高越山城(たかこしやまじょう)
●所在地 岡山県井原市東江原
●築城期 弘安4年(1281)か
●築城者 宇都宮貞綱
●形態 回字形縄張
●城主 伊勢氏など
●標高 160m
●遺構 郭・古墳等
●登城日 2011年6月15日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
今月紹介した「亀迫城」(6月19日投稿)のある西江原町から小田川沿いに東へ3キロほど下って東江原町に入ると、北方に高越山(h172m)がみえる。
この山に北条早雲生誕の地としてされる「高越山城」がある。
【写真左】高越山城遠望
西側からみたもの
現地の説明板より
“高越城と北条早雲
高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて造らせたと伝えています。
戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、この高越城を居城にしていました。
伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享4年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。
新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれています。その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。
【写真上】案内図
当地には写真にあるような案内図が数カ所配置されている。
高越山城はこの図の中央右に書かれているが、この図では他の史跡として、白美城・泉山城・米持城・法泉寺・太刀洗・小丸・弓場などが紹介されている。
このうち、米持城は、「城格放浪記」さんが紹介しているので、御覧頂きたい(管理人も現地を訪れたが藪こぎで断念した)。
新九郎は、この今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、86歳で亡くなるまで、北条5代100年の関東支配の基礎をつくり、戦国大名の魁(さきがけ)となりました。
現在も高越城は、山陽道、小田川を眼下に、本丸も含めて5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめています。
平成12年3月 井原市・井原市教育委員会”
【写真上】高越城址公園総合案内図
高越山城を含む周辺は、写真にあるように、公園となって整備されている。
左側の駐車場に車を停め、そこから数百メートル歩いて行くと、右側にあるような城域にたどり着く。
備中・伊勢氏
説明板にもあるように、戦国期小田原を本拠とした北条氏の始祖とされる北条早雲が、当地荏原の出身であることが記されているが、高越山城に在城した期間は短いもののようである。
備中伊勢氏となったのは、室町時代の享徳2年(1453)、伊勢新左衛門尉行長が当地東荏原を含む6庄300貫を領知して、伊勢国よりこの地に入ったことから始まる。
【写真左】登城口付近
駐車場から南に歩いて行くと、写真にあるように分岐点があり、左側の上り道を行く。
奥に見える門は、「冠門」。
その後、豊後守・新左衛門貞春・兵庫助貞勝と続き、後裔の貞信の代に至った天文9~10年(1540~41)、尼子氏の南下政策を阻止し、又五郎は永禄9年(1566)に毛利氏に従って、出雲富田城攻めに参加し、当地で戦死を遂げたといわれる。
備中伊勢氏が没落したのは、その後と思われるが、天正9年(1581)に鬼身城主宍戸安芸守(毛利氏)の持城となり、木原平内・神田六兵衛らが在城したという。
廃城は、慶長5年(1600)で、徳川家康の命によって当地を治めた小堀新助・左衛門の治所となった。
【写真左】「四の郭」から「一の郭」を見る
写真下の郭(四の郭)の更に南下には、「五の郭」がある。
また「四の郭」とほぼ同程度の高さで東側に「二の郭」があるが、この日は草丈が高く踏査していない。
「四の郭」から本丸となる「一の郭」までの高さは6,7m程度ある。
【写真左】「一の郭」
「一の郭」はほぼ長方形の形をなし、縦15m×横10m程度の規模。
写真に見える赤い幟は「北条早雲生誕の地」と書かれたもので、現地の要所に数本建っていた。
【写真左】「北条早雲生誕之地」と刻銘された石碑
一の郭中央部(主郭か)はさらに高くなったところがあるが、ここに写真にある石碑や、「忠魂碑」などが建立されている。
【写真左】主郭から「一の郭」を見る
さきほどの石碑のあるところからみたもの。
なお、この高越山の公園には桜の木などが多く植樹されているようで、春になるとおそらく見事な花を咲かせるだろう。
【写真左】東麓を見る
おそらくこの写真の中に「米持城」が入っていると思われるが、どのあたりかわからない。
【写真左】南西方向を見る
写真上の左側の山地を越えると笠岡市に入る。
●所在地 岡山県井原市東江原
