備前・福岡城(びぜん・ふくおかじょう)
●所在地 岡山県瀬戸内市長船町福岡
●築城期 鎌倉末期
●築城者 頓宮四郎左衛門
●形態 平城(河城)
●遺構 郭
●高さ 海抜10m弱
●登城日 2014年3月12日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
備前・福岡城(以下「福岡城」とする)については、熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)から見た遠望写真でも少し紹介しているが、それ以前には、富田松山城(岡山県備前市東片上)でも触れている。
【写真左】備前・福岡城
北側の方から見たもので、長船のゴルフ場内にある。
写真右の道はゴルフ場の西端部に伸びているもので、車で向かうことも可能だが、吉井川土手の道から鋭角に降りる道を進むため、あまりお勧めできない。
この日はゴルフ場の事務所受付で許可をもらい、歩いてぐるっとゴルフ場を迂回して向かった。これでいくと、距離は約1.5キロほどあるが、吉井川の中州を歩きながら、周辺の景色も堪能できるので、さして苦にならない。
現地の説明板より
“郷土記念物 福岡城跡の丘
北方に聳える熊山から見たもの。
頓宮四郎左衛門
福岡城の築城期については、説明板には鎌倉時代末期とされている。『城郭体系第13巻』では、鎌倉末期争乱期、当地の地頭職であった頓宮四郎左衛門が築いたといわれる。
その後、建武3年(1336)の足利尊氏上洛において、左衛門は新田義貞に荷担したためこの城を失った。以降、武家方(尊氏方)の佐々木氏、さらに赤松氏の支配(守護職)となっていく。
【写真左】福岡城遠望・その2
ゴルフ場の西端部は吉井川に沿って、ご覧の道が設置されている。
北側から見たもので、左はゴルフ場、右は中洲を挟んで吉井川が流れている。
ところで、築城者で城を追われたこの頓宮(とんぐう)四郎左衛門だが、25年後の正平16年・康安元年(1361)、若狭国小浜の守護代になっている。この前年まで幕府軍の重鎮としていた細川清氏(阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)参照)は、同じく幕府(足利義詮)の側近であった佐々木道誉の謀略によって、京を追われ若狭国に入った。
頓宮四郎左衛門がこのとき当地の守護代になっていたということは、彼が南朝から北朝(幕府)へと帰順していたということなのだろう。清氏は頼みにしていた左衛門が、支援するどころか逆に清氏追討の先陣を切って攻めてきたため、清氏は追われるように四国に逃れ、最期には細川頼之にも攻められ、讃岐で敗死することになる(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)。
【写真左】近影
西側から見たもので、2,3年前土手側から見た時は、樹木が生い茂る小丘にしか見えなかったが、今回は遺構部がよく分かる。
足利尊氏滞陣
さて、話は再び遡るが、正平4年(1349)4月11日、足利直冬は中国探題となって備後国へ赴いた。この命を出したのは、そのころ事実上の室町幕府の政務最高責任者であった直冬の養父・直義である。しかしそれからほどなくして、直義は執事であった高師直と決定的な対立を起こし、さらには、兄尊氏からも敵対視され、ついには政務をはく奪された。
【写真左】西側付近
頂部(主郭か)には稲荷大明神が祀られている。
鳥居は長船カントリークラブから寄進などがされており、毎年何らかの祭礼が行われているようだ。
翌正平5年10月28日、尊氏は直冬追討のため、高師直らをひきいて京都を出発した。このころ、直冬は九州で次第に勢力を高めていたが、九州に向かう途中、尊氏はこの備前・福岡城を本陣として40日間も滞陣している。
【写真左】石碑「渋染一揆結集の地」
登城口付近には下記の石碑もある。
現地の説明板より
“渋染一揆結集の地
1855(安政2年)暮、岡山藩は29条の倹約令の中で、被差別部落の人々に対し、「着物は渋染・藍染とすること」などの差別を押し付けました。このことに対し、翌(安政3年)6月13日(旧暦)の夜半から翌朝にかけて藩内の被差別部落の男たち数千人が立ちあがり、この吉井河原の地に結集し、藩の筆頭家老伊木忠澄(若狭)の虫明陣屋をめざしました。
途中、家老側と交渉の結果、この差別法令の撤回を求める嘆願書を受け取らせ、事実上この差別法令を撤回させました。
長船町教育委員会”
福岡合戦
それから約100年後に起こった室町期の嘉吉の変(1441)においては、赤松氏が没落し、備前は山名教之の支配となった。そして、同氏の重臣小鴨大和守が備前国守護代となるが、このとき福岡城は大改築されたという。
