2011年6月22日水曜日

幸山城(岡山県総社市清音三因)・その1

幸山城(こうざんじょう)・その1

●所在地 岡山県総社市清音三因
●築城期 延慶年間(1308~11)
●築城者 荘(庄)左衛門四郎資房
●城主 石川氏・清水氏
●形態 一城別郭
●遺構 2郭・堀切・櫓台・土塁
●高さ 標高165m
●別名 高山城・甲山城
●登城日 2011年5月24日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 旧都窪郡山手村西郡・清音村にあった山城で、高梁川を西麓に望み、東方には備中国分寺跡が俯瞰できる。
【写真左】幸山城遠望
 北西麓にある「ふれあい広場」という場所からみたもの。









 築城期が延慶年間(1308~11)といわれているので、元寇による「文永の役」及び「弘安の役」によって、鎌倉幕府が莫大な財政支出を被り、御家人の恩賞を与えることができず、「永仁の徳政令」などを発布するも、却って信用を失っていくころである。

 朝廷では、持明院統と大覚寺統が分裂し、その後、醍醐天皇が即位(1318)し、倒幕を図ることになる。
【写真上】配置図
 現地の要所ごとに置かれている地図で、左側が北を示す。
 幸山城は、同図の左上にあり、ここから南に縦走して福山城に向かうコースも図示されている。


現地の説明板より

“幸山城跡(山手村指定史跡)

 幸山城は、別名を甲山城または高山城ともいう。福山の北登山道の中腹から分かれた山塊(標高162m)に立地している。頂上からの展望は、東西ともに旧山陽道を一望におさめる要害である。

 鎌倉期の後半頃荘資房によって築城されたといわれる。その後、応永年間に石川氏の居城となった。細川氏の被官であり、また、吉備津神社の社務代である石川氏は、備中南部での有力な武将であった。

 永禄10年(1567)の明禅寺合戦で、石川久智は戦死した。その子の久式のとき、毛利氏と松山城主三村元親との戦乱に当たり、久式は義兄の元親を救援するため、松山に出陣したが、利あらず逃れて幸山城下に帰り自刃した。時に天正3年(1575)であった。

 かくして、毛利氏の領国支配のもとで、清水宗治等が一時居城し、廃城となった。
【写真左】登城路
 ふれあい広場からしばらく歩くと、御覧のような登城路となる。この付近には、天神古墳群73基、山地古墳群9基などの遺跡などもある。

 この城の縄張は、東の曲輪と西の曲輪とに分かれている。福山の北西の中腹から大きな堀切を下りて、急峻な斜面を登ると巨石がある。その巨石のところから東の曲輪の平坦部が開けている。

 三日月形の地形で、南側が約40m、東側が約50m、北側は次第に傾斜して、西曲輪との間の大きな堀切に続いている。南側と東側には土塁状の高まりがあり、場所によっては高さ2mもあるところがある。

 西の曲輪との間の堀切は、幅30m、深さ4mの大きなものである。西の曲輪は東西40m×南北30mの不整形な楕円状である。巨石が数個露呈している。南の端に低い土塁遺構が残っている。
平成6年3月
 山手村教育委員会
 山手村文化財保護委員会”
【写真左】幸山城と福山城方面との分岐点
 登城路は全体に整備されているが、この日は前日降った雨のため、ところどころがぬかるんでいたため、滑りやすい場所もある。
 写真の左方面に行くと、幸山城に向い、右に行くと福山城方面へのルートになる。



荘左衛門四郎資房と陶山藤三義高

 さて、幸山城の築城者とされる荘左衛門四郎資房は、正慶2年(元弘3年:1333)六波羅が攻められ、北条仲時が近江番場で自刃したとき、432人とともに、あとを追ったという。

 これは、今月取り上げた笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)の築城者・陶山藤三義高と全く同じで、おそらく同国(備中国)出身者であったから、二人は知友の中であったかもしれない。

 荘四郎資房が亡くなった後、おそらく嫡男であろう荘七郎資氏が、翌年から文和元年(正平7年:1352)まで当城に在城したとある。それから約40年の間、城主が不明だが、応永年間(1394~1428)のころは、石川氏が当主となった。

 このころの備中守護は細川氏で、管領細川氏の庶流であるが、応永年から室町中期の応仁・文明の乱までの間、同氏が満之・頼重・氏久・勝久と代々世襲している。この間、幸山城も含め、守護代にあったのは、この荘氏と石川氏である。城主の交代は守護細川氏の命によるものだろう。
【写真左】東の丸
 登城ルートは南側から登っていくが、最初に出てくるのは「東の丸」である。
 写真は東の丸中央部付近で、御覧の通り郭部の樹木はほとんど伐採されている。

 写真左方向に向かうと、一旦5,6m程度下がり平坦地がある。その先に堀切跡と思われる窪みがあるが、あり「西の丸」に向かう。


城主・石川氏

 石川氏は清和源氏の系譜を持ち、吉備津神社の社務代をつとめ、細川氏の信任を厚く受け、幸山城主として、応永年間から天正2年(1574)まで約150年間の長きにわたって、備中南域を治めて行く。以下、幸山城主としての石川氏代々の名を記す。
  1. 豊後守沙弥道寿
  2. 源左衛門尉
  3. 掃部助久経
  4. 源三
  5. 通経
  6. 家久
  7. 久智
  8. 久式  (天正2年:1574)
石川氏の没落の経緯は説明板の通りだが、最後の久式が備中松山城へ支援に行く前の元亀年間(1570~73)にかけて、出雲の尼子氏が南下政策を開始し、当城にも押し寄せたとある。これについては、次稿で述べたい。
【写真左】切崖
 東の丸の西側に連続する切崖。
 東の丸西端部から西の丸の接続箇所にかけて一段と険しい切崖となっている。




幸山城の構造

 規模はさほど大きなものではないが、いずれ取り上げる予定の福山城と地続きの位置にあって、冒頭でも示したように標高の割に比高が確保され、特に北端部の西側は嶮しい切崖を構成し、文字通り天険の要害である。

 遺構部分には、松や杉などが植えられていたが、昨今ほとんどの樹木が伐採されたようで、二つの郭(東の郭・西の郭)の見通しがよくなった。
【写真左】東の丸の土塁
 南側に構築されているもので、写真にあるように途中で土塁が分断されている。
 東側のものは長さ25m前後、西側のものは10m程度。何れも高さは2m弱。
【写真左】東の丸から西の丸を見る
 東の丸の西北端からみたもので、文字通り一城別郭であることが分かる。

 二つの丸の規模もほぼ同程度のもので、戦略的には、手前になる東の丸が主郭の機能を持っていたように思える。
【写真左】西の丸・その1
 東の丸に比べて伐採された樹木の片づけが行き届いているせいか、見通しがよい。
【写真左】西の丸・その2
 北端部から南方をみたもので、写真の奥(南)には福山城が控えている。

 西の丸には写真にあるような巨石が点在している。戦の際こうした巨石も使われたかもしれない。
【写真左】西の丸から東麓に備中国分寺を見る。
 写真中央の上部に国分寺跡の五重塔が見える。

【写真左】北に鬼ノ城を見る
 写真中央の山に古代朝鮮式山城といわれている「鬼ノ城(h400m)」が見える。
 当城については未投稿だが、いずれ取り上げたい。

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