伯耆・小松城
この方向には、金龍山・運光寺という寺がある。創建等は不明だが、古いようだ。境内に「佛足跡由来の石」という変わった石造がある。石造も興味をもったが、むしろこの寺の門が、いかにも小松城あたりから移築したかのような古い門で、確認はできなかったが、どちらにしても当城と当寺はなんらかの関係があったものと思われる。
●所在地 鳥取県南部町
●南部町指定文化財
●比高差 30m
●遺構 主郭の北・東・西を土塁及び空堀、さらに二重の土塁
●比高差 30m
●遺構 主郭の北・東・西を土塁及び空堀、さらに二重の土塁
●登城日 2008年5月3日
◆概要(現地の説明板より)
“ 小松城は、出雲千家家(せんげけ)の南北朝時代の文書に載る由緒ある城である。その文書によると、塩冶高貞の軍忠状に「出雲国造の舎弟・貞(さだ)教(のり)の軍勢が建武三年(1336)6月19日、伯州の長田城に馳せ向い、続いてその月の30日、小松城を攻め、城の門前で華々しく戦った。そのとき、若党の高木又次郎が右足を射られたので、このことを軍奉行は御承知の上、後々の恩賞の証となるよう御判をいただきたい。」とされている。
以降戦国時代に及ぶ二百十数年間、小松城は在地の豪族のよりどころとなった。地元では、小松氏の住む城という説が有力である。
城跡には、数段の郭、二重の空掘り、土塁などの跡が残り、また出丸、侍屋敷、馬場、弓場などと考えられる遺構もあって、中世における相当の規模の城郭であったと想像される。”
“ 小松城は、出雲千家家(せんげけ)の南北朝時代の文書に載る由緒ある城である。その文書によると、塩冶高貞の軍忠状に「出雲国造の舎弟・貞(さだ)教(のり)の軍勢が建武三年(1336)6月19日、伯州の長田城に馳せ向い、続いてその月の30日、小松城を攻め、城の門前で華々しく戦った。そのとき、若党の高木又次郎が右足を射られたので、このことを軍奉行は御承知の上、後々の恩賞の証となるよう御判をいただきたい。」とされている。
以降戦国時代に及ぶ二百十数年間、小松城は在地の豪族のよりどころとなった。地元では、小松氏の住む城という説が有力である。
城跡には、数段の郭、二重の空掘り、土塁などの跡が残り、また出丸、侍屋敷、馬場、弓場などと考えられる遺構もあって、中世における相当の規模の城郭であったと想像される。”
【写真上】小松城遠望 規模はさほど大きくはないが、外から見る以上に、遺構の残存度が多い。写真で見える左から右に少しのぼる道が登城のコース。
【写真上から2枚目】小松城の入口にある案内板(上記のもの)
この写真でいえば、右から左に向かって5,6分程度で現地にたどりつく。
なお、この地区は「ほたる」の名所でもあるとのこと。
【写真上から3枚目】登城途中にある五輪塔
この城は、南北朝から戦国期まで使用されたことから、いつの時代の五輪塔か分からないが、小さなものが5,6基残っていた。
現在の深さは4,5m程度しかないが、当時はもっと深かったと思われる。
二重の空堀でこれだけはっきりと残っているところは、この付近では、この城以外にそんなにないのではないかと思われる。
なお、登城したのは、5月だったこともあり、郭部分は雑草に覆われ、あまりよく確認できなかった。山城というより平城形式に近いかもしれない。そのため、郭跡付近には館跡があったのではないかと思われた。
【写真左】小松城郭付近より南西の方向を見る
この方向には、金龍山・運光寺という寺がある。創建等は不明だが、古いようだ。境内に「佛足跡由来の石」という変わった石造がある。石造も興味をもったが、むしろこの寺の門が、いかにも小松城あたりから移築したかのような古い門で、確認はできなかったが、どちらにしても当城と当寺はなんらかの関係があったものと思われる。
◆さて、この小松城については上段の「説明板」にもあるように、1336年6月19日に出雲の国造(杵築大社の領主)が、この城を攻めている、とある。
ちょうどこのころは、いったん京を追われた足利尊氏が、九州から再び京へ東上し、5月に楠木正成を湊川で破り、光源上皇を伴い入京したころで、伯耆の名和長年は、後醍醐天皇を支えつも、ついに6月30日戦死している。
そういう状況もあって、山陰地方を含め九州から、中国四国地方の多くの武士が尊氏に次から次となびいていく。その流れの中で、出雲国造舎弟貞教も、名和長年派(後醍醐派)だったであろう小松城主(小松氏か)を攻めたものと思われる。直接的には塩冶高貞が、在京の形で出雲国造に命を下したものと思われる。
◆なお、現地の説明板にある「伯州の長田城」という場所だが、おそらく現在の大山町長田地区にあった城と思われる。資料を持ち合わせていないので、なんともいえないが、船上山から名和長年らが淀江町(米子市)の小波城に立てこもる佐々木清高を攻める際に通った道(現在の長田神社近辺で、310号線と並行していたか)の近くにあったものと思われる。
★参考文献
★参考文献
(1)山陰史跡ガイドブック第1巻 山陰の城館跡
史跡整備ネットワーク会議事務局(島根県教育庁文化財課・鳥取県教育委員会事務局文化課)
史跡整備ネットワーク会議事務局(島根県教育庁文化財課・鳥取県教育委員会事務局文化課)
(2)集英社版 日本の歴史⑧南北朝の動乱 伊藤喜良
(3)日本の歴史11 太平記の時代 新田一郎
(4)島根県歴史大年表 郷土出版社
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