七尾城(ななおじょう)・その1
●所在地 島根県益田市七尾
●築城期 鎌倉期
●築城者 益田兼高又は兼時
●標高 119m
●備考 石見18砦
●指定 国指定
●遺構 郭、土塁、礎石建物跡、炉跡、井戸その他多数
◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「益田市誌・上巻」その他)
前稿まで取り上げてきた「上久久茂土居跡」「大谷城」「大谷土居跡」と深いかかわりを持つ中世石見の豪族益田氏の本拠城である。
現地の説明板より
“国指定史跡 益田氏城館跡
七尾城跡
指定 平成16年9月30日
七尾城は中世400年間にわたり、西石見に勢力を誇った益田氏歴代の居城でした。
この城は、七尾山全体に築かれており、北方を流れる益田川に向かって開く東西二つの丘陵を中心に、大小40余りの郭(平らな区画)を設けた県下屈指の堅城でした。
現在でも、郭や敵の侵入を防ぐ堀切(尾根を断ち切った空堀)、土塁、馬釣井と呼ばれる石積みの井戸跡が残り、当時の姿をよくとどめています。
南北朝時代にはすでに築城され、延元元年(1336)に、南朝方の三隅軍が「北尾崎之木戸」に攻め寄せた記録が、益田家文書に残っています。
発掘調査の結果、戦国時代末期には、毛利氏の攻撃に備えて大改修され、城の中心部には礎石建物が建ち、益田氏の当主とその家臣が城内に居住していたことが明らかになりました。
慶長5年(1600)、益田氏20代元祥が、関ヶ原の戦に敗れた毛利氏の家老として、長門国須佐に移ると、七尾城は廃城となりました。
平成15年7月
益田市教育委員会”
これまで同氏については、三隅氏関係の稿などで部分的に取り上げてきているが、ここで改めて記しておきたい。
益田氏は、藤原鎌足を始祖としている。鎌足7世の孫で忠通が出て、忠通9世の末に定道が出た。この定道は鳥羽天皇の時代(永久2年・1114)6月、前任者藤原貞仲(長治2年・1105見任)の後を追って、石見国司となり、当初那賀郡伊甘郷大浜の三宅に居を定める(「伊甘山安国寺」2010年9月21日投稿参照)。
定道は任期が過ぎても当地に残り、現在の浜田市にある上府村御神本に土着し、姓も藤原から「御神本(みかもと)」と改め、名を国兼と称する。
御神本国兼が石見に下向した際、家臣であった大谷知房と章房父子は、共に上府に到着し、その後、知房は波子村を領して波子氏を称した。また章房は上府に留まった。同じく家臣であった藤原親重は、国兼によって姓を草野と改め、美濃郡仙道荘八幡宮の神主となる。以来草野氏は今日まで、神主として33世・900年もの長い間、東仙道の神主を務めているという。
【写真左】益田氏系図
この系図は、いずれ取り上げる「三宅土居跡」に設置された説明板の一つで、益田氏始祖・国兼から始まって、20代・元祥(もとよし)まで記されている。
長く続いた一族の系図については、ほとんどの場合、複数のものがあり、益田氏についても同じように見られる。
一般的には、国兼から兼栄までを旧姓である御神本氏とし、4代兼高の代になって、益田氏を名乗るので、兼高から益田氏始祖となるが、本稿では、御神本氏時代も含め、国兼を益田氏初代と定義しておく。
兼高(4代)の活躍
これまで、度々取り上げてきているが、益田氏の中でも特に4代兼高については、同氏の基礎を築いた人物として特に重要な武将である。
兼高の時代は、いわゆる源平合戦のもっとも攻防の激しかったころで、しかも、このころ西国の武士はほとんど平氏に与する者が大半だった中で、兼高のみが源氏の下に馳せ参じた。
元暦元年(1184)2月7日付の大江弘元から源義経に宛てた書状に、兼高の名が出てくる。
“さいこく(西国)の物(者)どもは、みなへい家に心をよせて、御方にそ(所)むきたるに、ごんのすけかねたか(権介兼高)が、一人ぬけいでて、御方にまいり、心ざしとててき(敵)のきわ(極)のたたかいして、かうみやう(高名)どもしたるよし、くわしくきこしめされ候…”
文治元年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いにおいて源義経は平氏を滅ぼした。以前にも記したように、益田兼栄・兼高父子は、このとき義経の幕下として抜群の戦功を立てた。
