上寺山館(うえてらさん やかた)
●所在地 岡山県瀬戸内市邑久町北島1187
●築城期 不明
●築城者 和田氏一族か
●城主 和田範長
●形態 館跡
●備考 上寺山餘慶寺
●登城日 2014年3月12日
◆解説
今稿は、前稿熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)でも触れたように、児島高徳が熊山に挙兵する前に在城していたといわれた上寺山の居館跡を紹介したい。
【写真左】上寺山 餘慶寺 全景
南側から見たもので、当院を含めこのあたりは吉井川東岸にある小丘陵地となっている。
ところで、この上寺山館という名称は、度々参考にしている『日本城郭体系』にも載っていないため管理人が便宜上つけたものである。
現地の説明板より
“児島高徳公 和田範長一族
ここ上寺山を中心とする一帯の地はその昔、和田範長一族の居城や、居館のあった処で、児島高徳が7歳の頃から一族によって育てられ、立派な武士となり22歳の時、後醍醐天皇が隠岐還幸の途中を船坂山で待ち受けて奪い返そうとしたが失敗し、院庄まで後を慕うて行き、桜木に十字の詞を書き留めて帰った処であり、又25歳の年、足利尊氏が叛いて九州から攻め上ってきた時に、熊山に旗挙げをして新田義貞を助けに行ったのも、ここから出陣したのであったが、その時、居館を焼き払ったり、兵火のため居城が焼かれたため、其の後は廃墟となり、今日では今木、大富、射越、原、松崎など太平記にある、諸将の名が地名として残っているのみである。
【写真左】上寺の森案内図
以前は緑に囲まれた里山としてあったらしいが、松枯れを中心とした荒廃がひどく、平成15年から17年の3か年をかけて整備し、現在に至っている。
主だった建物なども改修・新築されたようで、探訪しやすい。
しかし、余慶寺は借(仮)の姿であり、明王院や恵亮院は和田一族の菩提寺として、現存している。
このような史跡でありながら世人にはあまり知られず、戦後は山麓に土地開発の波がおしよせつつあり、このままにして置くと、いつかは大切な史跡も跡方もなく消え失せるおそれがあるので、私達は、ここにこの供養塔を建ててこの史跡を保存し、これら南朝の大忠臣を顕彰せんとするのであります。
昭和49甲寅年6月20日
和田範長公第637回忌の日
上寺山児島高徳公史跡保存会”
【写真左】児島高徳公、和田範長一族 供養塔・その1
当院入口付近に建立されている。
児島高徳と和田範長
以前にも述べたように児島高徳の出自については諸説があり、はっきりしない点が多い。今のところ下段に示すように、これについては三説挙げられている。
●所在地 岡山県瀬戸内市邑久町北島1187
●築城期 不明
●築城者 和田氏一族か
●城主 和田範長
●形態 館跡
●備考 上寺山餘慶寺
●登城日 2014年3月12日
◆解説
今稿は、前稿熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)でも触れたように、児島高徳が熊山に挙兵する前に在城していたといわれた上寺山の居館跡を紹介したい。
【写真左】上寺山 餘慶寺 全景
南側から見たもので、当院を含めこのあたりは吉井川東岸にある小丘陵地となっている。
ところで、この上寺山館という名称は、度々参考にしている『日本城郭体系』にも載っていないため管理人が便宜上つけたものである。
現地の説明板より
“児島高徳公 和田範長一族
供養塔建立の由来
ここ上寺山を中心とする一帯の地はその昔、和田範長一族の居城や、居館のあった処で、児島高徳が7歳の頃から一族によって育てられ、立派な武士となり22歳の時、後醍醐天皇が隠岐還幸の途中を船坂山で待ち受けて奪い返そうとしたが失敗し、院庄まで後を慕うて行き、桜木に十字の詞を書き留めて帰った処であり、又25歳の年、足利尊氏が叛いて九州から攻め上ってきた時に、熊山に旗挙げをして新田義貞を助けに行ったのも、ここから出陣したのであったが、その時、居館を焼き払ったり、兵火のため居城が焼かれたため、其の後は廃墟となり、今日では今木、大富、射越、原、松崎など太平記にある、諸将の名が地名として残っているのみである。
【写真左】上寺の森案内図
以前は緑に囲まれた里山としてあったらしいが、松枯れを中心とした荒廃がひどく、平成15年から17年の3か年をかけて整備し、現在に至っている。
主だった建物なども改修・新築されたようで、探訪しやすい。
しかし、余慶寺は借(仮)の姿であり、明王院や恵亮院は和田一族の菩提寺として、現存している。
