甲之森城(こうのもりじょう)
●所在地 愛媛県西予市城川町土居
●別名 かぶとのもりやま城、甲が森城
●築城期 応永年間(1394~1428)か
●築城者 紀実定
●城主 紀氏(実次)、長山伯耆守豊岡
●高さ 451m(比高251m)
●遺構 郭・石垣・空堀・井戸
●登城日 2014年1月28日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
前稿黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)から肱川沿いに東に下って行くと、野村町に入る。ここで肱川から分かれて、県道35線(野村城川線)に入り、国道197号線と合流し、城川町支所付近で分岐する城川梼原線という2号線(市道か)を進むと、土居という所に至る。
この土居の北方に聳える標高451mの山に、甲之森城がある。麓には黒瀬川(肱川支流)の支流滝川が流れ、それを遡っていくと、築城者である紀氏が当城から後に移ったとされる三滝城が控えている。
【写真左】甲が森城本丸・二の丸跡
現在、本丸・二の丸跡には電波塔の施設が建っている。
紀実定・実平
伝承では、甲之森城は紀貫之13代の孫式部卿紀実定が、伊予国周知郷北ノ川庄5,300貫を拝領して、京都より下向し築城したとされている。もっともこれを裏付ける史料が少ないため、あくまで伝承である。そして、当城主は、下記の7城と22ヶ村の太守となったといわれている。
紀氏7城
●所在地 愛媛県西予市城川町土居
●別名 かぶとのもりやま城、甲が森城
●築城期 応永年間(1394~1428)か
●築城者 紀実定
●城主 紀氏(実次)、長山伯耆守豊岡
●高さ 451m(比高251m)
●遺構 郭・石垣・空堀・井戸
●登城日 2014年1月28日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
前稿黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)から肱川沿いに東に下って行くと、野村町に入る。ここで肱川から分かれて、県道35線(野村城川線)に入り、国道197号線と合流し、城川町支所付近で分岐する城川梼原線という2号線(市道か)を進むと、土居という所に至る。
この土居の北方に聳える標高451mの山に、甲之森城がある。麓には黒瀬川(肱川支流)の支流滝川が流れ、それを遡っていくと、築城者である紀氏が当城から後に移ったとされる三滝城が控えている。
【写真左】甲が森城本丸・二の丸跡
現在、本丸・二の丸跡には電波塔の施設が建っている。
紀実定・実平
伝承では、甲之森城は紀貫之13代の孫式部卿紀実定が、伊予国周知郷北ノ川庄5,300貫を拝領して、京都より下向し築城したとされている。もっともこれを裏付ける史料が少ないため、あくまで伝承である。そして、当城主は、下記の7城と22ヶ村の太守となったといわれている。
紀氏7城
- 甲之森城 本稿
- 三滝城 次稿で紹介予定
- 大番城 西予市城川町高野子
- 鎧ヶ端城
- 白岩城
- 猿ヶ森城
- 白石城
【写真左】本丸側から北方を見る。
縄張は南北に長い細尾根を利用し、北端部に小郭を配して、尾根に空堀を介し、帯郭・腰郭と繋がり、本丸を中心に据え、南側には本丸より約2倍の長さを持つ二の丸を置き、更に3m程度下がった所に三の丸を置いていた。
規模は、長さ南北250m×東西40m前後。
しかし、現在はこうした遺構は電波塔関連の施設ができた関係でかなり遺構が消失している。
実定の子・実平の代になると、甲之森城より要害に優れた三滝山に城(三滝城)を築くことを計画した。この城は甲之森城の麓を流れる滝川を4キロほど遡った窪野にあるが、この地は土佐国(高知県)との境に当たる。
縄張は南北に長い細尾根を利用し、北端部に小郭を配して、尾根に空堀を介し、帯郭・腰郭と繋がり、本丸を中心に据え、南側には本丸より約2倍の長さを持つ二の丸を置き、更に3m程度下がった所に三の丸を置いていた。
規模は、長さ南北250m×東西40m前後。
しかし、現在はこうした遺構は電波塔関連の施設ができた関係でかなり遺構が消失している。
実定の子・実平の代になると、甲之森城より要害に優れた三滝山に城(三滝城)を築くことを計画した。この城は甲之森城の麓を流れる滝川を4キロほど遡った窪野にあるが、この地は土佐国(高知県)との境に当たる。
三滝城(愛媛県西予市城川町窪野)については、次稿で紹介する予定である。
さて、実平は三滝山に築城を計画したものの、病に罹り夭逝、このため、その子・実次が父のあとを継ぎ、永享年間(1429~41)にかけて三滝城を築城、これにより甲之森城は、三滝城の支城とされた。
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