論功行賞によって安堵された所領地
元暦元年(1184)11月、源頼朝の下文案による安堵状、及び建仁3年(1203)の梶原景時などの書状を整理すると、以下の領地が益田氏に与えられている。
- 美濃郡 匹見・丸茂別府・上津茂別府・益田庄・飯田郷安富・高津・長野庄得屋郷・弥富名
- 那賀郡 木束郷・永安別府・吉高・伊甘郷・良方別府・千与米名・阿刀別府・周布・小石見・益田庄内納田郷・同井之村
- 迩摩郡 温泉郷・宅野別府・加万
- 邑智郡 市木別府・長田別府・久富名・千与米名
- 安濃郡 鳥居別府・吉光
益田氏の系図
益田兼高以降の系図については、上掲の写真の通りだが、この系図では、7代兼長のあと、10代兼世までの2代の嗣子が表記されていない。
史料によっては、7代を兼久とし、以降8代・兼弼、9代・兼弘、10代・兼方、11代・兼見とするものもある。
写真の系図にもあるように、7代・兼長の右に兼久が記されているのは、兼長は三隅兼信の娘・阿忍と結ばれたが早世したため、実弟の兼久が益田氏を継いだためである。
益田氏累代の城主については「益田市誌・上巻」にその活躍が列記されているが、最初に、南北朝期に活躍した益田兼見を取り上げたい。
【写真左】萬福寺本堂(国指定重要文化財)
萬福寺は益田川の北岸にあり、南岸には七尾城がそびえている。
当院は益田氏11代兼見(かねはる)が建立したとされている。
兼見は祥兼ともいい、記録によれば、兼見の時代に特に益田惣領家として、上掲した多くの領地を分割相続している。分割譲渡された庶子家は代が進むにつれて、独立心が強くなる。しかし、惣領益田家とすれば、できるだけ初期のころと同じように、益田一族の連帯を保持しようとする。
兼見の「置文」には、執拗なまでの土地に関する契約と、益田本家と一味同心としての結びつきを強要したものが残っている。また、その背景には、南北朝動乱の動きが大きく影響している。
永和4年(1378)、剃髪した兼見は祥兼と号し、長男の兼世に跡を譲った。それから13年後の明徳2年(1391)6月1日、前々稿で紹介した伊甘山安国寺(島根県浜田市上府町イ65)の住職を定め、4カ月後の10月14日、夭逝した。
萬福寺から東へ100mほど行くと、墓地があり、 この奥の高い所に兼見の墓がある。
これまでも度々石見南北朝期に同氏の活躍を紹介してきているが、現地に彼の足跡を記した説明板があるので、改めて転載しておく。
これまでも度々石見南北朝期に同氏の活躍を紹介してきているが、現地に彼の足跡を記した説明板があるので、改めて転載しておく。
“益田市指定史跡
益田兼見の墓
(指定 昭和46年6月21日)
益田兼見は益田氏11代当主で、山道庶子家から入って益田惣領家を継いだ知勇兼備の武将といわれています。
兼見は、南北朝の争乱に伴い、暦応3年(1340)足利尊氏が派遣した石見の守護上野頼兼を助け、豊田城、高津城、稲積城、三隅城を攻略するなど、北朝方として石見の各地に転戦しました。
その後、正平4年(1349)に尊氏の子足利直冬が九州に移って、南朝に帰順すると、兼見も南朝に転じましたが、直冬の死後正平19年(1364)に南朝方として石見に進出してきた大内弘世が幕府に降ると、兼見もまた弘世に従い北朝方として、三隅氏や福屋氏と戦いました。以後、益田氏は大内義隆がその家臣の陶晴賢に滅ぼされるまで大内氏に従属しました。
また、兼見は強力な家臣団編成と、支配機構の整備にあわせ、三宅御土居を中心に益田平野の本格的な開発を行うとともに、萬福寺、崇観寺、医光寺(崇観寺のわき寺)、滝蔵権現(天石勝神社)など、寺社の創建にも力を注ぎました。
中でも、兼見は時宗に帰依し、応安7年(1374)中須の安福寺を現在地に移転改築し、萬福寺と改め、自らの菩提寺としました。明徳2年(1391)に没し、萬福寺境内の椎山麓に墓が建てられましたが、昭和58年の豪雨災害復旧工事により、現在地に移設されました。墓石は、高さ約1.6mの五輪塔で、傍らにはひとまわり小さな父兼方の墓が並んでいます。
平成8年5月 益田市教育委員会”
0 件のコメント:
コメントを投稿