鬼ノ城(きのじょう)
●所在地 岡山県総社市奥坂鬼城山
●別名 鬼城山
●高さ 400m
●築城期 不明(660年ごろか)
●築城者 不明
●城主 不明
●指定 国指定史跡
●遺構 土塁・城門・水門・石垣等
●登城日 2007年6月20日、2014年6月24日
◆解説(参考資料 岡山県古代吉備文化財センターHP等)
前稿備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)でも少し触れているが、鬼ノ城は高松城から北西へやく9キロほど向かった吉備史跡県立公園に所在する古代山城である。
【写真左】鬼ノ城
復元された西門。
現地の説明板より
“国指定史跡
鬼城山(きのじょうさん)(鬼ノ城)
昭和61年3月25日指定
鬼ノ城は標高約400mの鬼城山に築かれた壮大で堅固な古代山城です。
吉備高原の南端に位置しており、眼下の総社平野には集落が営まれ官衙(かんが)(役所)、寺院などが造営されました。また、古代の山陽道が東西に走り、吉備の津(港)から瀬戸内海への海上交通も至便であり、まさに政治、経済、交通上の要地を一望できます。
【写真左】案内図
鬼ノ城に向かう手前にウォーキングセンターという施設があり、そこに車を停めていく。
またこの周りには鬼ノ城を中心とする文化財や豊かな自然環境が残されていることから、「自然と歴史あふれるフィールドミュージアム」として位置づけされている。
【写真左】鬼ノ城配置図
文字が小さくで分かりにくいが、左のコースから進んで行くと、最初に角楼や西門が見えてくる。
鬼ノ城の山容は擂鉢を伏せたような形状をし、山頂付近はなだらかな斜面となっていますが、山の8~9合目より以下は著しく傾斜しています。この山頂部との傾斜が変化する部位に城壁が築かれ、全周約2.8kmに及んでいます。
城壁は版築(はんちく)工法により築かれた土塁が主体をなし、城門が4ヵ所、排水機能をもつ水門が6ヶ所、また石垣などにより構成されています。
【写真左】西門が見えてくる。
しばらく歩いていくと、最初に目にするのが西門である。
特に復元整備を実施している角楼(かくろう)から第0水門までの城壁は、巨大な西門や、ゆるぎなく突き固められた土塁が復元され、当時の雄大な姿や精緻な築城技術を窺うことができます。
城内はおよそ30haという広大な面積があり、これまでに礎石建物跡、溜井(水汲場)、土取場などが見つかっていますが、今後の調査によりさらに新たな発見が期待されます。
【写真左】西門・その1
西門跡は復元する前、良好な状態で遺構が残っていたらしく、その結果、12本の柱とその位置・太さ、柱間の寸法なども知ることができたという。
【写真左】西門・その2
こうした記録を基に復元されたもので、この建物はそうした点からも注目される。
このあと、時計回りに北門に向かう。
築城の時期については諸説ありますが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のために出兵した白村江(はくすきのえ)の海戦(663年)において、大敗した後、唐、新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の一つと考えられています。鬼ノ城は当時の東アジア情勢を鋭敏に反映した遺跡といえます。
平成16年1月
総社市教育委員会”
【写真左】北門・その1
現地の説明板より
“北門跡
唯一背面側にある城門です。
基本的な構造は他の西門・南門・東門と同じ掘立柱城門で、通路床面には大きな石を敷いています。規模的には大型の西門・南門に対し、東門とともにやや小型の城門です。
通路床面とその前面の地面に1.7m~2.3mの段差があり、こうした城門を朝鮮半島では「懸門(けんもん)」と呼んでいます。
門柱は本柱のみ角柱で、他は丸柱であり、柱間の寸法も異なるなど特異な組み合わせです。
【写真左】北門・その2
なお、北門に向かう途中の分岐点から右に進むと、礎石建物群跡があるが、この日は折からの雨と雷が次第に強くなってきたため向かっていない。
