幸山城・その2
●所在地 岡山県総社市清音三因
◆解説
今稿は、前稿で少し触れたように、元亀年間に尼子氏による南下政策によって、幸山城へ攻め込んだとする記録について検証してみたい。
【写真左】西の丸
元亀年間の尼子氏による幸山城攻め
前稿で紹介した幸山城の現地にある説明板には、もうひとつのものがある。ここでは、前稿と重複する部分は省略して転記する。
“幸山城
………(前文省略)……
石川は吉備津神社の社務代の要職を務め守護代となり、総社宮の造営にも関係した。元亀2年、幸山城は城主久式が不在のとき、尼子晴久に攻められ、石川勢は尼子勢に屈服した。
しかし、九州から帰った久式は、毛利の援助で幸山城を奪還した。その後、毛利と三村の間が断絶となり、毛利勢は松山城を包囲、久式は松山城主の三村元親が義兄のため、300余騎を連れて援護した。
しかし、元親は切腹、久式は逃れ帰ったが幸山城は落城、家老の家へ立ち寄ったが毛利勢に囲まれ、切腹して19歳の最期を遂げた。天正3年6月23日”
【写真左】西の丸に設置された説明板(その1)
尼子晴久の生存期間
さて、最初に上掲の下線個所である、「元亀2年…尼子晴久に攻められ…」とあるが、そもそも晴久は永禄3年(1560)12月に急逝ししているので、元亀2年(1571)にはこの世にいない。
同じく、度々参考にしている『日本城郭大系第13巻』(新人物往来社)でも、幸山城の項で、
「…元亀2年2月、尼子晴久は備北の諸城を制圧した。そして降伏軍を加えた連合軍が備中国主細川下野守を片島に攻め、ついで酒津城主高橋氏を降し、勢いに任せて幸山城へ攻めかかった。…」
と記されているが、同様に錯誤であり、このころ活躍するのは、還俗した勝久(新宮党の遺児)と、西国の麒麟児・山中鹿助幸盛である。
【写真左】西の丸に設置された説明板(その2)
元亀年間の尼子氏の動向
次に、幸山城に攻め入ったとされる元亀年間のころの尼子氏の動向を検証してみたい。
結論からいって、手持ちの史料が少ないため、元亀2年に尼子氏が備中国の当城に攻め入ったという記録は、管理人の知る限り、これまで確認できていない。
一般的に当時の尼子氏(再興軍)は、専ら毛利氏によって奪われた出雲国の領地奪回のため、当地及び伯耆国での戦いが間断なく行われていたという諸説が主流を占めているので、再興軍の行動範囲は、当然山陰に限定されてくる。
しかしそうした通説を覆すような、このような記録が事実とすれば、管理人に限らず、聊かの驚きを禁じ得ないだろう。
そこで、尼子再興軍が備中・幸山城に攻め入った理由はともかく、先ずは物理的に可能だったのか、という視点で考察してみたい。
先ず、『日本城郭大系第13巻』に示されている尼子氏による幸山城の攻略時期は、元亀2年2月としている。
ここで、出雲国に残る同時期の記録を時系列で列記しておく。なお、この年はいずれも元亀2年(1571)のものである。
この中で示したように、元亀2年2月の動きについての記録が出雲国においては皆無である。しかも、尼子再興軍の中心人物であった鹿助や尼子勝久などが具体的に記録に残るのは、8月以降である。
【写真左】満願寺城
島根県松江市の宍道湖北岸にあって、現在も同名の寺院が建っている。
更に、上掲した元亀2年以前の動きとして残るのは、前年(元亀元年:1570)11月29日に、尼子勝久が出雲・隠岐の兵船で、満願寺城(島根県松江市西浜佐陀町)を攻めるが、湯原春綱に撃退される(「萩閥115」)、というものがある。
こうしたことから、大胆な想像をすれば、尼子勝久や山中鹿助らは、元亀元年の12月ごろから、翌2年の6月頃までは、出雲国や伯耆国といった山陰地方には常駐しておらず、出雲国における尼子再興軍の面々は、その他の旧臣で構成されていたのではないかと考えられる。
なぜ備中国・幸山城攻めとなったか
ではここで、なぜ勝久・鹿助らが備中国へ進攻してきたのか、という疑問が当然沸いていくる。このころ、毛利氏は九州で大友方と戦う一方、備後から備中へと東上政策を図っていた。
説明板にもあるように、毛利氏に属していた幸山城主・石川氏は、このころその九州に赴き、大友方と交戦していた。当然、幸山城は手薄となっており、南方の児島氏や、北方の多治部氏などが、すきあらばと当城をうかがっていた。
おそらく、尼子方としては、そうした幸山城主石川氏以外の未だ毛利氏に与しない一族とも連合し、併せて毛利氏の東上政策を阻止しようと計画していたのかもしれない。
また、幸山城の情報については、おそらく石川氏と同じく、途中まで九州立花山城で戦っていた出雲高瀬城主・米原綱寛が再び尼子方に与し、出雲に戻った際、その情報を再興軍に伝えていたと推察される。
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●所在地 岡山県総社市清音三因
◆解説
今稿は、前稿で少し触れたように、元亀年間に尼子氏による南下政策によって、幸山城へ攻め込んだとする記録について検証してみたい。
【写真左】西の丸
元亀年間の尼子氏による幸山城攻め
前稿で紹介した幸山城の現地にある説明板には、もうひとつのものがある。ここでは、前稿と重複する部分は省略して転記する。
“幸山城
………(前文省略)……
石川は吉備津神社の社務代の要職を務め守護代となり、総社宮の造営にも関係した。元亀2年、幸山城は城主久式が不在のとき、尼子晴久に攻められ、石川勢は尼子勢に屈服した。
しかし、九州から帰った久式は、毛利の援助で幸山城を奪還した。その後、毛利と三村の間が断絶となり、毛利勢は松山城を包囲、久式は松山城主の三村元親が義兄のため、300余騎を連れて援護した。
