御着城(ごちゃくじょう)
●所在地 兵庫県姫路市御国野町御着
●別名 天川城、茶臼山城
●築城期 永正16年(1519)以前
●築城者 小寺政隆など
●城主 小寺政隆、則職・政職
●形態 平山城
●遺構 土塁・濠
●備考 播磨三大城
●登城日 2014年11月21日
◆解説
御着城は兵庫県姫路市の御着に所在し、戦国期には黒田官兵衛の元主君であった小寺政職(塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)参照)が城主を務めていた平城である。
当城は、黒田官兵衛が在城していた初期の姫路城からは、東南東に約5キロほど向かった位置にあり、官兵衛の妻・光(てる)の生誕地とされる加古川市の志方城(兵庫県加古川市志方町志方町720)志方城からはおよそ9キロほど離れている。
【写真左】御着城の石碑
南側から見たもので、下段で示すように石碑の左側に本丸があり、石碑及び道路がある個所が濠とされ、その右に二ノ丸があったといわれる。
播磨御着
当地名である「御着」は、往古、神功皇后外征の折、この地に上陸、お立ち寄り遊ばされたので、「御着」と言い慣わしたといわれている。
史料として初めて出てくるのは、『太平記』である。南北朝期、塩冶判官高貞(加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)参照)が、高師直の手の者に追われて出雲へ逃走することになるが、その途中「御着宿より道を変え小塩山へ向かった。…」と記されている。
このことから、当時御着は畿内と西国を往来する宿場町として成立していたと思われる。
【写真左】御着城跡 案内図
赤地「現在地」とされた箇所が石碑のあるところ。
【写真左】「御着城跡縄張推定図」
中央部分が本丸で、その右に堀を介して二ノ丸があったとされる。
二ノ丸の南側も堀として表示しているが、実際はこれほどの大きさはなかったのかもしれない。
現地の説明板より・その1
“御着城 二ノ丸跡
昭和52年度から54年度まで御国野小学校跡地再開発にともなう発掘調査が行われ、14世紀後半から16世紀後半にわたる遺構と青磁・白磁等の貿易陶磁器や備前焼・瀬戸焼等日本製陶磁器、瓦や鉄・銅製品等の遺物が検出された。
御着の文献上の初見は『太平記』にみえる山陽道の御着宿であり、14世紀後半の遺構・遺物はその頃のものとみられる。
【写真左】二ノ丸跡
元学校跡地であったようで、現在校庭が残る。
おそらく、このグランドの南半分(手前)は堀であったと思われる。
御着城は15世紀前半に柵をめぐらせた居館として現れ、15世紀後半、明応4年(1495)に御着納所で小寺則職が薬師寺氏とともに播磨守護の段銭徴収にあたっており、この頃、小型の堀や溝がみられるようになる。
16世紀に入ると本丸に瓦葺き建物が現れ、16世紀半ばには土塁の構築と大規模な整地、本丸と二ノ丸を隔てる大型と中型の堀が現れ、各段に防御機能を高める。
これは播磨守護赤松義村と浦上村宗の対立に幕府管領細川氏の内紛が関わり、享禄3年(1530)小寺政隆は庄山城で浦上村宗と戦い戦死、御着城も開城、天文7年(1538)には、山陰から尼子氏が播磨に侵攻するなど動乱の播磨を背景としている。
【写真左】二ノ丸から本丸に向かう。
二ノ丸と本丸の間には南北に堀が巡らされていた。
奥に天守風の市役所東出張所が建っているが、この辺りが本丸付近。
【写真左】本丸跡
すでに整地されているため当時の詳細な状況は分からないが、形態としては比高のあまりない平山城(平城)であったものと思われる。
16世紀後半には礎石建物や瓦葺建物が現れ、土塁は再三増築され、基底部幅は当初の5.5mから約10mに達し、部分的に石垣も構築され大規模な城郭に発展している。
永禄12年(1569)に羽柴秀吉ら織田軍2万が播磨に侵攻し、別所三木氏と龍野赤松氏は織田方、小寺氏は反織田方であった。黒田官兵衛が龍野赤松氏と青山合戦を行ったのはこのときのことである。
【写真左】黒田家廟所
市役所東出張所の脇を抜け西に進むと、官兵衛の祖父・重隆と生母(明石氏)の二人を祀る黒田家霊所がある。
享和2年(1802)資材を九州から運んで造られたという。昭和56年姫路市指定史跡となった。
中央二基の墓が重隆と生母のもの。
その後御着城主小寺政職は、織田方となるが天正6年(1578)荒木村重の離反に呼応したため、織田信忠・羽柴秀吉群は御着城周辺を焼き払い、火山(御着南山)に布陣した(樋山陣という)が、御着城から樋山陣に猛攻を加え、信忠・秀吉軍は的形大鳥地区の引入谷まで撤退したという。
秀吉は三木城攻囲中に官兵衛の叔父小寺休夢斎に御着城開城の手立てを命じ、天正7年(1579)御着城は開城し、翌年破却された(天正8年開城とする史料もある)。
平成26年11月 姫路市教育委員会
姫路市文化財保護協会”
【写真左】御着付近史跡要図
現地には御着城をはじめ他の史跡を表示した案内図もある。