通路床面下には「排水溝」が設けられており、これは日本の古代山城では初の発見例です。類例に高松市の屋島城があります。
上屋については検討中であり、柱の高さは仮のものです。
平成20年3月
総社市教育委員会”
【写真左】土塁
北門からさらに北に向かったところにある。
長さは約50m近い規模のもので、大きな石が散在しているが、当時はこれらも石積されていたものだろう。
【写真左】北端部から北方を俯瞰する。
鬼ノ城の東西南北は谷を形成しているので、独立した大型の独立山塊である。
謎の鬼ノ城
当城をこれまで調査研究してきた地元にある岡山県古代吉備文化財センターによれば、当城が初めて古代山城として認識されたのは、昭和46年(1971)高橋護氏によって発表されたことによる。
その後、昭和53年(1978)から本格的な学術調査が開始され、昭和61年(1986)には国の指定史跡に認定された。以来今日に至るまで調査が続けられてきたが、特に直近では、6年間に及ぶ発掘調査をまとめた2013年度発刊の『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告236史跡 鬼城山2』で一つの区切りを迎えている。
【写真左】高石垣付近・その1
北門を過ぎて外周部を時計回りに進むと、東側に出てくるが、ここに「高石垣」及び「屏風折れの石垣」という箇所がある。
【写真左】高石垣付近・その2
ご覧のように突出した形状となっており、その先端部は絶壁となっている。
この箇所には次のような説明板がある。
“鬼ノ城
千数百年前、温羅(うら)と呼ばれる一族が朝鮮より渡来し、居住したといわれており、付近の城塁は、当時の名残だともいわれております。
また鬼ノ城一帯は、平安時代に新山、岩屋とともに山上仏教が栄え、大規模な伽藍が多数建ち並び、西方教化の中心地であったといわれています。
総社市”
【写真左】高石垣付近・その3
先端部から振り返って見る。
ごらんのように露出した岩や小石が目立つ箇所である。
【写真左】切り立つ天険の斜面
同じ場所から北東部を見たもので、左側斜面が鬼ノ城だが、この谷も深く天険の姿を見せる。
古代山城については、これまで当ブログでも数例を紹介してきているが、これほど長い期間にわたって発掘調査をしてきたところは全国でも少ないと思われる。
こうした地道な発掘調査などがされ、遺構などの概要が明らかになってきているが、残念なことに、当城の築城期が未だに確定していない。
【写真左】第5水門付近
発掘調査後、埋戻しされていて分かりにくいが、この箇所には5番目の水門跡がある。
長さ10.5m×高さ3.2mの規模を持つ。
因みに、白村江(はくすきのえ)の海戦(663年)が行われた頃の白鳳時代において登場する主な古代山城は、諸説あるものの、次のものが挙げられている。
●所在地 岡山県総社市奥坂鬼城山
●別名 鬼城山
●高さ 400m
●築城期 不明(660年ごろか)
●築城者 不明
●城主 不明
●指定 国指定史跡
●遺構 土塁・城門・水門・石垣等
●登城日 2007年6月20日、2014年6月24日
◆解説(参考資料 岡山県古代吉備文化財センターHP等)
前稿備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)でも少し触れているが、鬼ノ城は高松城から北西へやく9キロほど向かった吉備史跡県立公園に所在する古代山城である。
復元された西門。
現地の説明板より
“国指定史跡
鬼城山(きのじょうさん)(鬼ノ城)
昭和61年3月25日指定
鬼ノ城は標高約400mの鬼城山に築かれた壮大で堅固な古代山城です。
吉備高原の南端に位置しており、眼下の総社平野には集落が営まれ官衙(かんが)(役所)、寺院などが造営されました。また、古代の山陽道が東西に走り、吉備の津(港)から瀬戸内海への海上交通も至便であり、まさに政治、経済、交通上の要地を一望できます。
【写真左】案内図
鬼ノ城に向かう手前にウォーキングセンターという施設があり、そこに車を停めていく。
またこの周りには鬼ノ城を中心とする文化財や豊かな自然環境が残されていることから、「自然と歴史あふれるフィールドミュージアム」として位置づけされている。
