2011年6月5日日曜日

竹山城(岡山県美作市下町)

竹山城(たけやまじょう)

●所在地 岡山県美作市下町
●築城期 南北朝期
●築城者 不明
●城主 新免氏等
●遺構 郭等
●高さ 標高430m/比高230m
●指定 美作市指定史跡
●登城日 2009年11月25日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 所在地である旧英田郡大原町は、最近では「武蔵の里」として有名になり、また中国自動車道の作用JCTから鳥取自動車道が、途中までながら鳥取方面に繋がり、竹山城附近の大原まで一気に向かうことができるようになった。

 この地は美作国であるが、竹山城の所在する大原は当国の東端部に当たり、隣国播磨や、北の因幡国との繋がりが強い場所である。
【写真左】竹山城遠望
 2012年4月18日撮影。
 南側から撮ったもの。
【写真左】竹山城の西の丸付近
 現在、竹山城は「城山公園」として改修され、遺構が大分消滅している。
 山頂部まで車で行くことができるので、便利ではあるが、説明板以外城砦遺構を表示したものがなく、整備されているとは言い難い。

現地の説明板より

“竹山城
 竹山城は太平記にその名が出てくる中世後期の旧吉野郡第一の山城である。
 城は東を大手とし、西を搦手とした。山の姿は北高南低、巽(たつみ)の方は竹林が繁茂しており竹山の名がついた。

 東から本丸と西の丸、その間に馬場、西の丸の西方に坊主が丸、本丸の東方に太鼓の丸がある。段郭は東方に2カ所、馬場の北方に3段ある。堀切は坊主が丸の西に1カ所、井戸の跡は東北西の3カ所、門の跡は2カ所である。
【写真左】本丸と太鼓丸付近
 手前の鉄塔が建っている平地部分が太鼓丸跡で、その奥に3,4m程度高くなったところが本丸跡。


 戦国山城の立地条件は①天然の要害、②重要地点(因幡海道を見下ろす)、③攻撃の拠点、竹山城はこの三つの条件を満たした山城である。

 大原町一帯は山陽側の赤松、山陰側の山名両氏の勢力争いが行われた土地である。新免伊賀守貞重は、山陽勢力赤松、浦上、宇喜多と結び、明応2年(1493)山王城から移ってきて、約20,000石を支配したという。

 家臣を周辺の諸城要所に配置し、その後、宗貞、宗貫の3代108年間、関ヶ原敗戦まで在城した。
 武蔵の祖父平田将監、父平田無二斎は、この城の家老であり、剣道師範役としても仕えていた。

 標高430mあるこの城跡は、町内随一の展望台であり、眼下に宿場町の面影を残す家並みと、南に武蔵生誕地宮本を望み、遠く東に美作富士と呼ばれている日名倉山、北東には岡山県最高峰後山が望まれる。
  美作市”
【写真左】本丸跡
 1年中、こういう状態ではないと思いたいが…









 竹山城については、先月の岩屋城(岡山県津山市中北上)・その1で少し触れているように、天正10年備中高松城開城によって、その後宇喜多氏が毛利から織田に属したため、織田氏と毛利氏との和平交渉で、美作国人領主らは所領境界に対し、大幅な譲歩を迫られ、このため最後まで抵抗した一族の一人が、この竹山城主であった新免弥太郎である。


赤松氏と山名氏の抗争

 竹山城の築城期については明確なものがないが、南北朝期とされている。
正平15年(1360)、細川清氏が幕府軍についていたころ、楠木正儀らの拠る河内赤坂城が彼らによって陥落する。

 美作・播磨方面では、同じ年、山名時氏が南朝方に帰順して美作へ進攻、翌年には英田郡にまで及んだ。小原城(美作市猪臥)・大野城(別名塀高城:美作市赤田)を落とした山名軍は、竹山城にも進み、同氏の属将小林重長が当城を落としたという。

 その後しばらくは山名氏の治めるところとなったが、応仁元年の乱後、山名氏が京に上った隙をついて、赤松政則が山名氏の属城を次々と落とし、竹山城を落とした後、当城には同氏の一族である宇野入道が入った。
【写真左】本丸から馬場・西の丸を見る
 本丸と西の丸の間にある馬場跡は、長さ5,60m、幅10~20m程度あり、駐車場も兼ねている。



 竹山城に新免氏が入城したのは、明応2年(1493)である。新免氏は元々赤松氏の一族で、説明板にもあるように、その後3代にわたって当城の城主となって行く。


戦国期

 天文23年(1554)、竹山城主・新免宗貞(貞重の子)のとき、以前にも紹介したように、出雲の尼子晴久らによる美作侵攻がさらに勢いをつけ、竹山城のある吉野郡を尼子氏部将の河副久盛が、三星城(岡山県美作市明見)と攻め入り、新免宗貞は一旦播磨に奔った。
【写真左】竹山城本丸から山王山城を見る
 写真の右側にある山で、新免氏が最初に居城とした山城である。
 現在工事中の鳥取自動車道のトンネルのほぼ真上に本丸がある。




 その後、宗貞は播磨の豊福教尹の支援を受けて、竹山城奪還を試みたが、翌24年に失敗に終わった。

 2年後の弘治3年(1557)、今度は豊福教尹の甥・定政の助けを受けて、再度挑戦し、尼子部将河副久盛の軍を破り、再び当城及び領地を恢復した。

 以後、新免氏は浦上・宇喜多氏の伸長にともない、赤松氏を離れ同氏らにつくようになって行く。

慶長5年の関ヶ原の戦いでは、宇喜多勢として戦うも敗れ、新免宗貫とその子宇右衛門は筑前に逃れ、後に黒田長政に仕えたという。竹山城はその段階で廃城になった。
【写真左】竹山城から南方に「武蔵の里」を見る
 写真に見えるところが、宮本武蔵の生誕地といわれているところで、武蔵に関係する史蹟が点在している。
【写真左】武蔵神社
 竹山城に登城したのは、2009年だが、武蔵の里を訪れたのは、それより前の2006年11月29日である。
【写真左】宮本武蔵の墓
 左が武蔵の墓で、右が父(平田無二斎)と母(お政)。

 ところで、宮本武蔵の出生地については、実は美作説と播磨説の二つがあり、確定はしていない。
 美作説は吉川英治の小説「宮本武蔵」で余りにも有名になったため、ほとんど当地の生まれとして巷間言われている。

 また、死去した場所については、現在の熊本県の熊本城の東方・千葉城という屋敷で亡くなったとあり、後に武蔵の遺髪が当地に持ち帰られ、供養されたという。

◎関連投稿
熊本城(熊本県熊本市中央区)
【写真左】武蔵神社(武蔵の墓)から竹山城を遠望する。
 関ヶ原の戦で新免伊賀守の手について、宇喜多方に荷担した武蔵は、戦から帰郷の途中、播州境の木戸を破って逃げた咎により、姫路城から国境の目付に来ていた武士に追われることになる。

 この地(宮本村)に帰ったものの、身を潜めていなければならなかった。武蔵が後に「二刀流」の剣豪として奥義を極めることになるが、これは、当地に祀られている讃甘(さのも)神社の神主の打ち鳴らす太鼓のバチがヒントになったといわれている。

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