2009年1月14日水曜日

箆津豊後守:箆津(のつ)城

箆津豊後守:箆津城(のつじょう)

●登城日     2008年2月29日
●所在地     東伯郡琴浦町箆津
●史跡指定    町指定史跡 (昭和50年6月2日)
●形式       丘城(海城)
●備考 別名    槙城


【写真①】城郭北端部:かなりの断崖である。










◆前記したように、石井垣城の赤坂掃部助のあと入ったのが、箆津豊後守であるが、その前後についての史料として、地元の「中山町史」と「赤崎町史」がある。今回は赤碕町誌のほうを参考にさせていただく。

以下、関係分引用する。


“(2)箆津豊後守
姓氏家系大辞典(昭和9年刊・大田亮著)によると、箆津豊後守について次の如く記述している。


「箆津 ノヅ 和名抄 伯耆国八橋郡に箆津郷を収む、後世野津巴という。この地より起こりにて、退休寺は正平9年、箆津淳忠の建立なり」と。また、田蓑日記に「八橋郡箆津城は、箆津豊後の拠る所」とあり、と。



 前節で述べたように、本町の安田地区箆津に居住し、後、時勢の変転と共に、糟屋氏、赤坂氏に代わって中山一帯に勢力を誇った豊後守は、下り松に居城し、八 橋、汗入両郡を領し、高は5万石であった(中山町史)ということが昭和9年発行の鳥取県神社史に

「…名和伯耆守長年が、大和の春日神社から勧請した延文年中、豊後守が八橋、汗入両郡のうち5万石を領し、当地に在館し、当社を厚く崇敬して、新たに社殿を改造し云々」

 とあり、現存する中山の春日神社の建立主云々は別として、これによっても豊後守の勢力扶植ぶりが容易に分かる。


 しかし、これについては中山町史に述べる疑問点も存在するので、参考に挙げてみると

「さて豊後守は、八橋、汗入の両郡を領有していたと、書上帳や縁起に見えるけれども、この点は疑問である。というのは、八橋汗入両郡といえば、東は今の由良まで、西は淀江町淀江地区までに当たるが、これだけの広範囲にわたっていたのなら、彼に関する記録や俗説も、単に中山・箆津地区だけでなく、もっと広がって残っているはずである」

 と述べている。いずれにしても、本町にはまだまだ豊後守の史料があるはずで、併せて箆津豊後守研究の課題が今後に残されている。


 さて、豊後守は春日神社勧請ののち、延文4年・正平14年(1359)5月23日、本町箆津地域で、勝田川を挟んで対戦し、武運つたなく討死している。伯耆民談記にあるように、墓は、安田地区箆津の竹林の中にあるが、現在では土地の人に今なお祀られている。

 豊後守の子孫名は一々明らかでないが、箆津信清が、応永8年(1401)退休寺領を増し、殿堂を改造し、七堂伽藍を建立した(東伯郡誌:明治40年)。



 豊後守の法名は「退休寺殿大叟(だいそう)心(しん)空大禅定門神袛(くうだいぜんじょうもんしんてい)」であり、夫人は「金(きん)籠(ろう)院殿顕室因(けんしついん)教(きょう)大姉(だいし)」で共に自分の建立した退休寺に祀られている。(以上 赤碕町誌より) ”


【写真②】
 写真②は、西側付近にある町指定史跡という文字が入った木柱で、横面には「文政元年(江戸時代)の「因伯古城跡図」によると、約二丁四方の広さをもつ」と書いてある。正方形の城郭と考えると、東西の長さが約200m強となる。







【写真③】


 現地は東側先端部に川が流れているので、その先端部から西へ200m伸ばすと、約半分は畑(牧草地?)になっているが、その付近も城閣跡ということになる。また北側先端部は断崖状になって、狭い砂浜の先が日本海になる(写真①参照)。南側の端部分になると、国道9号線を超えた付近まで伸びる。


 写真③は、城郭の中心部になる地点。土塁の跡を少し残したようなものが右側にあり、その西側が沼地のような状態になっていたので、当時は堀のような施設だったかもしれない。


◆この城は、写真のように日本海に突き出た丘陵上の先端部にあるもので、城の定義でいえば「海城」である。城主・箆津豊後守が初期のころ在城したものだが、こういう場所に城跡を構えたということから、その目的は日本海域の制海権を主たるものとした「水軍」の形態をもっていたかもしれない。

◆箆津豊後守は、その後、この城から前回紹介した石井垣城へ移ることになるが、せっかく手に入れた制海権を考えると、箆津城はすぐに廃城にしたとは思えない。仮にこの箆津城を廃城したとしても、その代りの役目を担うような場所を出張城のような形で、海岸部に持っていたのではないかと思われる。

◆その場合考えられるのは、石井垣城の東を流れる「甲川」の河口部(塩津という地区)に「船着場」のようなものを持っていたのではないか。そして石井垣城の川岸から船で甲川を下り、日本海へ出て活動していたような、そんな光景が目に浮かぶ。

◆なお上記資料に見える「退休寺」は現在も残っており、特に当院の門は応永年間頃の建造物のものではないかと思われる姿を残している。場所は、石井垣城がある谷の西隣の谷(下市川流域)のを少しのぼった位置にあり、北隣は「殿河内(とのかわち)」という地名があり、さらに周辺には「上市」「下市」などという地名も見えることから、中世にはこのあたりは相当な経済活動が営まれていたと考えられる。

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