駿河丸城(するがまるじょう)
●所在地 広島県山県郡北広島町大朝胡子町
●登城日 2008年3月12日、2010年5月19日、及び6月16日
●別名 平家丸・間所城
●築城期 正和2年(1313)
●築城者 吉川経高
●城主 吉川経高、経盛、経秋
●遺構 郭、空堀、土塁
●規模 250m×70m
●高さ 標高420m/比高30m
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
前稿「壬生城」のある旧千代田町から浜田自動車道を浜田方面に向かっていくと、大朝という地区がある。この大朝の地区を見下ろしている山が、寒曳山で、その山の稜線延長線上に造られたのが駿河丸城である。
登城口に行くには、途中の大朝ICで降りて、一般道の石見街道(5号線)から向かう。
【写真左】駿河丸城遠望
後方の山は寒曳山で、駿河丸城は手前の民家の後にある丘に築城されている。
駿河丸城に登城するのは、3回目である。第1回目は2008年の冬で、現地に着いたものの、余りの竹林状態で、形状の確認もままならず、撮影した写真も納得のいくものがなく、消化不良の登城だったことを覚えている(下の写真参照)。
【写真左】2008年3月に訪れた時の写真
このころは、どの場所もこうした竹林の映像のみで、山城の雰囲気がまったく残らなかった。
その後、今年(2010)5月初旬、たまたま、千代田IC付近にある「道の駅舞ロードIC千代田」に立ち寄ったところ、地元北広島町で中世遺跡の散策をするというチラシをみつけた。この中で、駿河丸城の竹林を最近伐採したので、史跡見学の参加を募集するという内容になっていた。
【写真左】駿河丸城の配置図
現地に設置されているもので、竹林の伐採作業が行われた区域は、この図の左半分(本丸・二の丸)で、右(東)側の出丸(三の丸)や神社跡地はそのまま残っている。
それから数日たって、史跡見学には参加しなかったものの、現地を訪れ、駿河丸城のベールを脱いだ姿を見ることができた。ちょうど当城麓の民家に住んでおられる老夫婦の方がおられ、いろいろな情報を聴くことができた。
駿河丸城の土地所有者は、4,5人おられ、地元教育委員会の方で、同じく当町にある小倉山城と併せ、国指定を受けた際(昭和61年)、整備するという方針が出たが、駿河丸の方は、所有者の方から了承が得られず、結局その予算は小倉山城整備に回されたということらしい。
そうした経緯ののち、今年になって主郭を中心とした区域の竹林を伐採することが決まり、春になってその作業が行われたようだ。
【写真左】二の丸下段から本丸方向を見る
二の丸の下段にも数段にわたる郭段があるが、規模は小さい。
史跡の所在地はほとんどが民有地である。当然所有者としての権利が優先される。土地そのものが生業の元となっておれば、なおさら、外部の者が干渉することはできない。
しかし、史学的に価値の高いものとなれば、自ずと其処を探訪する人が増える。今回、所有者の方に伐採を了承していただいたことは、山城ファンにとって大変ありがたいことである。
特に、安芸吉川氏が、駿河国(清水市)から最初にやってきて築城した居城であることを考えると、管理人としてはより興味も募る。
【写真左】二の丸
駿河丸城は、御薗宇城の稿(6月18日投稿)でも述べたとおり、中央部に広い郭を設け、その周りを馬蹄形の郭群が上部から覗き込むような構成となっている。
駿河丸城の場合、本丸は右(東)郭となっているが、左側から囲むように伸びたこの二の丸が規模としては大きい。
さて、前置きがだいぶ長くなった。先ず、現地の説明板より、当城の概略を転載しておく。
“史跡 駿河丸城跡
多くの中世山城は、地域、地域の人々、財産を侵略から守る砦としての位置づけが大きかったと考えられています。
駿河丸城跡は、大朝盆地の北側、寒曳山南麓の標高440m、比高約30mの丘陵上に位置する丘城です。この丘城からは、大朝盆地の大部分を見渡せます。
【写真左】堀切