しかし、元親は切腹、久式は逃れ帰ったが幸山城は落城、家老の家へ立ち寄ったが毛利勢に囲まれ、切腹して19歳の最期を遂げた。天正3年6月23日”
【写真左】西の丸に設置された説明板(その1)
尼子晴久の生存期間
さて、最初に上掲の下線個所である、「元亀2年…尼子晴久に攻められ…」とあるが、そもそも晴久は永禄3年(1560)12月に急逝ししているので、元亀2年(1571)にはこの世にいない。
同じく、度々参考にしている『日本城郭大系第13巻』(新人物往来社)でも、幸山城の項で、
「…元亀2年2月、尼子晴久は備北の諸城を制圧した。そして降伏軍を加えた連合軍が備中国主細川下野守を片島に攻め、ついで酒津城主高橋氏を降し、勢いに任せて幸山城へ攻めかかった。…」
と記されているが、同様に錯誤であり、このころ活躍するのは、還俗した勝久(新宮党の遺児)と、西国の麒麟児・山中鹿助幸盛である。
【写真左】西の丸に設置された説明板(その2)
元亀年間の尼子氏の動向
次に、幸山城に攻め入ったとされる元亀年間のころの尼子氏の動向を検証してみたい。
結論からいって、手持ちの史料が少ないため、元亀2年に尼子氏が備中国の当城に攻め入ったという記録は、管理人の知る限り、これまで確認できていない。
一般的に当時の尼子氏(再興軍)は、専ら毛利氏によって奪われた出雲国の領地奪回のため、当地及び伯耆国での戦いが間断なく行われていたという諸説が主流を占めているので、再興軍の行動範囲は、当然山陰に限定されてくる。
しかしそうした通説を覆すような、このような記録が事実とすれば、管理人に限らず、聊かの驚きを禁じ得ないだろう。
そこで、尼子再興軍が備中・幸山城に攻め入った理由はともかく、先ずは物理的に可能だったのか、という視点で考察してみたい。
先ず、『日本城郭大系第13巻』に示されている尼子氏による幸山城の攻略時期は、元亀2年2月としている。
ここで、出雲国に残る同時期の記録を時系列で列記しておく。なお、この年はいずれも元亀2年(1571)のものである。
- 1月19日 吉川元春、多賀元竜・長屋元定に対して、新山城(真山城:松江市)の尼子方が引き移した2艘の船の一つを奪い取り、一つを破却したこと、そしてこれに気付いた尼子方をカラカラ橋で撃破したことを、安芸国吉田へ注進すると伝える(「萩閥144」)。
- 3月19日 吉川元春、出雲国高瀬城(斐川町)を攻略し、米原綱寛が新山城へ逃走する(「萩閥55」)。
- 4月27日 毛利元就、小川元政・多根元房に対し、尼子方の船の難破と、高瀬城開城により新山城もほどなく落城するだろうと伝える(「萩閥101」)。
- 5月4日 毛利元就・輝元、多賀元竜・長屋元定に対し、4月29日に新山城からの敵勢を撃退したことを賞し、番衆を増援すると伝える(「萩閥144」)。
- 6月4日 湯原春綱、隠岐国に渡り、尼子方・隠岐弾正らを降伏させる(「萩閥115」)。
- 8月18日 吉川元春、伯耆国末石城で山中鹿助を捕らえ、寺内城を攻略する。その後鹿助は、京都へ逃走を図る。
- 8月21日 尼子方・新山城が落城、尼子勝久は隠岐国へ逃走する。
この中で示したように、元亀2年2月の動きについての記録が出雲国においては皆無である。しかも、尼子再興軍の中心人物であった鹿助や尼子勝久などが具体的に記録に残るのは、8月以降である。
【写真左】満願寺城
島根県松江市の宍道湖北岸にあって、現在も同名の寺院が建っている。
更に、上掲した元亀2年以前の動きとして残るのは、前年(元亀元年:1570)11月29日に、尼子勝久が出雲・隠岐の兵船で、満願寺城(島根県松江市西浜佐陀町)を攻めるが、湯原春綱に撃退される(「萩閥115」)、というものがある。
こうしたことから、大胆な想像をすれば、尼子勝久や山中鹿助らは、元亀元年の12月ごろから、翌2年の6月頃までは、出雲国や伯耆国といった山陰地方には常駐しておらず、出雲国における尼子再興軍の面々は、その他の旧臣で構成されていたのではないかと考えられる。
なぜ備中国・幸山城攻めとなったか
ではここで、なぜ勝久・鹿助らが備中国へ進攻してきたのか、という疑問が当然沸いていくる。このころ、毛利氏は九州で大友方と戦う一方、備後から備中へと東上政策を図っていた。
説明板にもあるように、毛利氏に属していた幸山城主・石川氏は、このころその九州に赴き、大友方と交戦していた。当然、幸山城は手薄となっており、南方の児島氏や、北方の多治部氏などが、すきあらばと当城をうかがっていた。
おそらく、尼子方としては、そうした幸山城主石川氏以外の未だ毛利氏に与しない一族とも連合し、併せて毛利氏の東上政策を阻止しようと計画していたのかもしれない。
また、幸山城の情報については、おそらく石川氏と同じく、途中まで九州立花山城で戦っていた出雲高瀬城主・米原綱寛が再び尼子方に与し、出雲に戻った際、その情報を再興軍に伝えていたと推察される。
◎関連投稿
正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)
此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内)・その1
宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)
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