文字が小さくで分かりにくいが、左のコースから進んで行くと、最初に角楼や西門が見えてくる。
鬼ノ城の山容は擂鉢を伏せたような形状をし、山頂付近はなだらかな斜面となっていますが、山の8~9合目より以下は著しく傾斜しています。この山頂部との傾斜が変化する部位に城壁が築かれ、全周約2.8kmに及んでいます。
城壁は版築(はんちく)工法により築かれた土塁が主体をなし、城門が4ヵ所、排水機能をもつ水門が6ヶ所、また石垣などにより構成されています。
【写真左】西門が見えてくる。
しばらく歩いていくと、最初に目にするのが西門である。
特に復元整備を実施している角楼(かくろう)から第0水門までの城壁は、巨大な西門や、ゆるぎなく突き固められた土塁が復元され、当時の雄大な姿や精緻な築城技術を窺うことができます。
城内はおよそ30haという広大な面積があり、これまでに礎石建物跡、溜井(水汲場)、土取場などが見つかっていますが、今後の調査によりさらに新たな発見が期待されます。
【写真左】西門・その1
西門跡は復元する前、良好な状態で遺構が残っていたらしく、その結果、12本の柱とその位置・太さ、柱間の寸法なども知ることができたという。
【写真左】西門・その2
こうした記録を基に復元されたもので、この建物はそうした点からも注目される。
このあと、時計回りに北門に向かう。
築城の時期については諸説ありますが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のために出兵した白村江(はくすきのえ)の海戦(663年)において、大敗した後、唐、新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の一つと考えられています。鬼ノ城は当時の東アジア情勢を鋭敏に反映した遺跡といえます。
平成16年1月
総社市教育委員会”
【写真左】北門・その1
現地の説明板より
“北門跡
唯一背面側にある城門です。
基本的な構造は他の西門・南門・東門と同じ掘立柱城門で、通路床面には大きな石を敷いています。規模的には大型の西門・南門に対し、東門とともにやや小型の城門です。
通路床面とその前面の地面に1.7m~2.3mの段差があり、こうした城門を朝鮮半島では「懸門(けんもん)」と呼んでいます。
門柱は本柱のみ角柱で、他は丸柱であり、柱間の寸法も異なるなど特異な組み合わせです。
【写真左】北門・その2
なお、北門に向かう途中の分岐点から右に進むと、礎石建物群跡があるが、この日は折からの雨と雷が次第に強くなってきたため向かっていない。
通路床面下には「排水溝」が設けられており、これは日本の古代山城では初の発見例です。類例に高松市の屋島城があります。
上屋については検討中であり、柱の高さは仮のものです。
平成20年3月
総社市教育委員会”
【写真左】土塁
北門からさらに北に向かったところにある。
長さは約50m近い規模のもので、大きな石が散在しているが、当時はこれらも石積されていたものだろう。
【写真左】北端部から北方を俯瞰する。
鬼ノ城の東西南北は谷を形成しているので、独立した大型の独立山塊である。
謎の鬼ノ城
当城をこれまで調査研究してきた地元にある岡山県古代吉備文化財センターによれば、当城が初めて古代山城として認識されたのは、昭和46年(1971)高橋護氏によって発表されたことによる。
その後、昭和53年(1978)から本格的な学術調査が開始され、昭和61年(1986)には国の指定史跡に認定された。以来今日に至るまで調査が続けられてきたが、特に直近では、6年間に及ぶ発掘調査をまとめた2013年度発刊の『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告236史跡 鬼城山2』で一つの区切りを迎えている。
【写真左】高石垣付近・その1
北門を過ぎて外周部を時計回りに進むと、東側に出てくるが、ここに「高石垣」及び「屏風折れの石垣」という箇所がある。
【写真左】高石垣付近・その2
