2019年8月29日木曜日

上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪)

上赤阪城(かみあかさかじょう)

●所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪
●別名 楠木城・小根田城・桐山城
●指定 国指定史跡
●築城者 楠木正成
●城主 楠木正成、平野将監入道、楠木正季
●備考 楠木七城
●高さ 349.7m(比高150m)
●築城期 鎌倉時代末期、元弘2年又は3年
●廃城年 延文5年/正平5年(1360)
●遺構 郭・横堀等
●登城日 2016年10月12日

解説(参考文献 『国史跡 楠木城跡 千早赤阪村埋蔵文化財調査報告書 第5輯』 2008.3 千早赤阪村教育委員会編 等)

 上赤阪城は、別名楠木城・小根田城・桐山城などといわれる。
 所在地は、同村上赤阪にあり、前稿の下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋) から東南方向へ直線距離で2キロほどの位置になる。
【写真左】上赤阪城
 本丸に建つ「楠木城址(上赤阪城)」の石碑
 眼下には富田林の市街地が眺望できる。





 ルートは、下赤阪城東麓を走る富田林五條線(705号線)を1.5キロほど南下すると、南河内グリーンロードという林道が左側に接続しているので、この道を東に1.4キロほど進む。金剛山から北西に伸びる尾根を横断するコースとなるが、しばらくすると千早赤阪村学校給食センターという施設があり、そこから南に枝分かれする農道があるので、そこを進む。数分で上赤阪城の看板などが設置された駐車場があるので、ここに車を停めて向かう。
【写真左】赤阪城塞群の配置図・その1
 上赤阪城は中央部に示されているが、前稿の下赤阪城をはじめとする赤阪城塞群はナンバリングで示している。
 それぞれの城名は下段のリストで示す。
【写真左】赤阪城塞・城名リスト
 ここでは、上赤阪城・下赤阪城・二河原辺城をはじめ、そのほか16の城名が記載されている。
 なお、千早城はこの図は示されていないが、上図に示したように城塞群からは距離はだいぶ離れ、金剛山に近い位置に所在している(千早城については、次稿で取り上げる予定)。










現地の説明板より

”国史跡 楠木城跡(上赤阪城跡)

 標高349.7m。比高150m。自然の険しい地形を利用した中世山城です。小根田城(おねだじょう)・桐山城・楠木本城とも呼ばれています。鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(1294?~1336)によって築城されたといわれています。

 元弘3年(1333)、平野将監(しょうげん)と楠木正季(まさすえ)は、多勢の鎌倉幕府軍相手に奮戦しましたが、水路を断たれ陥落しました。糞尿を敵にかけた奇策は「糞谷(くそんだ)」という地名になって残っています。合戦の様子は『太平記』からもうかがえます。
【写真左】上赤阪城案内図
 上方が北を示す。現在地というところが駐車場で、2,3台程度のスペースが確保されている。







 城の遺構は、曲輪・堀切・竪堀・横堀で構成されています。とくに、大手前と搦手にある堀切群は堀を二重にしたおおがかりなもので、大手前の「そろばん橋」は特徴的です。遺構からみると戦国時代に改修されていますが、それ以前と考えられる遺構も残っています。この場所には「一の木戸」がありました。
 昭和9年3月に国史跡に指定されました。
    千早赤阪村”
【写真左】登城開始
 左に見える道は林道だが、上赤阪城へ向かう道ではない。
 なお、この位置に「本丸まで20分」と書かれていたが、管理人の足では30分以上かかった。



平野将監と楠木正季

 上赤阪城の築城期については明確な史料は残っていないが、当時の状況から考えて、前稿の下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋) の後に築かれた可能性が高い。

 当城の城主とされているのが、平野将監と楠木正季である。城将が将監で、正季は副将だったという。これは正成の命によるものだろう。正季は正成の実弟であるが、平野将監は別名重吉ともいわれている。
【写真左】一の木戸付近
 登城口から少し進むと、一の木戸が出てくる。

 看板を確認できなかったが、木戸とは城門のことだが、いかにも両側から敵を監視できそうな状況である。



 将監が正成と接触を持った時期ははっきりしないが、もともと持明院統に仕える西園寺公宗(黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)参照) の家人といわれ、さらには大覚寺統に縁のある僧ともつながりを持っていた。