天川を挟んで西側には壇場山古墳・山の越古墳などがあり、さらにその北には国分寺もあった。
旧山陽道は御着城の南方にあり、交通の要衝でもあった。
前段の説明板・その1と重複する箇所もあるが、もう一つの説明板も紹介しておきたい。
現地の説明板より・その2
“御着城跡
御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。
永承16年(1519)小寺政隆が築城、則職・政職と継承され、天正6年(1578)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉吉年間(1441~44)にはすでに構居が設けられていたとされ、明応年間(1492~1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭として機能していた。
【写真左】小寺大明神
南側の道路を挟んだところには「小寺大明神」が祀られている。
宝暦5年(1755)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」に「今此所ニ小寺殿社アリ」と注記されており、小寺氏一族及び当城に関係した人々を祀っているという。
昭和52~54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われたことが判明。中世の人々の生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。
宝暦5年(1755)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」には、城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東には四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれている。現在、御着城跡の中央を東西に国道2号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館がある。
平成13年3月
姫路市教育委員会”
【写真左】五輪塔と石仏
同じく小寺大明神の境内にあるもので、旧御国野小学校時代の校庭を発掘調査した際、出土したものを復元。
秀吉が御着城を攻めたとき戦死したものではないかとされている。
●所在地 兵庫県姫路市御国野町御着
●別名 天川城、茶臼山城
●築城期 永正16年(1519)以前
●築城者 小寺政隆など
●城主 小寺政隆、則職・政職
●形態 平山城
●遺構 土塁・濠
●備考 播磨三大城
●登城日 2014年11月21日
◆解説
御着城は兵庫県姫路市の御着に所在し、戦国期には黒田官兵衛の元主君であった小寺政職(塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)参照)が城主を務めていた平城である。
当城は、黒田官兵衛が在城していた初期の姫路城からは、東南東に約5キロほど向かった位置にあり、官兵衛の妻・光(てる)の生誕地とされる加古川市の志方城(兵庫県加古川市志方町志方町720)志方城からはおよそ9キロほど離れている。
【写真左】御着城の石碑
南側から見たもので、下段で示すように石碑の左側に本丸があり、石碑及び道路がある個所が濠とされ、その右に二ノ丸があったといわれる。
播磨御着
当地名である「御着」は、往古、神功皇后外征の折、この地に上陸、お立ち寄り遊ばされたので、「御着」と言い慣わしたといわれている。
史料として初めて出てくるのは、『太平記』である。南北朝期、塩冶判官高貞(加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)参照)が、高師直の手の者に追われて出雲へ逃走することになるが、その途中「御着宿より道を変え小塩山へ向かった。…」と記されている。
このことから、当時御着は畿内と西国を往来する宿場町として成立していたと思われる。
【写真左】御着城跡 案内図
赤地「現在地」とされた箇所が石碑のあるところ。
中央部分が本丸で、その右に堀を介して二ノ丸があったとされる。
二ノ丸の南側も堀として表示しているが、実際はこれほどの大きさはなかったのかもしれない。
現地の説明板より・その1
“御着城 二ノ丸跡
昭和52年度から54年度まで御国野小学校跡地再開発にともなう発掘調査が行われ、14世紀後半から16世紀後半にわたる遺構と青磁・白磁等の貿易陶磁器や備前焼・瀬戸焼等日本製陶磁器、瓦や鉄・銅製品等の遺物が検出された。
御着の文献上の初見は『太平記』にみえる山陽道の御着宿であり、14世紀後半の遺構・遺物はその頃のものとみられる。
【写真左】二ノ丸跡
元学校跡地であったようで、現在校庭が残る。
おそらく、このグランドの南半分(手前)は堀であったと思われる。
