これまで船上山などで後醍醐天皇・名和長年軍に関係した武将などを取り上げてきたが、今回は幕府方(北条方)として戦った武将や、史跡を取り上げたい。
最初に、糟谷弥二郎元覚と岩井垣城を紹介する。
◆所在地 西伯郡大山町石井垣
【写真左】岩井垣城の縄張り図
現地の説明板より
“凸岩井垣城跡(中山城又は石井垣城)
元弘3年(1333)船上山合戦当時、伯耆国の守護代・糟谷弥二郎元覚が、当城に拠っていたが、名和長年軍の攻撃により炎上、糟谷氏滅亡ののち、箆津(のつ)豊後守敦忠の居城となる。
中世城郭事典に、「この城は因幡に類例のない複郭式で遺構完存の城跡」とある。城域は、南北500m、東西300mの広大な地積に及んでいる。 平成2年3月 中山町教育委員会”
◆太平記などによると、この糟谷(糟屋)弥二郎は、もともと北条一門の守護(代)で、その一族・糟屋三郎宗秋は、鎌倉幕府六波羅探題の検断の要職にあった。
◆また、名和軍が攻勢をかけて、さらに幕府方の城をせめたものとして、3月3日に、佐々木清高の籠る凸小波城(淀江町小波にあったとされ、最近その場所が調査された。まだ私は探訪していないが、平地に近い場所で、遺構はほとんど残っていないようだ)と、その後攻めた凸小鴨(おがも)城(倉吉市岩倉)が記録されている。(この城も未登)
【写真左】現在この城郭内には、写真のような神社(春日神社)が祀られている。 この神社は箆津豊後守の創建といわれている。
この本殿の後ろに、城主糟屋弥次郎元覚の後入城した箆津豊後守の墓といわれる古墓(下の写真)がある。
【写真左】城主・箆津豊後守の墓といわれるもの。
◆名和神社(館跡)や、この城も山城というより、平城といったほうがよさそうな形式だが、この付近の地形が全体になだらかで、戦略的には要害性を優先した設計とは言い難い。
しいて言えば、この東側に流れる甲川という川が、堀の役目として考えられ、西側は少し高くなっているため、簡単には攻めにくい場所である。
◆船上山合戦の際、弥二郎自身は負け戦だったものの討死はせず、一族はその後、同年(元弘3年)5月9日、近江の番場宿で、敗走ののち、同じく船上山で戦った佐々木清高らとともに自害している。
【写真上】左が当城の東側部分で、右に見えるのが日本海へそそぐ甲川
ちなみに、「近江蓮華寺過去帳」によれば、糟屋弥二郎入道元覚64歳、以下一家13人、佐々木隠岐前司清高39歳、以下一族4人の氏名あり、となっている。
◆糟屋氏が没落した後、この城には赤坂掃部助(かもんのすけ)幸清一族が入ったが、彼は名和長年とともに、京都に従軍し大宮付近で戦死したとされている。したがって、掃部助が在城したのは、長くてもわずか3年ほどになる。
◆ちなみに、赤坂一族のものと思われる墓が、「赤坂六助田」というところの田の畔にあり、7基ある墓のうち最南端にあるのが彼の墓とも言われている(私はまだ、現地を確認していない)。
◆赤坂一族が没落した後、入って来たのが前述の箆津豊後守である。彼に関しては後ほど紹介したい。
最初に、糟谷弥二郎元覚と岩井垣城を紹介する。
◆所在地 西伯郡大山町石井垣
【写真左】岩井垣城の縄張り図
現地の説明板より
“凸岩井垣城跡(中山城又は石井垣城)
元弘3年(1333)船上山合戦当時、伯耆国の守護代・糟谷弥二郎元覚が、当城に拠っていたが、名和長年軍の攻撃により炎上、糟谷氏滅亡ののち、箆津(のつ)豊後守敦忠の居城となる。
中世城郭事典に、「この城は因幡に類例のない複郭式で遺構完存の城跡」とある。城域は、南北500m、東西300mの広大な地積に及んでいる。 平成2年3月 中山町教育委員会”
◆太平記などによると、この糟谷(糟屋)弥二郎は、もともと北条一門の守護(代)で、その一族・糟屋三郎宗秋は、鎌倉幕府六波羅探題の検断の要職にあった。
◆また、名和軍が攻勢をかけて、さらに幕府方の城をせめたものとして、3月3日に、佐々木清高の籠る凸小波城(淀江町小波にあったとされ、最近その場所が調査された。まだ私は探訪していないが、平地に近い場所で、遺構はほとんど残っていないようだ)と、その後攻めた凸小鴨(おがも)城(倉吉市岩倉)が記録されている。(この城も未登)
【写真左】現在この城郭内には、写真のような神社(春日神社)が祀られている。 この神社は箆津豊後守の創建といわれている。
この本殿の後ろに、城主糟屋弥次郎元覚の後入城した箆津豊後守の墓といわれる古墓(下の写真)がある。
【写真左】城主・箆津豊後守の墓といわれるもの。
◆名和神社(館跡)や、この城も山城というより、平城といったほうがよさそうな形式だが、この付近の地形が全体になだらかで、戦略的には要害性を優先した設計とは言い難い。
しいて言えば、この東側に流れる甲川という川が、堀の役目として考えられ、西側は少し高くなっているため、簡単には攻めにくい場所である。
◆船上山合戦の際、弥二郎自身は負け戦だったものの討死はせず、一族はその後、同年(元弘3年)5月9日、近江の番場宿で、敗走ののち、同じく船上山で戦った佐々木清高らとともに自害している。
【写真上】左が当城の東側部分で、右に見えるのが日本海へそそぐ甲川
ちなみに、「近江蓮華寺過去帳」によれば、糟屋弥二郎入道元覚64歳、以下一家13人、佐々木隠岐前司清高39歳、以下一族4人の氏名あり、となっている。
◆糟屋氏が没落した後、この城には赤坂掃部助(かもんのすけ)幸清一族が入ったが、彼は名和長年とともに、京都に従軍し大宮付近で戦死したとされている。したがって、掃部助が在城したのは、長くてもわずか3年ほどになる。
◆ちなみに、赤坂一族のものと思われる墓が、「赤坂六助田」というところの田の畔にあり、7基ある墓のうち最南端にあるのが彼の墓とも言われている(私はまだ、現地を確認していない)。
◆赤坂一族が没落した後、入って来たのが前述の箆津豊後守である。彼に関しては後ほど紹介したい。
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