黒瀬城(くろせじょう)
●愛媛県西予市宇和町卯之町
●築城期 天文15年(1548)
●築城者 西園寺実充
●高さ 350m(比高200m)
●形態 連郭式山城
●遺構 堀切・土塁・腰郭・犬走り・井戸等
●登城日 2014年1月28日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
前稿鳥坂城(愛媛県西予市宇和町久保)から宇和川(肱川)を降っていくと、西予市街地に至る。市街地から宇和川の西岸にある運動公園の方を見ると、お椀型の山が見える。これが戦国後半期に当地を支配した西園寺氏の居城・黒瀬城である。
【写真左】黒瀬城遠望
麓にある運動公園から見たもの。
遠くからみるとなだらかな山容である。
宇和西園寺氏
宇和西園寺氏については、以前北宇和郡松野町にある河後森城でも少し紹介しているが、当地に下向したきっかけは、阿波の白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)で述べたように、承久の乱後朝廷において、幕府と強力な関係を持った摂関家の一人・西園寺氏公経(きんつね)によるところが大きい。
【写真左】説明板
大分劣化していてほとんど読めない。また縄張図も本丸までは描かれているが、東側の二の丸・三の丸などが剥離している。
嘉禎2年(1236)、幕府と強いつながりを持った前太政大臣西園寺公経は、それまで橘氏が所有していたこの宇和荘を、子息実氏の荘園として幕府から認めさせた。朝廷側で幕府と交渉に当たる公家は、関東申次(もうしつぎ)といわれ、公経はこの職を使って、次から次へと露骨に所領や利権獲得に動いた。
宇和荘を手に入れたのはこの年だが、実氏が関東申次を父から受け継いだのは寛元4(1246)で、その後西園寺氏は、・実兼・公衡(きんひら)・実衡(さねひら)・公宗と同氏嫡流がこの職を継いでいくことになる。
【写真左】登城口
南東麓にある宇和運動公園側にあり、ここから西の方へ向かってトラバースしながら徐々に比高を上げていく。
宇和に最初に下向したのは西園寺氏の庶流といわれ、当地に土着していくことになる。その後南北朝期の中先代の乱において、公宗が北条氏と通じていたため、所領を没収されるが、公宗の弟公重が兄の陰謀を密告したことにより、その功によって再び還付されたという。
そして、公重の弟といわれる公良(別説:庶流)が、初めて同氏宗家として宇和荘の松葉村へ入り、以後「松葉殿」と呼ばれ、公家大名から戦国大名へとたどることになる。
【写真左】岡城方面との分岐点
尾根ピークに着く。この位置は、黒瀬城の支城といわれた西にある岡城との分岐点になる。
この日は時間もなく、岡城の方へは向かわず、東の尾根筋にある黒瀬城へ進んだ。
松葉城から黒瀬城へ
西園寺氏が最初に居城として築城したのが、当城から市街地を挟んで北東に聳える松葉城である。松葉城の築城期ははっきりしないが、公良時代の永和2年(1376)には築城されていたといい、その後19代実光(充)の代まで続く。そして20代公家の代になって、松葉城から黒瀬城へと移った。
【写真左】堀切
黒瀬城は西側から東に向かって、本丸・二の丸・三の丸と続いている。
この日登城したコースは西側からのもので、本丸に至るまでに2か所の堀切がある。
2か所とも大分埋まってはいるが、尾根を断ち切った跡は明瞭に確認できる。
その理由は諸説あるが、このころ(戦国時代)豊後の大友氏、土佐の一条氏、さらには長宗我部氏などの勃興が激しく、松葉城より戦略的に優れた位置にあるこの黒瀬城がその条件を満たしたからだといわれている。
確かに、黒瀬城に登ってみると、宇和川(肘川)を眼下に南から東、さらに北方を視界に入れることができる。そして、黒瀬城に移ったあと、松葉城は支城としてその後も利用された。
【写真左】本丸
東西130m×南北25mという長大な規模を持つもので、圧巻である。
この先には二の丸・三の丸と続くが、本丸の南側(右)には、三の丸側から西に伸びた犬走りが本丸西端部まで来ており、北側中間点までは、下段の写真のように、二の丸の犬走り(空堀)が同じく来ている。
【写真左】空堀(犬走り)
北側(左)は当然ながら土塁構造となる。また、堀底から本丸までは平均して比高5m前後を測る。
最後の城主・公広
ところで、歴代城主名として、前記したように19代実光(充)、20代公家と記しているが、資料によっては、これが逆になっているものもある。最後の城主はこのあとを継いだ公広である。
【写真左】井戸跡
本丸(一の郭)には井戸跡が2か所残る。
長大な城域であったことを考えると、籠城に備え相当な人数(兵力)が駐屯していたのだろう。水の手の確保は、要害性と併せもっとも重要なものである。
元亀3年(1572)、西園寺公広は、土佐一条氏を攻めた。これを知った一条氏の縁戚である豊後の大友宗麟は、豊後水道を渡海して黒瀬城に攻め上った。
