2010年9月13日月曜日

上久々茂土居跡(島根県益田市久々茂)

上久々茂土居跡(かみ くくもどいあと)

●所在地 島根県益田市久々茂
●探訪日 2010年2月7日、9月12日
●創建期 平安時代末期
●築城者 益田兼高
●標高 56m
●遺構 掘立柱建物、土杭、溝等
●遺物 須恵器、金属製品、土師器、陶磁器等
●時代 縄文、古墳、奈良、平安、中世、近世、近現代、
●遺跡の現状 畑地など

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」「日本城郭大系第14巻」等)
 「大谷土居跡」(2010年9月8日投稿)の稿でも取り上げたように、益田氏初期の居館跡といわれているもう一つの土居跡が、「上久々茂土居跡」である。

 所在地は、大谷土居跡のある大谷地区からさらに益田川上流へ約3キロ程度登った久々茂というところにある。
【写真左】「上久久茂土居跡」と記された看板
 191号線のガードレール脇に設置されているが、設置高さも低く、車で走っていると見過ごすだろう。
 もう少し、分かりやすい位置に設置してあるといいのだが。



 冒頭の項目でも記しているように、この土居跡については、益田氏居館跡であったばかりでなく、遺構、遺物の調査の結果、縄文から中世、そして近世に至るまでの痕跡が見られたようで、この土居跡にどの程度益田氏が関わったのか、明らかにはされていないようだ。

 また、度々参考にしている「益田市誌・上巻」では、残念ながらこの上久々茂土居跡については、記載がない。

 「日本城郭大系第14巻」によると、下記のように記されている。

“…12世紀の中ごろ、住みなれた那賀郡上府(浜田市)の地を離れ、領地中最大の封土をもつ益田荘に来住した。

 この地は、地形・地名・伝承や、益田氏初期のころの墓と思われる五輪塔・宝篋印塔が付近にあることなどから、前述の居館跡と考えられるが、古記録や遺跡でそれを裏付けるものはない。しかし、また、そのことを否定するものも全くない。”

と断定まではしていない。

【写真左】上久久茂土居跡
 案内を表示しているのは、上段の道路脇のみで、あとは歩いて向かうのだが、標識がないため、分かりずらい。
 土居跡の遺構が残っているのは、写真に見える左側の小丘で、正面の寺院ももとは土居があったところのようだ。



  ところで、寿永4年・文治元年(1185)、壇ノ浦の合戦に敗れた平家が、源氏の手を逃れるため、主として西国の山奥や、南海の孤島などに移って行ったという伝承がかなり多く残っているが、この石見国でもそうした例が残っている。

 同国でもっともその場所として知られているのは、本稿の上久々茂土居の前を流れる益田川をさらにさかのぼった匹見地区である。

 当地に潜入して、彼らは姓を変えた。澄川・斎藤・寺戸・大谷等の諸姓は、平家の一族といわれている。未開の地に入った彼らは、当地を開墾しながら生活の基盤を造り、やがて各地に本拠城を築城していった。
【写真左】土居跡の郭段のようなもの
 当時の規模がどの程度のものだったのか、今となっては想像するしかないが、先ほどの寺院も含め、現在の191号線と益田川にはさまれたエリア(奥行き、東西幅とも約100m)ではなかったのだろうか。
 なお、写真に見える最高所は10m程度の高さで、郭というより塚山の雰囲気が残る。



 彼らの動きが活発になればなるほど、そのうわさや伝聞が広がる。平家追討を主たる任務とした押領使益田兼高がこれを逃すはずはない。
 ただ、このころの兼高の対応は、一部には問答無用の誅殺処置を行った例もあったたようであるが、大半は兼高の下に帰順させ、被官化を図った。

 さて、この中で、上久々茂に最も近い所に逃れた平家としては、前稿「大谷城」で取り上げた馬谷高嶽城(島根県益田市馬谷)に在城した平宗兼といわれている。

 宗兼は、益田氏に降伏し、同地に留まり後に名族となる。宗兼の家臣・滝口半田時員(はんでんときかず)は、後に宗兼の冥福を祈り、高嶽山宗見院を菩提寺として建立する。
 宗県院の「宗」は宗兼からきている。当院は別名、半田寺とも呼ばれている。馬谷高嶽城は未登城のため、未だ紹介していないが、後に益田七尾城の支城となる。
【写真左】五輪塔
 段の下は畑地となっており、屋敷関係はこのあたりに建っていたのではないだろうか。
  写真にみえる五輪塔は小規模なもので、確か1、2基しか残っていなかった。



 大分前置きが長くなったが、馬谷高嶽城は、益田川支流の馬谷川上流部にあって、上久久茂土居に向かうには、馬谷川を下り波田川に合流し、その後益田川に下って行く方法もあるが、波田川に合流する手前の「大垰」を越え、そのまま谷を下ると、上久久茂土居に突き当たる。

 想像だが、平宗兼が高嶽城に居城していた時、この土居は宗兼の監視のための番所であり、その後、東方にある四ツ山城(島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山)ができたことによって、両城の中継地点としての役割があったのではないだろうか。
【写真左】土居の北側奥の崖付近
 北端部は断崖となっており、眼下には大きく蛇行した益田川が流れる。





 当該土居が設置された個所は、益田川の南岸部にあり、土居の北側は断崖絶壁となり、益田川が流れている。 

 この個所は益田川が大きく迂回する位置で、川幅も広く、この場所から下流へ向かうにはおそらくほとんど船が使われ、対岸の久久茂下という河原付近が、船着き場としての役割、すなわち湊でもあった可能性が高い。
【写真左】北側の益田川の河岸から南方に上久久茂土居を見る
 写真中央部が土居跡で、おそらくこの付近には数艘の川船が停泊していたのだろう。

 なお、左側が上流部になる。
【写真左】土居跡から南方を見る
 この谷を越えていくと、馬谷高嶽城へ繋がる。

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