このような史跡でありながら世人にはあまり知られず、戦後は山麓に土地開発の波がおしよせつつあり、このままにして置くと、いつかは大切な史跡も跡方もなく消え失せるおそれがあるので、私達は、ここにこの供養塔を建ててこの史跡を保存し、これら南朝の大忠臣を顕彰せんとするのであります。
昭和49甲寅年6月20日
和田範長公第637回忌の日
上寺山児島高徳公史跡保存会”
【写真左】児島高徳公、和田範長一族 供養塔・その1
当院入口付近に建立されている。
児島高徳と和田範長
以前にも述べたように児島高徳の出自については諸説があり、はっきりしない点が多い。今のところ下段に示すように、これについては三説挙げられている。
- 後鳥羽上皇後裔説
- 宇多天皇後裔説(佐々木盛綱を祖とする)
- 天之日矛後裔説
そして、高徳自身が実在した人物なのか、という疑念まででているため、学術的な歴史文献史料としては彼の名前さえ出ていない。
その理由は、彼自身の名が、現実に活躍した記録として余り残っていないことからきていると思われる。
【写真左】児島高徳公、和田範長一族 供養塔・その2
後ろから見たもの。
さて、和田範長についてだが、これも伝承で語り継がれてきた武将のイメージが強く、一説では高徳の父ともいわれ、別名児島高徳ともいわれている。
そして、この児島(和田)範長・高徳父子は、南北朝期南朝方に属し、尊氏に属していた播磨の赤松則村(円心)の動きを阻止すべく、建武3年(1336)この上寺山から熊山に向かい、挙兵したといわれる。そしてその年の5月、赤松軍との戦いで討死したとされている。
【写真左】餘慶寺境内付近
近年整備されたこともあって、和田範長時代の居館(居城)を彷彿とさせるような遺構は殆ど確認できないが、奥行は200m近くもあり、またこの位置からは眼下に吉井川を中心とした街並みが広がる。
児島高徳実在否定説
歴史学という学術上の観点からみれば、古文書や具体的に史料に残る人物の名があれば、当然実在した者として確認できる。しかし、高徳や範長などのように『太平記』といったどちらかといえば文学作品の世界で登場するものの、それ以外の歴史資料には、ほとんど掲載されていないとなると、確かに史学的には扱い難いだろう。
しかし、彼が活躍した場所として、西国から東国にかけて、少なくない史跡があることを考慮すれば、強ち実在を端(はな)から否定することはできないと思われるが、いかがだろう。
【写真左】鐘楼と梵鐘
鐘楼は嘉永3年に再建されたものだが、様式は桃山末期から江戸初期のもの。
中に釣られている梵鐘は、県の指定重要文化財とされている。
“梵鐘
昭和31年11月1日指定
「上寺の晩鐘」として親しまれている餘慶寺の梵鐘である。青銅鋳造製で総高94.8cm、口径58.5~59.0cm、竜頭は高さ11.0cmで極端に簡略化されている。
銘文によれば、戦国時代の元亀2年(1571)に、明人(当時の中国人)が、豊後国大分郡府中(現大分県大分市)の惣道場に寄進したものである。惣道場は、近年の研究で浄土真宗など一向宗門徒が集まる施設であったと考えられている。
池(ち)の間の下にひと区画もうけるという特徴から、豊後高田を拠点とした高田鋳物師(いもじ)の作である可能性が高いとされる。
餘慶寺に入った詳しい経緯は不明だが、九州に遠征した宇喜多秀家軍が戦利品として持ち帰り、寄進したものと伝えられる。
瀬戸内市教育委員会”
【写真左】餘慶寺本堂
観音堂とも呼ばれ、国指定重要文化財となっている。
棟札によれば、永禄13年(1570)に建立、正徳4年(1714)に再建されている。
【写真左】三重塔
旧塔跡の本道北側にあって、岡山県指定重要文化財。
文化12年(1815)に再建されたもの。
方三間(一辺3.84m)、本瓦葺、総高20.6m、初重一辺3.4mと小ぶりなものだが、均整のとれた優美な姿である。
棟札に宿毛村の工匠田渕市左衛門繁敷・宇三郎勝孝の名が記載されている。
【写真左】薬師堂
古くは山のふもとにあったというお堂で、享保19年(1734)の再建棟札が残る。
御堂の裏側にある収蔵庫には、薬師如来像(国重文)、聖観音像(国重文)、十一面観音像(県重文)などがある。
【写真左】豊原北島神社・その1
正面向かって右側に建立されているもので、縁起は次の通り。
“豊原北島神社由緒
御祭神 豊原北島神 応神天皇 神成皇后
比咩大神
当社は飛鳥時代舒明天皇6年12月、山上の磐座に奉祀したのに創る。延喜式外の古社旧郷社で、古来当国屈指の名社として崇敬され、平安時代は近衛院殿の祈願社、豊原荘の鎮守として栄え、源平時代佐々木盛綱は、藤戸合戦奉賽に大鎧等を奉納、南北朝時代は児島高徳の一族和田射越氏等が氏子から興った。