その後、応仁の乱が起こると、一旦没落した赤松氏の後裔赤松政則(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)は、細川氏に加勢して備前国守護となり、文明元年(1469)当城を奪還した。しかし、それから15年後の文明15年(1483)、赤松氏の被官で西備前を支配していた金川城の松田元成との不和が決定的となった。
【写真左】頂部にある稲荷神社社殿
下からおよそ7,8m程度の高さがあり、階段を登っていくと、稲荷大明神の社殿が祀られている。
実際には、この社殿の後ろの岩塊部が最高所となる(下の写真参照)
【写真左】社殿後の岩塊
この小丘はご覧のように岩の塊で、上流部から運ばれてきた堆積物のかたまりではない。
このため、赤松及び守護代の天神山城の城主・浦上氏らは、福岡城を大改造し、濠を廻らし、その中に町を取り込んだ大城郭にして立て籠もり、松田勢と合戦に及んだ。これがのちに「福岡合戦」と呼ばれた。
この戦いは、連合した赤松・浦上軍ではあったが、松田氏の攻略によって破れ、さらには赤松・浦上両氏の主従関係も悪化し、分裂してしまった。ところが、この戦いで勝利した松田元成は深追いをし結果自滅してしまった。この結果浦上氏は福岡城を手にし、松田氏に対する前線基地とした。
その後、大永年間(1521~28)になると、大洪水が頻発し、氾濫した吉井川は流路を変え、福岡城に流れ込み、そのまま川道となったため、廃城となったという。
【写真左】側面から見る。
南側には遺構らしいいものは見当たらない。自然に崩落劣化した法面となっている。
福岡城の比定地
さて、福岡城はこうした歴史を持つ城砦だが、『日本城郭体系第13巻』は、この福岡城が南北朝期から室町期にかけての備前国守護所の最有力候補地であるとしている。
ただ、比定地については件の文献によれば、本稿の場所、すなわち吉井川中洲のこの場所ではないとしている。その理由は小規模すぎて適さず、現在の川土手側の小山(寺山)であろうとしている。
【写真左】北側の段
北側には小規模な郭らしき段が認められる。
確かに現在の遺構を見る限り、吉井川の河原に造成されたゴルフ場の一角に小丘として残るのみで、この規模を以て城砦であったというのはかなり無理があるだろう。
ただ、前述したように吉井川はこれまで度々大規模な洪水を起こし、その都度流路を変えてきている。そしてもう一つの福岡城といわれている西岸の寺山は、北から流れてきた吉井川がこの箇所でぶつかり、少し角度を変えて南進している。現在の吉井川は本稿の福岡城(東方の中洲にある)と、西岸の寺山の間を流れているが、そもそも当時からこの流路であったかどうか、この点から検証する必要がある。
【写真左】空堀?
福岡城と東側のゴルフ場の境には、ご覧のような濠跡と見られる窪みが回り込んでいる。
近世のものか、中世のものかはっきりしないが、深さ1m程度のなだらかな形状となっている。
そこで、推測の域を出ないが、この付近の吉井川の当時の流路は、福岡城の北方で現在の瀬戸町大内・長船町長船にかかる山陽新幹線付近から南下する角度が、もう少し東側に振れ、現在のゴルフ場若しくは、土手下の行幸小学校付近を流れていたのではないかと考えられる(下の想像図参照)。
【写真左】当時の吉井川の流路と福岡城(想像図)
上段の遠望写真と比較していただきたいが、ご覧のように現在の蛇行した流路の前は、真っ直ぐに流下していたのではないかと思われる。
そして比定地とされる二つの福岡城は、もともと繋がった城域を形成し、東西に凡そ600m程度伸びる規模のものではなかったか、さらに、その機能は城館と守護所を兼ねたもので、この地において備前国の守護職政務が執り行われていたのではないかと考えられる。
【写真左】北側からゴルフ場を見る。
福岡城はこの写真の中央やや左にある。
中世にはこの中洲(ゴルフ場)はおそらく吉井川の川中として流れていたのだろう。
さらに、その周りには長船を中心とした賑やかな市が開かれ、瀬戸内・畿内など多くの商人が出入りし、守護職の任にあった赤松氏や浦上氏などもこうした吉井川による海上交通を利用しながら、京などへ往来していたのではないだろうか。
そうした景観を想像させるものとして、他の類例を挙げるならば、福岡城(長船町)と同じく鎌倉期から室町期に至る凡そ300年続いたといわれる広島県福山市の草戸千軒だろう。
●所在地 岡山県瀬戸内市長船町福岡
●築城期 鎌倉末期
●築城者 頓宮四郎左衛門
●形態 平城(河城)
●遺構 郭
●高さ 海抜10m弱