御着城は15世紀前半に柵をめぐらせた居館として現れ、15世紀後半、明応4年(1495)に御着納所で小寺則職が薬師寺氏とともに播磨守護の段銭徴収にあたっており、この頃、小型の堀や溝がみられるようになる。
16世紀に入ると本丸に瓦葺き建物が現れ、16世紀半ばには土塁の構築と大規模な整地、本丸と二ノ丸を隔てる大型と中型の堀が現れ、各段に防御機能を高める。
これは播磨守護赤松義村と浦上村宗の対立に幕府管領細川氏の内紛が関わり、享禄3年(1530)小寺政隆は庄山城で浦上村宗と戦い戦死、御着城も開城、天文7年(1538)には、山陰から尼子氏が播磨に侵攻するなど動乱の播磨を背景としている。
【写真左】二ノ丸から本丸に向かう。
二ノ丸と本丸の間には南北に堀が巡らされていた。
奥に天守風の市役所東出張所が建っているが、この辺りが本丸付近。
【写真左】本丸跡
すでに整地されているため当時の詳細な状況は分からないが、形態としては比高のあまりない平山城(平城)であったものと思われる。
16世紀後半には礎石建物や瓦葺建物が現れ、土塁は再三増築され、基底部幅は当初の5.5mから約10mに達し、部分的に石垣も構築され大規模な城郭に発展している。
永禄12年(1569)に羽柴秀吉ら織田軍2万が播磨に侵攻し、別所三木氏と龍野赤松氏は織田方、小寺氏は反織田方であった。黒田官兵衛が龍野赤松氏と青山合戦を行ったのはこのときのことである。
【写真左】黒田家廟所
市役所東出張所の脇を抜け西に進むと、官兵衛の祖父・重隆と生母(明石氏)の二人を祀る黒田家霊所がある。
享和2年(1802)資材を九州から運んで造られたという。昭和56年姫路市指定史跡となった。
中央二基の墓が重隆と生母のもの。
その後御着城主小寺政職は、織田方となるが天正6年(1578)荒木村重の離反に呼応したため、織田信忠・羽柴秀吉群は御着城周辺を焼き払い、火山(御着南山)に布陣した(樋山陣という)が、御着城から樋山陣に猛攻を加え、信忠・秀吉軍は的形大鳥地区の引入谷まで撤退したという。
秀吉は三木城攻囲中に官兵衛の叔父小寺休夢斎に御着城開城の手立てを命じ、天正7年(1579)御着城は開城し、翌年破却された(天正8年開城とする史料もある)。
平成26年11月 姫路市教育委員会
姫路市文化財保護協会”
【写真左】御着付近史跡要図
現地には御着城をはじめ他の史跡を表示した案内図もある。
天川を挟んで西側には壇場山古墳・山の越古墳などがあり、さらにその北には国分寺もあった。
旧山陽道は御着城の南方にあり、交通の要衝でもあった。
前段の説明板・その1と重複する箇所もあるが、もう一つの説明板も紹介しておきたい。
現地の説明板より・その2
“御着城跡
御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。
永承16年(1519)小寺政隆が築城、則職・政職と継承され、天正6年(1578)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉吉年間(1441~44)にはすでに構居が設けられていたとされ、明応年間(1492~1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭として機能していた。
【写真左】小寺大明神
南側の道路を挟んだところには「小寺大明神」が祀られている。
宝暦5年(1755)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」に「今此所ニ小寺殿社アリ」と注記されており、小寺氏一族及び当城に関係した人々を祀っているという。
昭和52~54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われたことが判明。中世の人々の生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。
宝暦5年(1755)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」には、城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東には四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれている。現在、御着城跡の中央を東西に国道2号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館がある。
平成13年3月
姫路市教育委員会”
【写真左】五輪塔と石仏
同じく小寺大明神の境内にあるもので、旧御国野小学校時代の校庭を発掘調査した際、出土したものを復元。
秀吉が御着城を攻めたとき戦死したものではないかとされている。
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