川島城(かわしまじょう)
●所在地 徳島県吉野川市川島町川島
●築城期 元亀3年(1572)
●築城者 川島兵衛之進
●城主 川島惟忠、林能勝
●廃城年 寛永15年(1638)
●遺構 郭
●指定 吉野川市指定史跡
●登城日 2011年6月25日
◆解説(参考文献「現地の史料等」)
前稿の美作上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)で紹介したように、川島氏が阿波国に築いた「川島城」を取り上げる。
なお、投稿日を6月11日としているのは、先に紹介した「上ノ殿城」の投稿日に続けたほうがよいと判断したためで、実際に登城したのは、冒頭に示したように6月25日である。
【写真左】川島城の模擬天守・その1
昭和56年に竣工した模擬天守。
戦国期にあった本丸跡の場所は、この位置から西に向かった「岩の鼻」という吉野川岸付近で、残念ながら当日その場所を踏査していないが、これも「城格放浪記」さんが紹介しているのでご覧いただきたい。
現地に置かれた史料①より
“川島城の概説
元亀3年(1572)の川島合戦後、細川家家臣川島兵衛之進は、天正7年(1579)12月岩倉合戦において、阿波の諸将、一族とともに戦死した。
その後、天正13年(1585)、入国した蜂須賀家政は、阿波国内の要地9カ所に城塁構築を命じ、手勢300人を置いて守らせた、いわゆる阿波九城の一つの川島城址は、この地である。
この川島城の城番には、家老職林図書亮能勝(後、道感(閑)と号し禄高5,500石)を用いた。
しかし、元和元年(1615)幕府の出した一国一城令により、寛永15年(1638)、他の八城とともに廃城となった。”
【写真左】模擬天守から西方に本丸跡方面を見る。
写真に見える川は吉野川で、この辺りで少し北に蛇行している。
写真の右の林の中に「川島神社」本殿の屋根が見えるが、本丸跡はさらにその先にある。
また、もうひとつの史料②も紹介しておくが、これは1992年10月30日付、徳島読売新聞に掲載されたものである。
“川島城の歴史
姿を現したのは元亀3年(1572)のことで、織田信長が足利義昭を追放し、15代続いた室町幕府が崩壊した前年、大きな変革期に差し掛かろうとしていた時代である。
それは、細川和氏が阿波国(徳島)を支配下に治めた建武元年(1334)にさかのぼる。南北朝から室町時代を経て、世は群雄割拠の戦国時代へと移り、細川氏は天文22年(1553)家臣三好長慶に滅ぼされる。9年後の3月、長慶と弟の義賢は泉州・久保田(大阪府岸和田市)に兵をすすめたが、討死した。
そして、元亀3年(1572)の川島合戦。上桜城の城主で三好氏の重臣・篠原長房と義賢の長子・長治が争い、篠原氏が敗れ去った。その年三好氏の家臣・川島兵衛之進が、上桜城の北に位置する標高50m余の丘陵に川島城を造った。本丸に二の丸、三の丸を擁した要塞だったとされる。
【写真左】川島神社
模擬天守の西側に建立されている。
祭神は誉田別天皇、天日鷲命、菅原道真。
現地にある縁起を一部抜粋しておく。
“…寛永6年(1629)再興の棟札には、河島保内八幡宮とあり、中古より河島保の領主や地頭、河島城主の崇敬が厚かった社である。
文禄3年(1594)河島城主林帯刀入道道閑が朝鮮征伐凱旋の折に刀剣・馬具等を奉納した記録があり、…”
当社はもと宮島字宮の本に鎮座していた浮島八幡宮を中心に、旧川島町内の神社を合併して、大正5年10月に現在地に建立したという。
だが、川島氏はわずか7年後、土佐の長宗我部元親に追われることになる。江戸時代になって初代阿波藩主・蜂須賀家政が修復したが、幕府の「一国一城令」で寛永15年(1638)、廃城においこまれてしまう。
四層の天守閣が同じ地に蘇るのは、それから340年余たった昭和56年4月のことである。
往時の川島城を伝える史料はなく、現在の城は、全くの架空の形で、戦乱の世に武を誇ったイメージはみじんもない。しかし、眼下に望見できる四国三郎の流れは、波乱に満ちたこの城の歴史を静かに語りかけているようで、「兵(つわもの)どもが夢のあと」をしのばせる雄大な風景である。
1992年10月30日 徳島読売新聞 記事引用”
【写真左】神社付近の段差
模擬天守や神社が建てられるころ、相当改変されたかもしれないが、写真のような高低差のあるところは、当時の郭・切崖の跡かもしれない。
阿波九城
史料①にある「阿波九城」とは、天正15年(1585)、蜂須賀家政が入国した際、下記の城を要塞とし阿波九城とした。
川島氏の在城期間が7年ということならば、記録関係文書などはやはり残っている可能性は少ないだろう。
なお、「天正7年(1579)12月の岩倉合戦」に関係する「岩倉城」については、いずれ日を改めて投稿したい。(下段関連投稿参照)
●所在地 徳島県吉野川市川島町川島
●築城期 元亀3年(1572)
●築城者 川島兵衛之進
●城主 川島惟忠、林能勝
●廃城年 寛永15年(1638)
●遺構 郭
●指定 吉野川市指定史跡
●登城日 2011年6月25日
◆解説(参考文献「現地の史料等」)
前稿の美作上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)で紹介したように、川島氏が阿波国に築いた「川島城」を取り上げる。
なお、投稿日を6月11日としているのは、先に紹介した「上ノ殿城」の投稿日に続けたほうがよいと判断したためで、実際に登城したのは、冒頭に示したように6月25日である。
【写真左】川島城の模擬天守・その1
昭和56年に竣工した模擬天守。