二の丸の右端と、本丸左端の境界部に設置されたもので、現状でもかなり急峻な傾斜を保っているので、当時は相当深く、梯子でもなければ簡単に登ることができなかったと思われる。
本城は、鎌倉時代末期(1313)に、吉川経高が駿河国(今の静岡県)から移り、築城し、以後、小倉山城に本拠を移すまでの約70年間、本拠地として使ったと伝えられています。
しかし、これらを裏付ける史料は乏しく、駿河丸城跡の名前については、別名間所(まどころ)城跡ともいわれ、江戸時代の中期以前は、平家丸城跡と呼ばれていたとの史料があります。
駿河丸城跡の遺構は、南に伸びる2本の丘陵先端部を利用したものです。郭群は、堀切や土塁で区切って造成し、郭の周囲は斜面を削り急峻にしており、中世山城の初期の形態を呈しているといわれています。
【写真左】本丸に設置された土塁
本丸は2段の構成となっており、中央部に面した位置に1m程度の高さを持った土塁が両端部まで繋がる。
反対側(東南部)には土塁の痕跡は認められなかったのが、この場所から下段にかけては約10m程度の切崖状の斜面を設けているため、その必要性がなかったものと思われる。
城の築造にあたっては、地域の人々が、自分たちの暮らしを守るため、各自が技術を発揮し協力して、汗を流した姿が思い浮かばれます。
1986(昭和61)年 8月28日 国指定 大朝町教育委員会”
【写真左】本丸下の郭
写真右に見える斜面の上が本丸になるが、予想以上の高低差(10m程度)がある。
写真奥の南東に見える山並みは、吉川氏が3回目の移城をした日野山城(火野山)方面。
【写真左】本丸奥の空堀付近
本丸の奥から東部にかけての区域は、造林の姿のままだが、竹の繁茂が少なく、じっくりと見ると、遺構の確認も不可能ではない。
◎関連投稿
小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)
日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)
楠公誕生地(大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分)
●所在地 広島県山県郡北広島町大朝胡子町
●登城日 2008年3月12日、2010年5月19日、及び6月16日
●別名 平家丸・間所城
●築城期 正和2年(1313)
●築城者 吉川経高
●城主 吉川経高、経盛、経秋
●遺構 郭、空堀、土塁
●規模 250m×70m
●高さ 標高420m/比高30m
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
前稿「壬生城」のある旧千代田町から浜田自動車道を浜田方面に向かっていくと、大朝という地区がある。この大朝の地区を見下ろしている山が、寒曳山で、その山の稜線延長線上に造られたのが駿河丸城である。
登城口に行くには、途中の大朝ICで降りて、一般道の石見街道(5号線)から向かう。
【写真左】駿河丸城遠望
後方の山は寒曳山で、駿河丸城は手前の民家の後にある丘に築城されている。
駿河丸城に登城するのは、3回目である。第1回目は2008年の冬で、現地に着いたものの、余りの竹林状態で、形状の確認もままならず、撮影した写真も納得のいくものがなく、消化不良の登城だったことを覚えている(下の写真参照)。
【写真左】2008年3月に訪れた時の写真
このころは、どの場所もこうした竹林の映像のみで、山城の雰囲気がまったく残らなかった。
その後、今年(2010)5月初旬、たまたま、千代田IC付近にある「道の駅舞ロードIC千代田」に立ち寄ったところ、地元北広島町で中世遺跡の散策をするというチラシをみつけた。この中で、駿河丸城の竹林を最近伐採したので、史跡見学の参加を募集するという内容になっていた。
【写真左】駿河丸城の配置図
現地に設置されているもので、竹林の伐採作業が行われた区域は、この図の左半分(本丸・二の丸)で、右(東)側の出丸(三の丸)や神社跡地はそのまま残っている。