公広は大友氏の前に利あらずと、和睦を結んだ。そして、10年余には土佐の長宗我部氏の四国統一の前に屈し、さらには秀吉の四国征伐によって、小早川隆景に降伏、秀吉の九州征伐に従軍するも、天正15年(1587)宇和の新領主となった秀吉の家臣・戸田勝隆によって謀殺されたという。ここに名門宇和西園寺氏は、黒瀬城とともに亡ぶことになる。
【写真左】付郭
本丸を過ぎて東に進むと二の丸に至るが、その間には「付郭」という小郭がある。
本丸と二の丸の比高差はかなりあるため、途中にこの郭が設けられたものだろう。
【写真左】帯郭
前記した空堀(犬走り)の東端部に当たり、二の丸との中間点でもある。
ちなみに黒瀬城は南側の斜面は急峻なため目立った遺構は少ないが、北側は南に比べるとややなだらかである。このためこうした土塁や空堀といった遺構が東端部まで続く。
なお、この付近にも井戸跡が残る。
【写真左】二の丸
東西20m×南北15m前後の規模を持つもので、
本丸よりは大分規模は小さい。
【写真左】三の丸
二の丸を過ぎると、すぐに三の丸が控える。
東西30m×南北20m前後の規模で、中央部で少し屈曲したような形だが、このあたりから視界が広がってくる。
前述したように、この三の丸から西の本丸南側まで犬走りが伸びているが、これも含めると、長さは100m前後もあり、もっとも長大な郭といえる。
【写真左】水溜の池
三の丸の南東隅にあるもので、現在は窪み状となった遺構しか見えないが、水の手の施設として設置されたもののようだ。
【写真左】先端部
三の丸を過ぎてさらに東に下がりながら進むと、当城の東端部に至る。
見張櫓などがあったものだろう。大変に視界が広い。
【写真左】土塁
この箇所の北側面には二の丸の北側まで向かって空堀が連続し、その西端部には腰郭が配置されている。
戦略上最前線の位置にあるため、防御性を高めている。(下段の写真参照)
【写真左】空堀
上段の三の丸との段差である切崖状のものは認められないが、おそらく自然崩落したため、現在のようになだらかになったものと思われる。
【写真左】西予市(宇和町)を眺望する。
先端部には展望台のような小屋があり、ここから北東麓の西予市街地が眺望できる。
正面に控える山は、下段に示す松葉城。
【写真左】松葉城を遠望する。
西園寺氏初期の居城であった松葉城は、標高400mで、この黒瀬城が350mであるから、少し高いようだ。
【写真左】南東方面を遠望する。
●愛媛県西予市宇和町卯之町
●築城期 天文15年(1548)
●築城者 西園寺実充
●高さ 350m(比高200m)
●形態 連郭式山城
●遺構 堀切・土塁・腰郭・犬走り・井戸等
●登城日 2014年1月28日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
前稿鳥坂城(愛媛県西予市宇和町久保)から宇和川(肱川)を降っていくと、西予市街地に至る。市街地から宇和川の西岸にある運動公園の方を見ると、お椀型の山が見える。これが戦国後半期に当地を支配した西園寺氏の居城・黒瀬城である。
【写真左】黒瀬城遠望
麓にある運動公園から見たもの。
遠くからみるとなだらかな山容である。
宇和西園寺氏
宇和西園寺氏については、以前北宇和郡松野町にある河後森城でも少し紹介しているが、当地に下向したきっかけは、阿波の白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)で述べたように、承久の乱後朝廷において、幕府と強力な関係を持った摂関家の一人・西園寺氏公経(きんつね)によるところが大きい。
【写真左】説明板
大分劣化していてほとんど読めない。また縄張図も本丸までは描かれているが、東側の二の丸・三の丸などが剥離している。
嘉禎2年(1236)、幕府と強いつながりを持った前太政大臣西園寺公経は、それまで橘氏が所有していたこの宇和荘を、子息実氏の荘園として幕府から認めさせた。朝廷側で幕府と交渉に当たる公家は、関東申次(もうしつぎ)といわれ、公経はこの職を使って、次から次へと露骨に所領や利権獲得に動いた。
宇和荘を手に入れたのはこの年だが、実氏が関東申次を父から受け継いだのは寛元4(1246)で、その後西園寺氏は、・実兼・公衡(きんひら)・実衡(さねひら)・公宗と同氏嫡流がこの職を継いでいくことになる。
【写真左】登城口
南東麓にある宇和運動公園側にあり、ここから西の方へ向かってトラバースしながら徐々に比高を上げていく。
宇和に最初に下向したのは西園寺氏の庶流といわれ、当地に土着していくことになる。その後南北朝期の中先代の乱において、公宗が北条氏と通じていたため、所領を没収されるが、公宗の弟公重が兄の陰謀を密告したことにより、その功によって再び還付されたという。
そして、公重の弟といわれる公良(別説:庶流)が、初めて同氏宗家として宇和荘の松葉村へ入り、以後「松葉殿」と呼ばれ、公家大名から戦国大名へとたどることになる。