●登城日 2014年3月12日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
備前・福岡城(以下「福岡城」とする)については、熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)から見た遠望写真でも少し紹介しているが、それ以前には、富田松山城(岡山県備前市東片上)でも触れている。
【写真左】備前・福岡城
北側の方から見たもので、長船のゴルフ場内にある。
写真右の道はゴルフ場の西端部に伸びているもので、車で向かうことも可能だが、吉井川土手の道から鋭角に降りる道を進むため、あまりお勧めできない。
この日はゴルフ場の事務所受付で許可をもらい、歩いてぐるっとゴルフ場を迂回して向かった。これでいくと、距離は約1.5キロほどあるが、吉井川の中州を歩きながら、周辺の景色も堪能できるので、さして苦にならない。
現地の説明板より
“郷土記念物 福岡城跡の丘
- 位置 瀬戸内市長船町福岡
- 指定年月日 昭和55年(1980年)3月28日(指定番号 岡山県告示第303号)
- 特徴
- この丘は吉井川河川敷にある標高10mの粘板岩からなる小丘で、14世紀のはじめ築城された福岡城本丸跡といわれています。
北方に聳える熊山から見たもの。
頓宮四郎左衛門
福岡城の築城期については、説明板には鎌倉時代末期とされている。『城郭体系第13巻』では、鎌倉末期争乱期、当地の地頭職であった頓宮四郎左衛門が築いたといわれる。
その後、建武3年(1336)の足利尊氏上洛において、左衛門は新田義貞に荷担したためこの城を失った。以降、武家方(尊氏方)の佐々木氏、さらに赤松氏の支配(守護職)となっていく。
【写真左】福岡城遠望・その2
ゴルフ場の西端部は吉井川に沿って、ご覧の道が設置されている。
北側から見たもので、左はゴルフ場、右は中洲を挟んで吉井川が流れている。
ところで、築城者で城を追われたこの頓宮(とんぐう)四郎左衛門だが、25年後の正平16年・康安元年(1361)、若狭国小浜の守護代になっている。この前年まで幕府軍の重鎮としていた細川清氏(阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)参照)は、同じく幕府(足利義詮)の側近であった佐々木道誉の謀略によって、京を追われ若狭国に入った。
頓宮四郎左衛門がこのとき当地の守護代になっていたということは、彼が南朝から北朝(幕府)へと帰順していたということなのだろう。清氏は頼みにしていた左衛門が、支援するどころか逆に清氏追討の先陣を切って攻めてきたため、清氏は追われるように四国に逃れ、最期には細川頼之にも攻められ、讃岐で敗死することになる(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)。
【写真左】近影
西側から見たもので、2,3年前土手側から見た時は、樹木が生い茂る小丘にしか見えなかったが、今回は遺構部がよく分かる。
足利尊氏滞陣
さて、話は再び遡るが、正平4年(1349)4月11日、足利直冬は中国探題となって備後国へ赴いた。この命を出したのは、そのころ事実上の室町幕府の政務最高責任者であった直冬の養父・直義である。しかしそれからほどなくして、直義は執事であった高師直と決定的な対立を起こし、さらには、兄尊氏からも敵対視され、ついには政務をはく奪された。
【写真左】西側付近
頂部(主郭か)には稲荷大明神が祀られている。
鳥居は長船カントリークラブから寄進などがされており、毎年何らかの祭礼が行われているようだ。
翌正平5年10月28日、尊氏は直冬追討のため、高師直らをひきいて京都を出発した。このころ、直冬は九州で次第に勢力を高めていたが、九州に向かう途中、尊氏はこの備前・福岡城を本陣として40日間も滞陣している。
【写真左】石碑「渋染一揆結集の地」
登城口付近には下記の石碑もある。
現地の説明板より
“渋染一揆結集の地
1855(安政2年)暮、岡山藩は29条の倹約令の中で、被差別部落の人々に対し、「着物は渋染・藍染とすること」などの差別を押し付けました。このことに対し、翌(安政3年)6月13日(旧暦)の夜半から翌朝にかけて藩内の被差別部落の男たち数千人が立ちあがり、この吉井河原の地に結集し、藩の筆頭家老伊木忠澄(若狭)の虫明陣屋をめざしました。
途中、家老側と交渉の結果、この差別法令の撤回を求める嘆願書を受け取らせ、事実上この差別法令を撤回させました。
長船町教育委員会”
福岡合戦