戦国期にあった本丸跡の場所は、この位置から西に向かった「岩の鼻」という吉野川岸付近で、残念ながら当日その場所を踏査していないが、これも「城格放浪記」さんが紹介しているのでご覧いただきたい。
現地に置かれた史料①より
“川島城の概説
元亀3年(1572)の川島合戦後、細川家家臣川島兵衛之進は、天正7年(1579)12月岩倉合戦において、阿波の諸将、一族とともに戦死した。
その後、天正13年(1585)、入国した蜂須賀家政は、阿波国内の要地9カ所に城塁構築を命じ、手勢300人を置いて守らせた、いわゆる阿波九城の一つの川島城址は、この地である。
この川島城の城番には、家老職林図書亮能勝(後、道感(閑)と号し禄高5,500石)を用いた。
しかし、元和元年(1615)幕府の出した一国一城令により、寛永15年(1638)、他の八城とともに廃城となった。”
【写真左】模擬天守から西方に本丸跡方面を見る。
写真に見える川は吉野川で、この辺りで少し北に蛇行している。
写真の右の林の中に「川島神社」本殿の屋根が見えるが、本丸跡はさらにその先にある。
また、もうひとつの史料②も紹介しておくが、これは1992年10月30日付、徳島読売新聞に掲載されたものである。
“川島城の歴史
姿を現したのは元亀3年(1572)のことで、織田信長が足利義昭を追放し、15代続いた室町幕府が崩壊した前年、大きな変革期に差し掛かろうとしていた時代である。
それは、細川和氏が阿波国(徳島)を支配下に治めた建武元年(1334)にさかのぼる。南北朝から室町時代を経て、世は群雄割拠の戦国時代へと移り、細川氏は天文22年(1553)家臣三好長慶に滅ぼされる。9年後の3月、長慶と弟の義賢は泉州・久保田(大阪府岸和田市)に兵をすすめたが、討死した。
そして、元亀3年(1572)の川島合戦。上桜城の城主で三好氏の重臣・篠原長房と義賢の長子・長治が争い、篠原氏が敗れ去った。その年三好氏の家臣・川島兵衛之進が、上桜城の北に位置する標高50m余の丘陵に川島城を造った。本丸に二の丸、三の丸を擁した要塞だったとされる。
【写真左】川島神社
模擬天守の西側に建立されている。
祭神は誉田別天皇、天日鷲命、菅原道真。
現地にある縁起を一部抜粋しておく。
“…寛永6年(1629)再興の棟札には、河島保内八幡宮とあり、中古より河島保の領主や地頭、河島城主の崇敬が厚かった社である。
文禄3年(1594)河島城主林帯刀入道道閑が朝鮮征伐凱旋の折に刀剣・馬具等を奉納した記録があり、…”
当社はもと宮島字宮の本に鎮座していた浮島八幡宮を中心に、旧川島町内の神社を合併して、大正5年10月に現在地に建立したという。
だが、川島氏はわずか7年後、土佐の長宗我部元親に追われることになる。江戸時代になって初代阿波藩主・蜂須賀家政が修復したが、幕府の「一国一城令」で寛永15年(1638)、廃城においこまれてしまう。
四層の天守閣が同じ地に蘇るのは、それから340年余たった昭和56年4月のことである。
往時の川島城を伝える史料はなく、現在の城は、全くの架空の形で、戦乱の世に武を誇ったイメージはみじんもない。しかし、眼下に望見できる四国三郎の流れは、波乱に満ちたこの城の歴史を静かに語りかけているようで、「兵(つわもの)どもが夢のあと」をしのばせる雄大な風景である。
1992年10月30日 徳島読売新聞 記事引用”
【写真左】神社付近の段差
模擬天守や神社が建てられるころ、相当改変されたかもしれないが、写真のような高低差のあるところは、当時の郭・切崖の跡かもしれない。
阿波九城
史料①にある「阿波九城」とは、天正15年(1585)、蜂須賀家政が入国した際、下記の城を要塞とし阿波九城とした。
- 一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)
- 撫養城(徳島県鳴門市撫養町林崎)
- 西条城 阿波市吉野町西条
- 川島城 吉野川市川島町川島
- 池田・大西城(徳島県三好市池田町上野)
- 海部城 海部郡海陽町
- 牛岐(うしき)城 阿南市富岡町殿町
- 脇城 美馬市脇町大字脇町
- 仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)
川島氏の在城期間が7年ということならば、記録関係文書などはやはり残っている可能性は少ないだろう。
なお、「天正7年(1579)12月の岩倉合戦」に関係する「岩倉城」については、いずれ日を改めて投稿したい。(下段関連投稿参照)
【写真左】表示板
「いこいの広場川島城」とあり、その下に標高37.42mとある。
本丸跡が河岸にあったとされるが、おそらく現在の模擬天守・川島神社も含めた区域も、当時の城域だったものと思われる。
【写真左】模擬天守・その2
受付には人がいないが、時間内なら自由に入場できる。
各階は研修室などがあり、最上階に若干の展示物があるが、ほとんど戦国期のものはないようだ。
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「いこいの広場川島城」とあり、その下に標高37.42mとある。
本丸跡が河岸にあったとされるが、おそらく現在の模擬天守・川島神社も含めた区域も、当時の城域だったものと思われる。
【写真左】模擬天守・その2
受付には人がいないが、時間内なら自由に入場できる。
各階は研修室などがあり、最上階に若干の展示物があるが、ほとんど戦国期のものはないようだ。
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