2019年8月20日火曜日

下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋)

下赤阪城(しもあかさかじょう)

●所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村森屋
●別名 赤阪城
●指定 国指定史跡
●高さ 185.7m(比高61.4m)
●築城期 鎌倉時代末期
●築城者 楠木正成
●城主 楠木氏
●廃城年 延文5年/正平15年(1360)
●備考 楠木七城
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2016年10月12日

◆解説(参考資料 『千早赤阪の文化遺産』㈳千早赤阪楠公史跡保存会編等)
 前稿の楠公誕生地(大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分)に続き、楠木氏の史跡をとり上げる。
 今稿は楠木氏が河内国に入った初期に築かれたといわれている下赤阪城である。
【写真左】下赤阪城
 遺構の一部であろう土壇の上に石碑が建つ。








現地の説明板より

国史跡 赤阪城跡(下赤阪城跡)

 標高185.7、比高61.4m。金剛山地から延びる丘陵の自然地形を利用して築城された中世山城です。この城は鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(1294?~1336)によって築城されたといわれています。

 元弘元年(1331)、鎌倉幕府倒幕計画が発覚し後醍醐天皇が笠置山へ逃れました。正成はこれにあわせてこの地で挙兵し、護良親王も当地に身を寄せたと伝えられています。幕府軍が攻め寄せてきた合戦の様子は『太平記』に記述されています。しかし、にわか造りのため落城、正成は金剛山へと後退しました。
写真左】案内図
 現地に設置されていたが、だいぶ劣化し色も薄くなっていたため、管理人によって補正修正した。
 この案内図は、下赤阪棚田の会という団体が作成したもので、前稿の楠公誕生地をはじめ、棚田の見える展望台、寄手塚・身方塚など他の史跡を巡るコースが描かれていた。
 下赤阪城は同図の左側に配置されており、右側には千早赤阪中学校があり、当城周辺部は棚田をはじめとする眺望学習広場となっている。

 
 その後、元弘2年(1332)に正成は再起し、この城を奪還しました。ふたたびこの城は落城しますが、千早城での籠城の間に鎌倉幕府は滅亡しました。

 城としての遺構は明確になっていませんが、千早赤阪村役場の上付近が主郭(本丸)であったといわれています。
 昭和9年3月に国史跡に指定されました。
    千早赤阪村教育委員会”
【写真左】南側から見る。
 南北に伸びる尾根筋に当たる箇所で、右側の道路を奥に進むと、当城の本丸があったといわれる個所(現・田圃)にたどり着く。
 右の建物は中学校の校舎で、敷地はだいぶ下がったところにあるので、見えている箇所は2階部分に当たる。


赤阪城塞群

 本稿の下赤阪城をはじめとして、千早赤阪村には中小の城郭が分布している。これらを総称して「赤阪城塞群」という。
 いずれも楠木正成及び同氏一族が関わったものといわれ、主だったものを列記すると次のようになる。
  1. 下赤阪城(赤阪城)
  2. 上赤坂城(楠木城)
  3. 千早城
  4. 二河原辺城
  5. 本宮城
  6. しょうぶ城
  7. 桝形城
  8. 猫路山城
  9. 坊領山城(国見山城)

 下赤阪城は楠公誕生地(大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分)から南西方向へ直線距離でおよそ800mほど向かった丘陵地に所在する。東麓には千早川が南北に流れ、石碑の西側には「下赤阪の棚田」が眼下に見える。
【写真左】石碑
「史跡 赤阪城址」と刻銘された石碑で、昭和14年3月建設とある。







遺構

 写真でも分かるように、現在は道路やその東にある中学校などの施設ができているためほとんど遺構らしいものは残っていない。

 ただこの石碑が建っている箇所から尾根筋となる道路を北に500mほど下っていくと、道路の西側におよそ6mほど高い位置に長径(南北)60mほどの田圃が一枚あるが、この個所が「本丸」であったという伝承が残る。

 このことから、城域は北端部の本丸から、南は石碑の建つ位置までの尾根およそ500mを長軸とし、幅はこの尾根幅(30~100m前後)のものではなかったかと考えられる。そして東側の下がったところ、すなわち村立赤阪中学校の敷地をはじめ、周辺部の棚田の一部は当城の帯郭・腰郭として利用されていたのかもしれない。
【写真左】石碑の上から南側を見る。
 千早赤阪村は山間部であることから村内の幹線道路は狭い道が多い。
 普通車でも通行できるが、対向車とすれ違う時には気を遣う。

 逆に言えば、この辺りは当時(南北朝期)からあまり改変されていなかったことになる。写真の左が上述した中学校だが、その下を千早川が流れているので、天然の切岸だったのだろう。
【写真左】眺望学習広場付近
 石碑の右側には平坦地があり、眺望学習広場の小屋が建っている。
 おそらくこの付近も郭だったのだろう。
【写真左】さらに南に向かう。
 石碑のある箇所から南に向かうと、道が二方向に分岐するが、その間の尾根筋を登った箇所。

 ここにも田圃がある。このことから、下赤阪城の水の手は、尾根筋に沿って北方の本丸付近まで伸びていた遺構(用水路)があったものと思われる。
【写真左】下赤阪城から嶽山城を遠望する。
 下赤阪城から西北西へ直線距離で2.4キロ向かった位置には、同じく楠木正成が築城したといわれる嶽山城(大阪府富田林市龍泉) が見える。

 当城も楠木七城の一つで、中腹に龍泉寺があることから別名龍泉寺城とも呼ばれる。

 ところで、当城は寛正2年(1461)幕府の命によって、畠山氏の御家騒動を鎮圧すべく、石見から益田貞兼や兼尭(七尾城(島根県益田市七尾)・その1 参照)らが参戦している。その後、寛正4年(1463)4月には当城(下赤阪城)もしくは楠木城(上赤阪城)で、益田兼尭が山名是豊方に属して、畠山義就(河内・烏帽子形城(大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園)参照) と戦っている。
 なお、嶽山城についてはいずれ別稿で取り上げる予定である。


下赤阪の棚田

 眺望広場から西に目を転ずると幅の狭い田圃が階段状に連なっている。平成11年に「日本の棚田百選」に選定された「下赤阪の棚田」である。春には代掻きが終わると、水を蓄え、田植えを待つ湖面のような姿があり、秋には黄金色の稲穂がたなびく、まさしく日本の原風景である。
【写真左】下赤阪の棚田
 残念ながら、下赤阪の棚田も御多分に漏れず、手前の田圃は耕作放棄で、外来種のセイタカアワダチソウが繁茂している。


 


 眼下では、ちょうどこのとき稲刈りが行われていた。狭い棚田のため、コンバインなどが入らず、バインダーという歩行用の機械で稲刈りをする。そして刈った稲は一束づつ稲架にかけている。昔は皆こうしたやりかただったが、時代と共にこの光景は失われつつある。

 手間暇のかかる棚田を維持していこうとするのは、先祖代々から受け継いできた田を消滅させたくないという強い想いや、使命感からくるものだろう。棚田も城郭と同じく、歴史的文化遺産である。末代まで残ってほしいものだ。

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