2010年6月18日金曜日

御薗宇城(広島県東広島市高屋町高屋堀)

御薗宇城(みそのうじょう)

●所在地 広島県東広島市高屋町高屋堀
●登城日 2008年3月15日
●築城年 弘安年間(1278~88)
●築城者 平賀惟長
●遺構 郭・土塁
●指定 県史跡

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 現在の東広島市に築城された山城で、沼田川の支流入野川からさらに枝分かれした萩原川中流部にある。
 北方の三次方面から向かうと、国道375号線の高屋町造賀(ぞうか)から左に向かう造賀田万里線(351号線)に入り、アップダウンと連続したカーブがしばらく続く。

 このあたりの盆地は「和名抄」に出てくる高屋郷(高屋保)としても知られ、中世になると、今稿の「御薗宇城」を築城した平賀氏の所領となった。
【写真左】御薗宇城遠望その1
 西側から見たもので、登城口は写真右側にある。
 城跡の規模は、南北170m×東西120mで、左の写真はそのうちの約半分を示したもの。残り北側半分は下段の写真参照のこと。




【写真左】その2
 残りの北側を見たもの。遺構としては、この写真の大半が屋敷跡になる。








 現地の説明板より

“広島県史跡 平賀氏の遺跡

御薗宇城跡

 昭和44年(1969)4月28日指定

 御薗宇城は出羽国平鹿(ひらが)郡から西遷した平賀氏の居城です。鎌倉時代末期にはすでに築かれていたらしく、以後文亀3年(1503)白山(しろやま)城に移るまで約200年間平賀氏の本拠地となっていました。

 新守護として安芸に下った山名満氏は、安芸国人衆と対立し、応永10年(1403)十代平賀弘章の時、山名氏は御薗宇城を攻め囲み、合戦は3年にわたる長期戦となりました。その間、弘章の子共益、惟益、惟元らは討死しましたが、安芸国人衆の応援により持ちこたえて、山名氏を退けることができました。
【写真左】登城口付近
 手前に民家があり、その裏側に登城用の坂道が造られている。この坂を登り切ると、すぐに左手に最初の郭が出てくる。





 城は防御と居住を兼ねた館城で、南に伸びた低丘陵を切断し、3段の平坦な曲輪と、それを三方から馬蹄状に囲む土塁状の曲輪からなっています。

 この付近には馬場や番匠免、トギ、カジヤなどの地名や、墓地が「平賀氏の遺跡」として広島県史跡に指定されている明道寺、また円福寺跡などの寺跡があり、御薗宇城を中心にして中世の面影を残しています。御薗宇城は鎌倉時代末期の形式を今に伝える貴重な城跡です。

 平成4年(1992)3月31日  東広島市教育委員会”
【写真左】中央部の郭
 写真に見える平坦地(曲輪)を馬蹄状に囲む高さ約5m程度の巨大な土塁が囲み、北側にはさらに独立した長径50m程度の郭が残る。
 この郭がおそらく屋敷跡だったと思われる。

 御覧のように、整地管理されているのはこの中央部の郭部分で、他の部分は竹林や雑木が伸びている。

 こうした形状の山城・館跡で類似しているのは、北広島町大朝の吉川氏居城だった駿河丸城(広島県山県郡北広島町大朝胡子町)である。
 特に中央部に低い平坦地を設け、左右・奥から見下ろす形状を持たせたスタイルは独特のものがある。
【写真左】中央部の郭と、東側の土塁切崖部分
 左の土塁には登っていないが、高低差がかなりある。

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