2009年1月14日水曜日

「司馬遼太郎 因幡・伯耆のみち檮原街道 街道をゆく27」より

司馬遼太郎の街道をゆく 27(朝日新聞社発行)」の中に、因幡・伯耆のみち ― 伯耆の鰯(イワシ)売り―という小品が書かれている。

伯耆の鰯売り、とは名和長年のことである。少し長いが、部分的に転載する。

……信濃坊源盛は、そういう者であった。かれはすでに齢熟し、大山においては別当という僧兵の総大将をつとめる身になっていた。
実家は、名和氏である。
「名和」
という農地がある。大山という巨大な休火山が、かつて火山噴出物を堆積させて裾野台地をつくったが、その北辺、海近くにある。名和川(2級河川)が大山北麓の樹林に水源を発し、北に向かって土砂を深くえぐってながれ、その流域が、やがて農地になった。
名和についての古い時代のことは、わからない。
この地名が有名になるのは、南北朝のころ、名和氏が出現してからである。

名和氏の前歴もまた不詳だが、この一族が農地だけでなく、名和川の河口などに海港を持ち、新興ながら勢いがつよかったということは、傍証でわかる。

(中略)

【写真】冬の夕暮れ:大山(赤崎方面より見る)※右下時刻未調整

 この間、後醍醐は鎌倉勢にとらえられて、出雲の沖にうかぶ隠岐国に流された。
元弘2年(1332)3月のことで、翌年の閏2月にはひそかに対岸の伯耆に脱出して、名和を頼るのである。


ときに名和氏の当主は、長年であった。この時期、長高と称していた。
「長くて高いのは、危険なことではないか」
と、後醍醐がいって、長年という名を与えた。このような恩情が、この時代の無名の土豪の心にどうひびくか、世間を流浪するにつれて後醍醐は知るようになっていたのにちがいない。


私に関心があるのは、当時の名和氏の地位についてである。むろん、官位などはない。
また諸国の守護や諸郷の地頭が正規の武士であるとすれば、そういう存在ではない。『太平記』巻7に、名和長年がはじめて登場する。公家の千種忠顕(ただあき)が舟からまず一人浜に降り、土地の者に、このあたりに弓矢とって名の知れた者はいるか、ときく。

この辺には、名和又太郎長年と申す者こそ、其の身指して名有る武士にては候はね共、家富、一族広くして、心ガサ(註・心蒿(こころがさ)。思慮)ある者にて候へ。

と、土地の者がこたえることになっている。しかし、後醍醐が隠岐にあった時期に、その側近がひそかに名和長年に打診し、その承知を得、脱出して伯耆へ渡海することまで長年が手はずをととのえたのではあるまいか。長年の紋所は、極めて珍しい。帆掛け船なのである。長年はこのあたりで、海上権を持つ者ではなかったろうか。


私は、その原本を知らないが『蔗軒(しゃけん)日録』という本(長年の時代より1世紀のちに成立)に、
ハウキ(註・伯耆。長年のこと)ハ、イワシ(鰯)売り也。

とあるらしい。土地の言い伝えを書いたのだろうが、もし多少の真を伝えているとすれば、むろん振り売りの鰯売りではあるまい。漁業権を持つ者だったろう。


ついでながら、漁師は殺生をするため極楽へは行けないという恐怖が当時あって、極楽ゆきを保証してくれる時宗(教祖は一遍)に入信する者が多かった。長年は、時宗のものらしい法名をもっていた。釈阿(しゃくあ)という。だから網元をしていた、というじかな証拠にはならないが、かすかな傍証にはなるだろう。家は、富んでいたらしい。ただし、漁業だけでは富むまでには至らない。多くの商船をもっていたと考えたい。


富んでいればこそ、弟の一人を大山寺に入れて、別当にまでさせることができたのであろう。
「信濃坊源盛(しなのぼうげんじょう)」


この人物の碑を眺めていると、そういう思いが強く感じられてくる。源盛もまた兄長年とともに天皇の「謀反」と呼ばれた後醍醐の側に加担し、長年の戦死後は、遠く九州に降って肥後の八代で死ぬのである。その死は1358年で、57歳だったというから、後醍醐が隠岐から伯耆にやってきたときは、源盛は32,3歳であったろう。
(中略)


長年は決心し、すぐさま鎧をつけた。一座はことごとく武装し、なかでも長重はいち早く駆けて浜へ行った。このあと鎧の上に荒むしろを巻き、「主上を追い進(まい)らせ、鳥の飛ぶが如くして」船上山の上の智積寺(ちしゃくじ)の本堂に入れるのである。船上山は大山の古期火山群の一峰で、坂はまことにけわしい。


このあたり、いかにも名和氏は鎌倉の既成体制のなかの武家貴族ではない。非公認の土豪劣紳らしく、決断も早ければ行動もいききしている。
(中略)


【写真】花回廊(旧溝口町側)から見た大山

 名和一族の数奇な運命はこの時から始まる。
みずからそれをえらんだこの一族は、船上山に籠り、河内金剛山での正成と同様、当国の守護などの軍勢をひきつけて大いに戦うのである。ついには伯耆一国から鎌倉方を一掃した。


このことは、鎌倉時代の末期に台頭していた新興勢力のにおいを嗅ぐのにちょうどいい。


その無名性とゼニのにおいについて、名和長年のことを『梅松論』(著者は足利尊氏派の武将)では「福祐(ふくゆう)の仁(ひと)」としてのみとらえている。また同時代に成立して公家の色合い強い『増鏡』では、その第17に「あやしき民なれど、いと猛に富めるが」とこれも大差はない。フランス革命当時のブルジョアジーを思わせる。


挙兵(1333)から京都の市街戦の戦場で死ぬまで、3年でしかない。
この間、いわゆる建武の中興のつかのまの成功がある。その時期に、長年は伯耆と因幡(両国で今の鳥取県)を受領し、他にも顕職を兼ねた。陽気で率直な人柄は、後醍醐からも好かれたという。


 この「あやしき民」の実力によって、鎌倉末期の伯耆が、以外に経済力をもった土地だったことを私どもは知りうるのである。

以上。



◆楠木正成も、名和長年にしても建武の中興後、どうみても後醍醐派の形勢は不利となっていても、最後まで後醍醐に従ったということから、戦前の忠君愛国のシンボルとして利用されてしまい、戦後になったとたん、しばらくは無視されるようなことになった。その時代ごとに、こうして評価がコロコロと変わることは、二人にとっては迷惑な話である。

当初、後醍醐派として与していた同じ山陰出身の塩冶高貞は、途中から後醍醐の政策に同調できず、尊氏派に与するが、結局前記したとおり、執事・高師直の陰湿な策略で自害する。こうしてみると、二人とも京都に上るまでが絶頂期であったということになる。

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