【写真左】豊原北島神社・その2
江戸時代は池田候により中世以来習合の社寺は、分離されて旧に復し、社領寄進社殿造営が行われた。”
遺構の現状
ご覧の通り大々的に近年整備されたこともあって、和田範長・児島高徳時代の居城もしくは居館跡らしき遺構はまったく分からないが、一族がこの地を本拠とするには十分な環境であったと思われる。
その理由は、彼自身の名が、現実に活躍した記録として余り残っていないことからきていると思われる。
【写真左】児島高徳公、和田範長一族 供養塔・その2
後ろから見たもの。
さて、和田範長についてだが、これも伝承で語り継がれてきた武将のイメージが強く、一説では高徳の父ともいわれ、別名児島高徳ともいわれている。
そして、この児島(和田)範長・高徳父子は、南北朝期南朝方に属し、尊氏に属していた播磨の赤松則村(円心)の動きを阻止すべく、建武3年(1336)この上寺山から熊山に向かい、挙兵したといわれる。そしてその年の5月、赤松軍との戦いで討死したとされている。
【写真左】餘慶寺境内付近
近年整備されたこともあって、和田範長時代の居館(居城)を彷彿とさせるような遺構は殆ど確認できないが、奥行は200m近くもあり、またこの位置からは眼下に吉井川を中心とした街並みが広がる。
児島高徳実在否定説
歴史学という学術上の観点からみれば、古文書や具体的に史料に残る人物の名があれば、当然実在した者として確認できる。しかし、高徳や範長などのように『太平記』といったどちらかといえば文学作品の世界で登場するものの、それ以外の歴史資料には、ほとんど掲載されていないとなると、確かに史学的には扱い難いだろう。
しかし、彼が活躍した場所として、西国から東国にかけて、少なくない史跡があることを考慮すれば、強ち実在を端(はな)から否定することはできないと思われるが、いかがだろう。
【写真左】鐘楼と梵鐘
鐘楼は嘉永3年に再建されたものだが、様式は桃山末期から江戸初期のもの。
中に釣られている梵鐘は、県の指定重要文化財とされている。
“梵鐘
昭和31年11月1日指定
「上寺の晩鐘」として親しまれている餘慶寺の梵鐘である。青銅鋳造製で総高94.8cm、口径58.5~59.0cm、竜頭は高さ11.0cmで極端に簡略化されている。
銘文によれば、戦国時代の元亀2年(1571)に、明人(当時の中国人)が、豊後国大分郡府中(現大分県大分市)の惣道場に寄進したものである。惣道場は、近年の研究で浄土真宗など一向宗門徒が集まる施設であったと考えられている。
池(ち)の間の下にひと区画もうけるという特徴から、豊後高田を拠点とした高田鋳物師(いもじ)の作である可能性が高いとされる。
餘慶寺に入った詳しい経緯は不明だが、九州に遠征した宇喜多秀家軍が戦利品として持ち帰り、寄進したものと伝えられる。
瀬戸内市教育委員会”
【写真左】餘慶寺本堂
観音堂とも呼ばれ、国指定重要文化財となっている。
棟札によれば、永禄13年(1570)に建立、正徳4年(1714)に再建されている。
【写真左】三重塔
旧塔跡の本道北側にあって、岡山県指定重要文化財。
文化12年(1815)に再建されたもの。
方三間(一辺3.84m)、本瓦葺、総高20.6m、初重一辺3.4mと小ぶりなものだが、均整のとれた優美な姿である。
棟札に宿毛村の工匠田渕市左衛門繁敷・宇三郎勝孝の名が記載されている。
【写真左】薬師堂
古くは山のふもとにあったというお堂で、享保19年(1734)の再建棟札が残る。
御堂の裏側にある収蔵庫には、薬師如来像(国重文)、聖観音像(国重文)、十一面観音像(県重文)などがある。
【写真左】豊原北島神社・その1
正面向かって右側に建立されているもので、縁起は次の通り。
“豊原北島神社由緒
御祭神 豊原北島神 応神天皇 神成皇后
比咩大神
当社は飛鳥時代舒明天皇6年12月、山上の磐座に奉祀したのに創る。延喜式外の古社旧郷社で、古来当国屈指の名社として崇敬され、平安時代は近衛院殿の祈願社、豊原荘の鎮守として栄え、源平時代佐々木盛綱は、藤戸合戦奉賽に大鎧等を奉納、南北朝時代は児島高徳の一族和田射越氏等が氏子から興った。
【写真左】豊原北島神社・その2
江戸時代は池田候により中世以来習合の社寺は、分離されて旧に復し、社領寄進社殿造営が行われた。”
遺構の現状
ご覧の通り大々的に近年整備されたこともあって、和田範長・児島高徳時代の居城もしくは居館跡らしき遺構はまったく分からないが、一族がこの地を本拠とするには十分な環境であったと思われる。
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