●築城期 弘安4年(1281)か
●築城者 宇都宮貞綱
●形態 回字形縄張
●城主 伊勢氏など
●標高 160m
●遺構 郭・古墳等
●登城日 2011年6月15日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
今月紹介した「亀迫城」(6月19日投稿)のある西江原町から小田川沿いに東へ3キロほど下って東江原町に入ると、北方に高越山(h172m)がみえる。
この山に北条早雲生誕の地としてされる「高越山城」がある。
【写真左】高越山城遠望
西側からみたもの
現地の説明板より
“高越城と北条早雲
高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて造らせたと伝えています。
戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、この高越城を居城にしていました。
伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享4年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。
新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれています。その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。
【写真上】案内図
当地には写真にあるような案内図が数カ所配置されている。
高越山城はこの図の中央右に書かれているが、この図では他の史跡として、白美城・泉山城・米持城・法泉寺・太刀洗・小丸・弓場などが紹介されている。
このうち、米持城は、「城格放浪記」さんが紹介しているので、御覧頂きたい(管理人も現地を訪れたが藪こぎで断念した)。
新九郎は、この今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、86歳で亡くなるまで、北条5代100年の関東支配の基礎をつくり、戦国大名の魁(さきがけ)となりました。
現在も高越城は、山陽道、小田川を眼下に、本丸も含めて5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめています。
平成12年3月 井原市・井原市教育委員会”
【写真上】高越城址公園総合案内図
高越山城を含む周辺は、写真にあるように、公園となって整備されている。
左側の駐車場に車を停め、そこから数百メートル歩いて行くと、右側にあるような城域にたどり着く。
備中・伊勢氏
説明板にもあるように、戦国期小田原を本拠とした北条氏の始祖とされる北条早雲が、当地荏原の出身であることが記されているが、高越山城に在城した期間は短いもののようである。
備中伊勢氏となったのは、室町時代の享徳2年(1453)、伊勢新左衛門尉行長が当地東荏原を含む6庄300貫を領知して、伊勢国よりこの地に入ったことから始まる。
【写真左】登城口付近
駐車場から南に歩いて行くと、写真にあるように分岐点があり、左側の上り道を行く。
奥に見える門は、「冠門」。
その後、豊後守・新左衛門貞春・兵庫助貞勝と続き、後裔の貞信の代に至った天文9~10年(1540~41)、尼子氏の南下政策を阻止し、又五郎は永禄9年(1566)に毛利氏に従って、出雲富田城攻めに参加し、当地で戦死を遂げたといわれる。
備中伊勢氏が没落したのは、その後と思われるが、天正9年(1581)に鬼身城主宍戸安芸守(毛利氏)の持城となり、木原平内・神田六兵衛らが在城したという。
廃城は、慶長5年(1600)で、徳川家康の命によって当地を治めた小堀新助・左衛門の治所となった。
【写真左】「四の郭」から「一の郭」を見る
写真下の郭(四の郭)の更に南下には、「五の郭」がある。
また「四の郭」とほぼ同程度の高さで東側に「二の郭」があるが、この日は草丈が高く踏査していない。
「四の郭」から本丸となる「一の郭」までの高さは6,7m程度ある。
【写真左】「一の郭」
「一の郭」はほぼ長方形の形をなし、縦15m×横10m程度の規模。
写真に見える赤い幟は「北条早雲生誕の地」と書かれたもので、現地の要所に数本建っていた。
【写真左】「北条早雲生誕之地」と刻銘された石碑
一の郭中央部(主郭か)はさらに高くなったところがあるが、ここに写真にある石碑や、「忠魂碑」などが建立されている。
【写真左】主郭から「一の郭」を見る
さきほどの石碑のあるところからみたもの。
なお、この高越山の公園には桜の木などが多く植樹されているようで、春になるとおそらく見事な花を咲かせるだろう。
【写真左】東麓を見る
おそらくこの写真の中に「米持城」が入っていると思われるが、どのあたりかわからない。
【写真左】南西方向を見る
写真上の左側の山地を越えると笠岡市に入る。
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