◆地元でありながら、驚くほど知られていない武将として、塩冶高貞(えんやたかさだ)がいる。
浄瑠璃や歌舞伎でおなじみの忠臣蔵のもとになった人物である。江戸時代に竹田出雲という人が脚本して、浅野内匠頭を塩冶高貞に、吉良上野介を高師直(こうのもろなお)に仕立てている。
「太平記」では高貞の死を女性問題(美人の妻)が絡んだものとして描いているが、実際は複雑な流れがあったようで、結果として足利新政府の犠牲者ともいえる。
【写真】出雲市塩冶町にある浄音寺境内にある「開基塩冶氏塔」と書かれた塔
この境内も含めた部分が館跡ともいわれ、下段の館跡と合わせ複数の塩冶氏関係の施設があったものと思われる。
【写真左】塩冶氏館跡の発掘現場・その1
昨年(2008年)都市計画により道路が造られることになり、事前に発掘調査された。
一般的にはこうした主だった発掘調査に併せて、一般公開・説明会などが行われる。
残念ながら私の知る限り、そんな告知などなかったようで、現在は完全に道路となっているので、この写真のような遺構が残されている可能性は極めて低い。
【写真左】その2
多数の窪みや穴状のものがある。礎石の跡にしては不揃いだ。
【写真左】その3
トレンチのような箇所で、排水溝だろうか。
【写真左】出土した陶器類
生活していた館跡らしく、陶器類や屋根瓦などが出てきた。
【写真左】塩冶高貞の石碑
暦応4年(1341)春、高師直らに謀反の陰謀ありと訴えられ、逃亡中の松江市宍道町の白石にて壮絶な憤死を遂げた塩冶高貞の石碑(民有地と思われるが、普段の状態は写真のように雑草に覆われている)
◆史料によっては、高貞の憤死場所を播磨(兵庫県)あたりとする説もあるが、太平記によるとこの場所の可能性が高い。
なお、現場は今は雑木雑草に覆われた状態だが、当時は宍道湖水域が相当南まで来ており、当時は街道として使用されていたと思われる。
【写真】出雲市塩冶町にある半分城跡 (中の写真は遠景、下は半分城本丸跡)
(現地にある説明板より)
“この城は、上塩冶に所在する大廻城址や、大井谷城址よりも規模が広く、近くに塩冶八幡宮や、高貞社があるので、城主は代々の塩冶氏であったと考えられます。
出雲国守護としての塩冶氏は、約60年、高貞の弟・時綱からの後塩冶氏は、尼子氏に滅ぼされるまで、約190年続き、さらに尼子興久が塩冶氏を名乗っていますから、この城郭も幾度か改修されたと考えられます。
昭和53年に西一郭が発掘調査されて、土塁、柵跡(さくあと)、土壙(どこう:あな)などが検出されました。城跡全体の遺構
○主郭部は一辺25メートルの方形
○北に郭二、東に郭三、西と南に郭各二、土塁、堀切り、帯曲輪(おびくるわ)を設けている。
平成15年10月 塩冶クラブ ”
☆どちらにしても、塩冶氏については不明な点が多く、太平記など誇張された軍記物のみでは真実が分かりずらい。
浄瑠璃や歌舞伎でおなじみの忠臣蔵のもとになった人物である。江戸時代に竹田出雲という人が脚本して、浅野内匠頭を塩冶高貞に、吉良上野介を高師直(こうのもろなお)に仕立てている。
「太平記」では高貞の死を女性問題(美人の妻)が絡んだものとして描いているが、実際は複雑な流れがあったようで、結果として足利新政府の犠牲者ともいえる。
【写真】出雲市塩冶町にある浄音寺境内にある「開基塩冶氏塔」と書かれた塔
この境内も含めた部分が館跡ともいわれ、下段の館跡と合わせ複数の塩冶氏関係の施設があったものと思われる。
【写真左】塩冶氏館跡の発掘現場・その1
昨年(2008年)都市計画により道路が造られることになり、事前に発掘調査された。
一般的にはこうした主だった発掘調査に併せて、一般公開・説明会などが行われる。
残念ながら私の知る限り、そんな告知などなかったようで、現在は完全に道路となっているので、この写真のような遺構が残されている可能性は極めて低い。
【写真左】その2
多数の窪みや穴状のものがある。礎石の跡にしては不揃いだ。
【写真左】その3
トレンチのような箇所で、排水溝だろうか。
【写真左】出土した陶器類
生活していた館跡らしく、陶器類や屋根瓦などが出てきた。
【写真左】塩冶高貞の石碑
暦応4年(1341)春、高師直らに謀反の陰謀ありと訴えられ、逃亡中の松江市宍道町の白石にて壮絶な憤死を遂げた塩冶高貞の石碑(民有地と思われるが、普段の状態は写真のように雑草に覆われている)
◆史料によっては、高貞の憤死場所を播磨(兵庫県)あたりとする説もあるが、太平記によるとこの場所の可能性が高い。
なお、現場は今は雑木雑草に覆われた状態だが、当時は宍道湖水域が相当南まで来ており、当時は街道として使用されていたと思われる。
【写真】出雲市塩冶町にある半分城跡 (中の写真は遠景、下は半分城本丸跡)
(現地にある説明板より)
“この城は、上塩冶に所在する大廻城址や、大井谷城址よりも規模が広く、近くに塩冶八幡宮や、高貞社があるので、城主は代々の塩冶氏であったと考えられます。
出雲国守護としての塩冶氏は、約60年、高貞の弟・時綱からの後塩冶氏は、尼子氏に滅ぼされるまで、約190年続き、さらに尼子興久が塩冶氏を名乗っていますから、この城郭も幾度か改修されたと考えられます。
昭和53年に西一郭が発掘調査されて、土塁、柵跡(さくあと)、土壙(どこう:あな)などが検出されました。城跡全体の遺構
○主郭部は一辺25メートルの方形
○北に郭二、東に郭三、西と南に郭各二、土塁、堀切り、帯曲輪(おびくるわ)を設けている。
平成15年10月 塩冶クラブ ”
☆どちらにしても、塩冶氏については不明な点が多く、太平記など誇張された軍記物のみでは真実が分かりずらい。
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