2010年6月22日火曜日

壬生城(広島県北広島町壬生)

壬生城(みぶじょう)

●所在地 広島県北広島町壬生
●登城日 2010年5月19日
●別名 高峰城
●築城期 鎌倉期
●築城者 山県氏
●高さ 標高358m/比高90m
●遺構 郭・空堀・土塁等

◆解説
 前稿有田城(広島県山県郡北広島町有田)から東方4キロの小丘(津久羅山)に築城された山城で、寿永2年(1183)当地壬生荘に下向した山県為綱が築城したといわれている。
 壬生城ともいうが、現地では「高峰城」という呼称が一般的なようだ。

【写真左】壬生城遠望・その1
 北東部の道路わきから撮ったものだが、壬生城も前稿の「有田城」も中国自動車道を下り方向に走っていると、右手にはっきりと確認できる。
【写真左】壬生城遠望・その2
 西側にある道の駅「舞ロードIC千代田」から見たもの。
撮影日 2016年7月25日





現地の説明板より

高峰公園 いこいの森
 いこいの森は、城山と呼ばれて広く親しまれてきた高峰城跡に造られています。

 壬生の町の背後にそびえるこの山は、この地方に大きな勢力を持っていた山県氏(壬生氏)の居城でしたが、数度の合戦の後、享禄3年(1530)には、毛利氏によって完全に滅ぼされ、壬生の地は毛利氏の直接支配下に置かれることになりました。
【写真左】いこいの森公園に設置されている案内図
 壬生城側は、同図左側の細くなった個所で、文字が小さいものの、配置・距離感がよくわかる。

 なお、東麓の壬生神社から登るコースは山城探訪者としては正規のものだが、ハイキング気分の人には、この北側の「いこいの森」側から向かうと、4,5分でたどり着く。

 ちなみにこの日探訪した時は、雨天であったため、汗と雨ですっかり濡れてしまい、千代田のスーパーで、連れ合いに、衣類を買ってもらうはめになった。店員さんに壬生城登城の話をしたら、神社から登る人は少なく、ほとんど北側のこのコースだという。気の毒そうな顔をされた。


 城は海抜357mの小高い丘の上に築かれ、北側に本丸・二の丸が、南側に突き出たゆるやかな尾根に三の丸があります。
 また、城の東側のふもとには、北から壬生城主のものと伝えられる墓、壬生八幡宮とともに古くから崇敬された大蔵神社山県氏の菩提寺と伝えられる善福寺跡、壬生八幡宮跡、毛利元就が建立した壬生新宮社(現壬生神社)が、南側のふもとには同じく山県氏の菩提寺とされる多聞寺が並んでいます。
【写真左】壬生神社
 写真の鳥居の前にもう一つ鳥居があり、これには「新宮社」とあった。

 登城口はこの左側からだが、かなり傾斜のある崖に沢山の墓地が並んでおり、墓地用の道と混乱してしまった。




 これらの寺社は、この地域の人々の厚い信仰心を示していますが、同時に合戦の時は、城を防衛するための拠点にもなったものと思われます。
 壬生神社横の登山道を登ると、約15分で頂上に着き、山頂からは壬生市街はもとより、千代田町の主要部が一望できます。特に毎年4月第3日曜日に行われる「つつじ祭り」の前後には、全山がつつじの花に覆われ、大変見事なながめが見られます。”
【写真左】壬生神社側に設置された壬生城附近の絵図
 小さい写真なので分かりにくいが、およその配置がつかめる。




 上記の説明板は壬生神社付近に設置されたものだが、これとは別に壬生城の北側にある千代田運動公園「いこいの森」側に設置された説明板には、次のように記されている。


“「のぼり来て昔の跡を尋ぬれば
     音信(おとず)れにけり峰の松風」
 と、歌われた清楚典麗な山容高峰城は、壬生の庄を一望にあつめ、山県五郎信春を城主として戦国の世は流れていました。 しかし、天文5年(1536)8月18日、安芸吉田に興った毛利元就によって山城は、炎に包まれ跡形もなく戦国の舞台から消え去ったといいます。


 今でも、山頂「一の丸」からは、その歴史の一コマを証言するかのように炭と化した米が掘りだされています。
【写真左】多聞寺跡
 二の丸、三の丸などは小ぶりだが、写真に見える多聞寺なども含め、全体に変化に富んだ郭形状が多く、立位置が分からなくなるときがあった。




 時は移り、この地に暮らす人々は四季折々の風情に着飾るこの城山を遊びの山とし、またふるさとの山として親しみを込めて壬生城・高峰城と呼び「いこいの森」として整備されました。…(以下略)”



 以上のように、壬生城が落城した時期について、上段にある享禄3年(1530)説と、下段にある天文5年(1536)説の二つが記されている。

 享禄3年の大きな出来事としては、同年7月15日に大内義隆が毛利元就に対し、高橋興光の遺領・石見国上下荘を領有させている。
 これは前年の享禄2年5月、高橋弘厚が大内義隆に反し尼子経久についたことから、大内方であった毛利元就に弘厚の居城・松尾城を攻略させ、その子・興光の居城・藤掛城・阿須那城藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)参照)を占領、興光が自害したことからの戦後処理であった。

【写真左】本丸跡その1
 当城の中でもっとも規模が大きく、整備されている。位置的には北側というより、東側に眺望が確保されているで、東方の睨み、すなわち毛利氏を意識した地どりだろう。





 天文5年については、9月17日、尼子勢、安芸国戸坂において大内方・毛利勢と戦い、敗走する(「吉川家文書」)、という記録があり、翌6年3月7日、元就が当時尼子方であった生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)を攻略したとある。

 これらの動きを考えると、享禄3年説より、天文5年説の方が事実に近いだろう。どちらにしても、当城の記録はその後ほとんど記録されていないので、自動的に廃城の形となって朽ち果てていったと思われる。
【写真左】本丸跡その2
 この位置に立つと、東方からの動きが手に取るようにわかる。






【写真左】西方に有田城を遠望する
 前稿の有田城も、壬生城とほぼ同じ高さの標高を持つ。大朝方面からの動きも、有田城と合わせて、東西から挟み打ちにして攻める戦法を考えていたのだろう。

2 件のコメント:

  1. 私が生まれ育ち、走り回って遊んだ史跡をこれほど詳細にご紹介下さり感謝いたします。(本丸に設置されている解説看板は、満州から帰還し当地で塗装店を営んだ明治生まれの祖父が設置し、老朽により作り直したものです。)

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  2. コメントありがとうございます。当城の解説看板を御尊祖父が設置されたとのこと。本稿では壬生城にかかわった山県氏や壬生氏などは戦国期での活躍しか紹介しておりませんが、南北朝期より既に吉川氏と並んで、当地を長らく支配してきた名族です。特に両氏は石見国とも深くかかわり、足利直冬の傘下となって大いなる活躍をしています。

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