ご覧のように突出した形状となっており、その先端部は絶壁となっている。
この箇所には次のような説明板がある。
“鬼ノ城
千数百年前、温羅(うら)と呼ばれる一族が朝鮮より渡来し、居住したといわれており、付近の城塁は、当時の名残だともいわれております。
また鬼ノ城一帯は、平安時代に新山、岩屋とともに山上仏教が栄え、大規模な伽藍が多数建ち並び、西方教化の中心地であったといわれています。
総社市”
【写真左】高石垣付近・その3
先端部から振り返って見る。
ごらんのように露出した岩や小石が目立つ箇所である。
【写真左】切り立つ天険の斜面
同じ場所から北東部を見たもので、左側斜面が鬼ノ城だが、この谷も深く天険の姿を見せる。
古代山城については、これまで当ブログでも数例を紹介してきているが、これほど長い期間にわたって発掘調査をしてきたところは全国でも少ないと思われる。
こうした地道な発掘調査などがされ、遺構などの概要が明らかになってきているが、残念なことに、当城の築城期が未だに確定していない。
【写真左】第5水門付近
発掘調査後、埋戻しされていて分かりにくいが、この箇所には5番目の水門跡がある。
長さ10.5m×高さ3.2mの規模を持つ。
因みに、白村江(はくすきのえ)の海戦(663年)が行われた頃の白鳳時代において登場する主な古代山城は、諸説あるものの、次のものが挙げられている。
- 高安城(たかやすのき) 奈良県生駒郡平群町久安寺
- 屋嶋城(香川県高松市屋島東町)
- 長門城(ながとのき) 山口県下関市(比定地不明)
- 筑前・大野城・その1(福岡県大野城市・宇美町)
- 基肄城(きいじょう) 佐賀県三養基山町小倉基山
- 金田城(かねたのき) 長崎県対馬市美津島町黒瀬城山
- 鞠智城(熊本県山鹿市菊鹿町米原)
- 茨城(いばらき) 広島県福山市蔵王町(蔵王山地域)
- 常城(つねき) 広島県府中市本山町(幡立山城参照)
- 三野城(みのじょう) 福岡県福岡市博多区美野島
- 稲積城(いなづみのき) 福岡県糸島市
- 永納山城(えいようさんじょう) 愛媛県西条市
【写真左】高石垣附近を遠望
第5水門側からさきほどの高石垣付近を遠望したもの。
石積の跡がよく分かる。
このあと東門に向かう。
【写真左】東門・その1
現地の説明板より
“東門跡
東門は、西門や南門に比べるとやや小ぶりとなる間口1間(3.3m)、奥行2間(5.6m)の城門です。
門の入口は2m以上の段差を設けた懸門構造とし、扉を入った正面には侵入を妨げる巨大な岩を利用して防御機能を高めています。
【写真左】東門・その2
この城門は、他の3門が角柱を多用するのに対し、すべて丸柱が用いられるなど、やや異なった特徴を持っています。
麓からの山道は今でも利用されていますが
鬼ノ城がつくられた当時の登城道と重複している可能性が高いようです。
平成26年3月 総社市教育委員会”
【写真左】第4水門
現状は埋戻しされたことや、雑草が繁茂しているため分かりにくいが、長さ11.7m×高さ4mの規模を持つという。
【写真左】物見台か
第4水門と第3水門の間にはごらんのような展望が利く箇所がある。
標記された遺構名はないようだが、この箇所も南方の総社市街地や瀬戸内方面への視界が広がる。
また、地面には明らかに敷石とおもわれるものが多数確認できる。
【写真左】第3水門
長さ11m×高さ2.8mの規模を持つ。
この箇所は下流部の谷の形状がよく分かる場所である。
【写真左】敷石
第3水門から南門に向かう途中にあるもので、平滑に仕上げられた方形の石が敷き詰められている。
この箇所は若干崩れているが、当時はもっと精緻な施工がなされていたものと思われる。
【写真左】南門・その1
現地の説明板より
“南門跡
南門は、間口3間(12,3m)、奥行2間(8.2m)の規模を持ち、一辺55cm前後の巨大な角柱12本で上屋を構成する大型の城門です。
【写真左】南門・その2
平面図
門の入口は2m近い段差を設けた懸門で、中央1間(約4m)を城内への通路としています。床には巨石を敷き、扉の据え付け開閉のために、丁寧に加工された門礎が両側に配されています。