それから数日たって、史跡見学には参加しなかったものの、現地を訪れ、駿河丸城のベールを脱いだ姿を見ることができた。ちょうど当城麓の民家に住んでおられる老夫婦の方がおられ、いろいろな情報を聴くことができた。
駿河丸城の土地所有者は、4,5人おられ、地元教育委員会の方で、同じく当町にある小倉山城と併せ、国指定を受けた際(昭和61年)、整備するという方針が出たが、駿河丸の方は、所有者の方から了承が得られず、結局その予算は小倉山城整備に回されたということらしい。
そうした経緯ののち、今年になって主郭を中心とした区域の竹林を伐採することが決まり、春になってその作業が行われたようだ。
【写真左】二の丸下段から本丸方向を見る
二の丸の下段にも数段にわたる郭段があるが、規模は小さい。
史跡の所在地はほとんどが民有地である。当然所有者としての権利が優先される。土地そのものが生業の元となっておれば、なおさら、外部の者が干渉することはできない。
しかし、史学的に価値の高いものとなれば、自ずと其処を探訪する人が増える。今回、所有者の方に伐採を了承していただいたことは、山城ファンにとって大変ありがたいことである。
特に、安芸吉川氏が、駿河国(清水市)から最初にやってきて築城した居城であることを考えると、管理人としてはより興味も募る。
【写真左】二の丸
駿河丸城は、御薗宇城の稿(6月18日投稿)でも述べたとおり、中央部に広い郭を設け、その周りを馬蹄形の郭群が上部から覗き込むような構成となっている。
駿河丸城の場合、本丸は右(東)郭となっているが、左側から囲むように伸びたこの二の丸が規模としては大きい。
さて、前置きがだいぶ長くなった。先ず、現地の説明板より、当城の概略を転載しておく。
“史跡 駿河丸城跡
多くの中世山城は、地域、地域の人々、財産を侵略から守る砦としての位置づけが大きかったと考えられています。
駿河丸城跡は、大朝盆地の北側、寒曳山南麓の標高440m、比高約30mの丘陵上に位置する丘城です。この丘城からは、大朝盆地の大部分を見渡せます。
【写真左】堀切
二の丸の右端と、本丸左端の境界部に設置されたもので、現状でもかなり急峻な傾斜を保っているので、当時は相当深く、梯子でもなければ簡単に登ることができなかったと思われる。
本城は、鎌倉時代末期(1313)に、吉川経高が駿河国(今の静岡県)から移り、築城し、以後、小倉山城に本拠を移すまでの約70年間、本拠地として使ったと伝えられています。
しかし、これらを裏付ける史料は乏しく、駿河丸城跡の名前については、別名間所(まどころ)城跡ともいわれ、江戸時代の中期以前は、平家丸城跡と呼ばれていたとの史料があります。
駿河丸城跡の遺構は、南に伸びる2本の丘陵先端部を利用したものです。郭群は、堀切や土塁で区切って造成し、郭の周囲は斜面を削り急峻にしており、中世山城の初期の形態を呈しているといわれています。
【写真左】本丸に設置された土塁
本丸は2段の構成となっており、中央部に面した位置に1m程度の高さを持った土塁が両端部まで繋がる。
反対側(東南部)には土塁の痕跡は認められなかったのが、この場所から下段にかけては約10m程度の切崖状の斜面を設けているため、その必要性がなかったものと思われる。
城の築造にあたっては、地域の人々が、自分たちの暮らしを守るため、各自が技術を発揮し協力して、汗を流した姿が思い浮かばれます。
1986(昭和61)年 8月28日 国指定 大朝町教育委員会”
【写真左】本丸下の郭
写真右に見える斜面の上が本丸になるが、予想以上の高低差(10m程度)がある。
写真奥の南東に見える山並みは、吉川氏が3回目の移城をした日野山城(火野山)方面。
【写真左】本丸奥の空堀付近
本丸の奥から東部にかけての区域は、造林の姿のままだが、竹の繁茂が少なく、じっくりと見ると、遺構の確認も不可能ではない。
◎関連投稿
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