【写真左】岡城方面との分岐点
尾根ピークに着く。この位置は、黒瀬城の支城といわれた西にある岡城との分岐点になる。
この日は時間もなく、岡城の方へは向かわず、東の尾根筋にある黒瀬城へ進んだ。
松葉城から黒瀬城へ
西園寺氏が最初に居城として築城したのが、当城から市街地を挟んで北東に聳える松葉城である。松葉城の築城期ははっきりしないが、公良時代の永和2年(1376)には築城されていたといい、その後19代実光(充)の代まで続く。そして20代公家の代になって、松葉城から黒瀬城へと移った。
【写真左】堀切
黒瀬城は西側から東に向かって、本丸・二の丸・三の丸と続いている。
この日登城したコースは西側からのもので、本丸に至るまでに2か所の堀切がある。
2か所とも大分埋まってはいるが、尾根を断ち切った跡は明瞭に確認できる。
その理由は諸説あるが、このころ(戦国時代)豊後の大友氏、土佐の一条氏、さらには長宗我部氏などの勃興が激しく、松葉城より戦略的に優れた位置にあるこの黒瀬城がその条件を満たしたからだといわれている。
確かに、黒瀬城に登ってみると、宇和川(肘川)を眼下に南から東、さらに北方を視界に入れることができる。そして、黒瀬城に移ったあと、松葉城は支城としてその後も利用された。
【写真左】本丸
東西130m×南北25mという長大な規模を持つもので、圧巻である。
この先には二の丸・三の丸と続くが、本丸の南側(右)には、三の丸側から西に伸びた犬走りが本丸西端部まで来ており、北側中間点までは、下段の写真のように、二の丸の犬走り(空堀)が同じく来ている。
【写真左】空堀(犬走り)
北側(左)は当然ながら土塁構造となる。また、堀底から本丸までは平均して比高5m前後を測る。
最後の城主・公広
ところで、歴代城主名として、前記したように19代実光(充)、20代公家と記しているが、資料によっては、これが逆になっているものもある。最後の城主はこのあとを継いだ公広である。
【写真左】井戸跡
本丸(一の郭)には井戸跡が2か所残る。
長大な城域であったことを考えると、籠城に備え相当な人数(兵力)が駐屯していたのだろう。水の手の確保は、要害性と併せもっとも重要なものである。
元亀3年(1572)、西園寺公広は、土佐一条氏を攻めた。これを知った一条氏の縁戚である豊後の大友宗麟は、豊後水道を渡海して黒瀬城に攻め上った。
公広は大友氏の前に利あらずと、和睦を結んだ。そして、10年余には土佐の長宗我部氏の四国統一の前に屈し、さらには秀吉の四国征伐によって、小早川隆景に降伏、秀吉の九州征伐に従軍するも、天正15年(1587)宇和の新領主となった秀吉の家臣・戸田勝隆によって謀殺されたという。ここに名門宇和西園寺氏は、黒瀬城とともに亡ぶことになる。
【写真左】付郭
本丸を過ぎて東に進むと二の丸に至るが、その間には「付郭」という小郭がある。
本丸と二の丸の比高差はかなりあるため、途中にこの郭が設けられたものだろう。
【写真左】帯郭
前記した空堀(犬走り)の東端部に当たり、二の丸との中間点でもある。
ちなみに黒瀬城は南側の斜面は急峻なため目立った遺構は少ないが、北側は南に比べるとややなだらかである。このためこうした土塁や空堀といった遺構が東端部まで続く。
なお、この付近にも井戸跡が残る。
【写真左】二の丸
東西20m×南北15m前後の規模を持つもので、
本丸よりは大分規模は小さい。
【写真左】三の丸
二の丸を過ぎると、すぐに三の丸が控える。
東西30m×南北20m前後の規模で、中央部で少し屈曲したような形だが、このあたりから視界が広がってくる。
前述したように、この三の丸から西の本丸南側まで犬走りが伸びているが、これも含めると、長さは100m前後もあり、もっとも長大な郭といえる。
【写真左】水溜の池
三の丸の南東隅にあるもので、現在は窪み状となった遺構しか見えないが、水の手の施設として設置されたもののようだ。
【写真左】先端部
三の丸を過ぎてさらに東に下がりながら進むと、当城の東端部に至る。
見張櫓などがあったものだろう。大変に視界が広い。
【写真左】土塁
この箇所の北側面には二の丸の北側まで向かって空堀が連続し、その西端部には腰郭が配置されている。
戦略上最前線の位置にあるため、防御性を高めている。(下段の写真参照)
【写真左】空堀
上段の三の丸との段差である切崖状のものは認められないが、おそらく自然崩落したため、現在のようになだらかになったものと思われる。
【写真左】西予市(宇和町)を眺望する。
先端部には展望台のような小屋があり、ここから北東麓の西予市街地が眺望できる。
正面に控える山は、下段に示す松葉城。
【写真左】松葉城を遠望する。
西園寺氏初期の居城であった松葉城は、標高400mで、この黒瀬城が350mであるから、少し高いようだ。
【写真左】南東方面を遠望する。
0 件のコメント:
コメントを投稿