【写真左】南門・その3
この城門は、細部の違いがあるものの規模・構造ともに西門と同じくし、いずれが正門なのか興味をひかれるところです。
平成26年3月
総社市教育委員会”
このあと、少し下っていくと第1,2水門がある。
【写真左】第1水門
水門出口に直接向かう道があるようだが、この日は上の歩道からしか見ていない。
水門排出口の周りに石積が残る。
【写真左】敷石と西門
ぐるっと外周を回り、西門の手前まで戻ってくると、ご覧の敷石が現れる。
現地の説明板より
“敷石
鬼ノ城では、城壁の下の面に接して板石を多数敷きつめています。幅は基本的に1.5m幅で、城内側の広いところでは5m幅になる所もあります。
敷石は多くの区間に敷かれており、総重量は数千トンにもなります。
【写真左】敷石と土塁
左側が傾斜を持たせた敷石で、中央部が高くなっている箇所は土塁でその延長線上に城壁が繋がる。
この石畳のような敷石は、通路としての役割もあるものの、敷石の傾斜などからみて、もともとは雨水等が城壁を壊すのを防ぐことを目的としたものと考えられます。
敷石は、日本の古代山城では鬼ノ城にしかなく、朝鮮半島でも数例知られるだけの珍しいものです。
特にこの区間の敷石は、鬼ノ城でも見事なところです。
平成21年3月
総社市教育委員会”
【写真左】城壁・その1
復元された城壁
現地の説明板より
“城壁
鬼ノ城は、頂上部から斜面に変わるあたりに鉢巻をしめたように2.8kmにわたって城壁が築かれています。
城壁は直線を基本とし、多少の高低差はあるものの、下幅約7m、上幅約6m、高さ約6mの規模をもち、城壁で囲まれた城内面積は約30haに及ぶ大きさです。
【写真左】城壁・その2
城壁の大部分は、土を少しずつ入れて突き固めた〝版築土塁″で、要所の6カ所には高い石垣を築いていますが、基本的には土城です。
また、城壁の上面には板塀が巡らされており、城壁の高さと一体となって攻略の難しい一大防御壁となっています。
ここには版築土塁・高石垣・水門があり、城壁の特徴をよく示している区間です。
平成21年3月
総社市教育委員会”
【写真左】城壁・その3
石積と土の両方を使った箇所がよく分かる。
【写真左】城壁・その4
振り返ってみる。
【写真左】城壁・その4
西門から左側(西側)の城壁を見る。
【写真左】西門及び城壁を遠望する。
【写真左】西門から南方を見る。
この位置からは視界が良いと、総社市街地をはじめ、西の高梁川から玉島・水島灘・福山城・瀬戸大橋・鷲羽山・讃岐富士(四国)・常山城・屋島・児島湾・小豆島・岡山市街地などが見える。
以前にも述べたが、鬼ノ城が築かれた頃は勿論、中世戦国時代にも現在田圃や宅地となっている低地は遠浅の内海であったと考えられる。
こうしたことから、鬼ノ城の目的はやはり海からの侵入を防ぐ目的で築城されたものだろう。
第5水門側からさきほどの高石垣付近を遠望したもの。
石積の跡がよく分かる。
このあと東門に向かう。
【写真左】東門・その1
現地の説明板より
“東門跡
東門は、西門や南門に比べるとやや小ぶりとなる間口1間(3.3m)、奥行2間(5.6m)の城門です。
門の入口は2m以上の段差を設けた懸門構造とし、扉を入った正面には侵入を妨げる巨大な岩を利用して防御機能を高めています。
【写真左】東門・その2
この城門は、他の3門が角柱を多用するのに対し、すべて丸柱が用いられるなど、やや異なった特徴を持っています。
麓からの山道は今でも利用されていますが
鬼ノ城がつくられた当時の登城道と重複している可能性が高いようです。
平成26年3月 総社市教育委員会”
【写真左】第4水門
現状は埋戻しされたことや、雑草が繁茂しているため分かりにくいが、長さ11.7m×高さ4mの規模を持つという。
【写真左】物見台か
第4水門と第3水門の間にはごらんのような展望が利く箇所がある。
標記された遺構名はないようだが、この箇所も南方の総社市街地や瀬戸内方面への視界が広がる。
また、地面には明らかに敷石とおもわれるものが多数確認できる。
【写真左】第3水門
長さ11m×高さ2.8mの規模を持つ。