 西園寺家は代々朝廷側の窓口として、鎌倉幕府との調停役、すなわち関東申次(もうしつぎ)を行っていた家柄である。
【写真左】二の木戸
 一の木戸からおよそ50mほど登ったところにある。当城では本丸までに4か所の木戸があったとされる。

 上段でしめした城塞群配置でもわかるように、このあたりでは東側に足谷川を挟んで「二河原辺城」、西側には「一番のきり城」及び「首切り場」を望むことができるようだが、どの方向かよくわからなかった。


 元徳2年(1330)9月、尼崎住人教念・江三入道教性を首謀者とした摂津・河内・大和に及ぶ数千人の悪党が、東大寺領摂津国長洲荘(兵庫県尼崎市)に乱入、六波羅の軍勢と合戦に及ぶという事件が起こった(『宝珠院文書』)。

 平野将監入道は、教念・教性に与同した約40人の悪党の首領の一人であったという。将監に限らず、このころ後醍醐天皇の倒幕に向けた動きがあり、これらの動きと連動するものは他にもあったようで、将監が後醍醐天皇、大覚寺統、公家衆らと持っていたネットワークがここにきて具体的に一気に動き出したものと思われる。

 なお、上赤阪城は落城し、将監をはじめとする城兵は幕府軍に投降することになるが、その後京都の六条河原で処刑された。その数は将監をはじめ282人だったという。
【写真左】三の木戸
 一の木戸から250mほど進むと、三の木戸がある。そしてここを過ぎると「そろばん橋」「四の木戸」などが控える。
【写真左】そろばん橋付近
 標記されたものはなかったが、おそらくここがそろばん橋だろう。

 「そろばん」という俗名がつけられているが、実際には東側斜面に構築された畝状竪堀群と土橋が併設されたものと思われる。
 もっとも現地は草木に覆われて確認することはできなかった。
【写真左】四の木戸付近
 上の「そろばん橋」正面にみえる切岸状斜面から少し奥に向かった位置で、標記はなかったが、この辺りが四の木戸付近と思われる。
【写真左】郭段
 四の木戸付近から東側尾根には郭段が見え始める。
 二の丸側から伸びてきたものだが、この日はついうっかりして、二の丸側を踏査することを忘れてしまった。
【写真左】西側の谷
 登城途中の右側(西側)を見たもので、雑草が生い茂った景色だが、何となく近年まで棚田だったような段差が確認できる。
【写真左】ここで右折
 この標識が見えたので、素直に曲がったが、実は左側に進むと二の丸にむかうことができた。
【写真左】茶碗原
 上の標識部分からこの辺りは削平された平坦地で、「茶碗原」という郭。
 おそらく屋敷などがあった場所なのだろう。

 西の本丸側に向かっておよそ70mほど続く。
【写真左】本丸の案内標識が見えてきた。
 茶碗原は3段程度の高低差を持たせているが、緩い傾斜なのでこの付近でだいぶ呼吸が楽になる。
【写真左】本丸方面と金剛山ルートの分岐点。
 茶碗原の西端部から本丸に向けて直登しようと思えばできそうだが、南側にしっかりとした道があるのでこれを使う。

 途中で左側に金剛山に向かう道が分岐している。
 もっとも金剛山までは相当な距離があり、途中で猫路山城・坊領山城を経由することなる。
【写真左】井戸跡か?
 本丸に向かう途中で見つけたもので、かなり深い窪み。似たようなものがもう一か所あった。

 位置的にはこの辺りに設置されていると理想的だろう。
【写真左】本丸南端部
 本丸は南北におよそ80mの長さをもつ。手前は千畳敷といわれる個所で、ここから北に向かう。
【写真左】本丸に建つ石碑
北端部には、冒頭で紹介した「楠木城跡」と刻銘された石碑とは別に「上赤阪城址」の石碑も建つ。
【写真左】本丸から北西方向を俯瞰する。
 この位置からは地元の千早赤阪村より、石川を挟んだ対岸の富田林市の方がよく見える。

 このあと本丸を囲む帯郭側に降りる。
【写真左】帯郭
 本丸の南端部には腰郭が付随しているが、そこからは独立して西側から帯郭が本丸を囲む。

 西側から本丸北側を通り、東側の1/3まで連続する帯郭で、総延長は100mを超ええるだろう。
 写真の右側が本丸の切岸。
【写真左】堀切
 下山途中に見えたもので、茶碗原の南東に伸びる尾根に築かれたもので、立木で分かりずらいが、かなり大きな規模のもの。





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