それから約100年後に起こった室町期の嘉吉の変(1441)においては、赤松氏が没落し、備前は山名教之の支配となった。そして、同氏の重臣小鴨大和守が備前国守護代となるが、このとき福岡城は大改築されたという。
その後、応仁の乱が起こると、一旦没落した赤松氏の後裔赤松政則(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)は、細川氏に加勢して備前国守護となり、文明元年(1469)当城を奪還した。しかし、それから15年後の文明15年(1483)、赤松氏の被官で西備前を支配していた金川城の松田元成との不和が決定的となった。
【写真左】頂部にある稲荷神社社殿
下からおよそ7,8m程度の高さがあり、階段を登っていくと、稲荷大明神の社殿が祀られている。
実際には、この社殿の後ろの岩塊部が最高所となる(下の写真参照)
【写真左】社殿後の岩塊
この小丘はご覧のように岩の塊で、上流部から運ばれてきた堆積物のかたまりではない。
このため、赤松及び守護代の天神山城の城主・浦上氏らは、福岡城を大改造し、濠を廻らし、その中に町を取り込んだ大城郭にして立て籠もり、松田勢と合戦に及んだ。これがのちに「福岡合戦」と呼ばれた。
この戦いは、連合した赤松・浦上軍ではあったが、松田氏の攻略によって破れ、さらには赤松・浦上両氏の主従関係も悪化し、分裂してしまった。ところが、この戦いで勝利した松田元成は深追いをし結果自滅してしまった。この結果浦上氏は福岡城を手にし、松田氏に対する前線基地とした。
その後、大永年間(1521~28)になると、大洪水が頻発し、氾濫した吉井川は流路を変え、福岡城に流れ込み、そのまま川道となったため、廃城となったという。
【写真左】側面から見る。
南側には遺構らしいいものは見当たらない。自然に崩落劣化した法面となっている。
福岡城の比定地
さて、福岡城はこうした歴史を持つ城砦だが、『日本城郭体系第13巻』は、この福岡城が南北朝期から室町期にかけての備前国守護所の最有力候補地であるとしている。
ただ、比定地については件の文献によれば、本稿の場所、すなわち吉井川中洲のこの場所ではないとしている。その理由は小規模すぎて適さず、現在の川土手側の小山(寺山)であろうとしている。
【写真左】北側の段
北側には小規模な郭らしき段が認められる。
確かに現在の遺構を見る限り、吉井川の河原に造成されたゴルフ場の一角に小丘として残るのみで、この規模を以て城砦であったというのはかなり無理があるだろう。
ただ、前述したように吉井川はこれまで度々大規模な洪水を起こし、その都度流路を変えてきている。そしてもう一つの福岡城といわれている西岸の寺山は、北から流れてきた吉井川がこの箇所でぶつかり、少し角度を変えて南進している。現在の吉井川は本稿の福岡城(東方の中洲にある)と、西岸の寺山の間を流れているが、そもそも当時からこの流路であったかどうか、この点から検証する必要がある。
【写真左】空堀?
福岡城と東側のゴルフ場の境には、ご覧のような濠跡と見られる窪みが回り込んでいる。
近世のものか、中世のものかはっきりしないが、深さ1m程度のなだらかな形状となっている。
そこで、推測の域を出ないが、この付近の吉井川の当時の流路は、福岡城の北方で現在の瀬戸町大内・長船町長船にかかる山陽新幹線付近から南下する角度が、もう少し東側に振れ、現在のゴルフ場若しくは、土手下の行幸小学校付近を流れていたのではないかと考えられる(下の想像図参照)。
上段の遠望写真と比較していただきたいが、ご覧のように現在の蛇行した流路の前は、真っ直ぐに流下していたのではないかと思われる。
そして比定地とされる二つの福岡城は、もともと繋がった城域を形成し、東西に凡そ600m程度伸びる規模のものではなかったか、さらに、その機能は城館と守護所を兼ねたもので、この地において備前国の守護職政務が執り行われていたのではないかと考えられる。
【写真左】北側からゴルフ場を見る。
福岡城はこの写真の中央やや左にある。
中世にはこの中洲(ゴルフ場)はおそらく吉井川の川中として流れていたのだろう。
さらに、その周りには長船を中心とした賑やかな市が開かれ、瀬戸内・畿内など多くの商人が出入りし、守護職の任にあった赤松氏や浦上氏などもこうした吉井川による海上交通を利用しながら、京などへ往来していたのではないだろうか。
そうした景観を想像させるものとして、他の類例を挙げるならば、福岡城(長船町)と同じく鎌倉期から室町期に至る凡そ300年続いたといわれる広島県福山市の草戸千軒だろう。
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