この箇所は下流部の谷の形状がよく分かる場所である。
【写真左】敷石
第3水門から南門に向かう途中にあるもので、平滑に仕上げられた方形の石が敷き詰められている。
この箇所は若干崩れているが、当時はもっと精緻な施工がなされていたものと思われる。
【写真左】南門・その1
現地の説明板より
“南門跡
南門は、間口3間(12,3m)、奥行2間(8.2m)の規模を持ち、一辺55cm前後の巨大な角柱12本で上屋を構成する大型の城門です。
【写真左】南門・その2
平面図
門の入口は2m近い段差を設けた懸門で、中央1間(約4m)を城内への通路としています。床には巨石を敷き、扉の据え付け開閉のために、丁寧に加工された門礎が両側に配されています。
【写真左】南門・その3
この城門は、細部の違いがあるものの規模・構造ともに西門と同じくし、いずれが正門なのか興味をひかれるところです。
平成26年3月
総社市教育委員会”
このあと、少し下っていくと第1,2水門がある。
【写真左】第1水門
水門出口に直接向かう道があるようだが、この日は上の歩道からしか見ていない。
水門排出口の周りに石積が残る。
【写真左】敷石と西門
ぐるっと外周を回り、西門の手前まで戻ってくると、ご覧の敷石が現れる。
現地の説明板より
“敷石
鬼ノ城では、城壁の下の面に接して板石を多数敷きつめています。幅は基本的に1.5m幅で、城内側の広いところでは5m幅になる所もあります。
敷石は多くの区間に敷かれており、総重量は数千トンにもなります。
【写真左】敷石と土塁
左側が傾斜を持たせた敷石で、中央部が高くなっている箇所は土塁でその延長線上に城壁が繋がる。
この石畳のような敷石は、通路としての役割もあるものの、敷石の傾斜などからみて、もともとは雨水等が城壁を壊すのを防ぐことを目的としたものと考えられます。
敷石は、日本の古代山城では鬼ノ城にしかなく、朝鮮半島でも数例知られるだけの珍しいものです。
特にこの区間の敷石は、鬼ノ城でも見事なところです。
平成21年3月
総社市教育委員会”
【写真左】城壁・その1
復元された城壁
現地の説明板より
“城壁
鬼ノ城は、頂上部から斜面に変わるあたりに鉢巻をしめたように2.8kmにわたって城壁が築かれています。
城壁は直線を基本とし、多少の高低差はあるものの、下幅約7m、上幅約6m、高さ約6mの規模をもち、城壁で囲まれた城内面積は約30haに及ぶ大きさです。
【写真左】城壁・その2
城壁の大部分は、土を少しずつ入れて突き固めた〝版築土塁″で、要所の6カ所には高い石垣を築いていますが、基本的には土城です。
また、城壁の上面には板塀が巡らされており、城壁の高さと一体となって攻略の難しい一大防御壁となっています。
ここには版築土塁・高石垣・水門があり、城壁の特徴をよく示している区間です。
平成21年3月
総社市教育委員会”
【写真左】城壁・その3
石積と土の両方を使った箇所がよく分かる。
【写真左】城壁・その4
振り返ってみる。
【写真左】城壁・その4
西門から左側(西側)の城壁を見る。
【写真左】西門及び城壁を遠望する。
【写真左】西門から南方を見る。
この位置からは視界が良いと、総社市街地をはじめ、西の高梁川から玉島・水島灘・福山城・瀬戸大橋・鷲羽山・讃岐富士(四国)・常山城・屋島・児島湾・小豆島・岡山市街地などが見える。
以前にも述べたが、鬼ノ城が築かれた頃は勿論、中世戦国時代にも現在田圃や宅地となっている低地は遠浅の内海であったと考えられる。
こうしたことから、鬼ノ城の目的はやはり海からの侵入を防ぐ目的で築城されたものだろう。
こんにちは。私は韓国の出版社です。私は鬼城山のあなたの写真の1つを使用することができますか?これは私にとって非常に貴重です。あなたがあなたの写真を使用することを認める場合、私は本当に感謝しています。
返信削除前略
削除私のサイトをご覧いただきありがとうございます。私の写真があなたの出版社および韓国民のみなさんにとって有益で、また喜んでいただければ幸いです。どうぞお使いください。さらに両国の親睦が深まることを願っています。トミー拝