2010年6月10日木曜日

椋梨城(広島県三原市大和町椋梨)

椋梨城(むくなしじょう)

●所在地 広島県三原市大和町椋梨
●登城日 2007年7月21日
●別名 堀城
●形態 平山城
●高さ 標高300m・比高10m
●築城期 鎌倉期
●築城者 小早川(椋梨)季平
●指定 市指定史跡

◆解説(参考文献「三原市史第1巻」等)
 前稿で取り上げた吉末城(東広島市豊栄町安宿)の麓を流れる椋梨川を下り、現在の三原市大和町に入ると、椋梨という地区に築城された平山城である。
山城というより居館跡といったほうがよさそうな小規模な城砦である。
【写真左】椋梨城遠望
 東麓側からみたもの。










 
【写真左】現地に設置された椋梨城の絵図など
 御覧の通り、非常にシンプルな城砦で位置関係も分かりやすい。






現地に設置された説明板より転載する。

椋梨城址
       昭和48年10月 大和町文化財指定

 椋梨城は堀城ともいわれ、後方野呂山の山麓に突出した小高い丘をきりぬいて独立させたものと思われ、前面に空濠を造り、恰好の整った方形の低い城であるが、築城の年は不明である。

 城主椋梨氏は、沼田高山城主小早川家の出で、土肥実平四代の小早川次郎景平二男新庄次郎左衛門季平は、沼田新荘(椋梨、和木、大草、小田、上山)を支配し、子の国平のころ(寛正4年:1246)からこの地に居住し、椋梨氏を称した。

 そして、後毛利氏に属して萩に転封されるまで代々350数年の長きにわたりこの地にあった。またすぐ近くに椋梨氏の菩提寺・学応寺、学応寺址、および椋梨氏一族の宝篋印塔・五輪塔が約60基余りある。
  昭和60年8       三原市教育委員会”
【写真左】現地に立つ石碑
椋梨堀城主防長移住 四百年供養記念碑  平成14年10月27日」と刻まれている。
 なお、現地には小規模な公園施設などが付帯されており、地元民の憩いの場としても使われているようだ。
 ちなみに、椋梨城の全体像を紹介している写真では、度々紹介しているサイト「城格放浪記さんが、この城についても詳しく載せているので、御覧頂きたい。


 説明板にもあるように、近世まで使用された城砦であることから、その間多くの手が加えられ、遺構の各年代ごとの判別は困難だが、基本的に居館は3つの郭から構成され、野呂山といわれる後山とは完全に遮断すべく、大きな堀切施工がなされている。

 また、当城付近には、地名として太郎丸・次郎丸・三郎丸・四郎丸という名称の地名があるらしく、これらは椋梨本城(居館)を防衛する支城の役割のものだったと思われる。
【写真左】北麓部付近
 説明版が設置してあり、駐車スペースがこの右側に車2台分程度確保してある。
 登城道はこの写真の左側にあり、あるいて1,2分でたどり着く。



 椋梨氏を名乗った国平の子定平は、永仁7年(1299)、箱根山悪党人逮捕の賞として、出羽国由利郡小友村(秋田県本荘市)を与えられている。季平以来、孫の定平も鎌倉大番役を務めている。

 定平の代になると、小早川惣領家である沼田から次第に離れ、また定平自身の新荘方の庶子家も次第に分離独立の流れが加速していった。この状況にさらに拍車をかけたのが、南北朝動乱である。
【写真左】城域頂部
 規模は南北約100m弱、東西約20m~10m程度で、北に向かって細くなる。
 全体にフラットだが、南側には2m程度の壇が控えている。
【写真左】西側から見たもの。
 西麓部分は道を設置しているせいか、すこし削り取られているようだ。
【写真左】南側から遠望する。
 写真手前には田圃があり、そこから少し下がって法面があり、東西に農道が走る。おそらく、当時この農道部分が堀切の役目があったものだろう。





◎関連投稿
安芸・藤山城(広島県三原市和木)

0 件のコメント:

コメントを投稿