとんど判読不能だが、左側に「寛政9年冬11月…」という文字がかろうじて見える。
【写真上から2番目】名和館敷地内
【写真左】石碑:幅7,80㎝、高さ地上から3mぐらいあろうか。
◆前回訪れた時も感じたのだが、この小山は、各所に、山城の特徴に類似したものを持っており、ひょっとしてこの山自身が名和氏の本城ではなかったかと思えていくる。しかも、その麓には館跡があり、また、写真の左側には「氏殿神社」という社があり、本城(居城)であれば、理想的な配置になる。
◆なお、この写真には見えていないが、右側が昨年開通した山陰道(名和・淀江線)が走っており、その後ろがICになっている。
名和神社はこの山の中央よりやや左側付近の尾根部分にあり、距離は約1.2キロ程度ある。
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