2010年6月19日土曜日

銀山城(広島市安佐南区祇園町)

銀山城(かなやまじょう)

●所在地 広島市安佐南区祇園町
●登城日 2010年6月2日
●別名 金山城
●築城期 鎌倉末期
●築城者 武田信宗
●高さ 標高411m、比高400m
●遺構 郭(40か所以上)、空堀(5)、門跡等
●指定 広島県指定史跡

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 広島市を流れる大田川の西岸に聳える武田山山頂付近に築城された山城で、城域規模は650m×450mと近在の城砦のなかでも特に規模が大きい。

 なお、「銀山」と書いて、「かなやま」と読むが、近世以前の文献では「金山(城)」が使われている。
【写真左】武田氏の墓
 南側登城コースである「武田山憩いの森」の道から少し西にそれた宅地上部の竹林付近に建立されている。

 墓石はだいぶ劣化していて、五輪塔のようなものがそれぞれ3カ所にまとめて積んである。現地の説明板によると、戦国期の当主光和(元繁の子)の墓は東区の不動院に建立されている。




【写真左】不動院にある光和墓地付近より銀山城を見る
 不動院は次稿で紹介する予定だが、銀山城から直線距離で約4キロほど南南東に向かった大田川の麓にある寺院で、南北朝期、足利尊氏、直義兄弟が全国に創立した安国寺が元となっている。後に、武田氏の菩提寺となった。






【写真左】銀山城配置図
 山頂に設けられているもので、全体に北東から南西にかけて伸びた尾根を利用して作られている。



 最初に銀山城頂部に設置された現地の説明板から、当城の概要を記す。 

鎌倉時代初期、旧祇“広島県史跡 銀山城跡

 指定 昭和31年3月30日園町一帯には、安芸国内から運ばれてくる物資の保管倉庫(倉敷地)が集中していました。また、この地域は、古市、今津などの市場や港町でにぎわい、安芸国の政治、経済、交通の大変重要な場所を占めていました。

 こうした要衝の地をおさえるため、承久の乱(1221)で手柄を立てた甲斐(山梨)守護職武田信光は、安芸守護職に任命され、守護所を武田山南麓に構えました。その後、鎌倉時代末までには、武田氏により銀山城が築かれたと伝えられています。

 銀山城は、これ以後、天文10年(1541)大内氏の命を受けた毛利元就らに攻め落とされるまで約300年間、大田川中下流域を中心として安芸国支配をすすめようとした武田一族の一大拠点として重要な役割を果たしていました。

 現在、銀山城跡には、斜面を削り取り、平らにした50近くの郭の跡や、堀切などが残っています。特に中腹の要所に設けられた御門跡と呼ばれる郭跡には、通路を直角にとるかぎの手の石積みを残しており、近世城郭の枡型の原形として大変貴重なものといわれています。

 このように広島市域で最大の規模を持つ銀山城は構造的にもきわめてすぐれており、広島県を代表する中世の山城といえます。
平成2年2月10日 広島県教育委員会、広島市教育委員会”
【写真左】武田山ルート案内図
 当山にはいろいろな登城ルートがあるが、今回のルートが一番利用されているようだ。






 説明板にもあるように、築城者といわれる武田氏は、承久の変(1221)により安芸国守護に任命され、本国甲斐(山梨県)と併せ持つことになる。

 当初、武田氏(信光のころ)本人は安芸国に入国せず、守護代を送って、主に鎌倉に在任した。孫の信時の代になって、蒙古襲来などがあり、当国に入り本格的な領地を始めたようだ。

 鎌倉時代中期になると、早めに入国していた同氏庶流などは地頭として当地を支配しているが、記録によれば、今月取り上げた北方の三入荘「伊勢ヶ坪城」を本拠とする熊谷氏と、川船の通行税などをめぐって争っている。
【写真左】大蔵屋敷跡
 登城路の途中「祇園高校枝分かれ」を真っすぐ向かうと、大蔵(大倉)屋敷といわれるところがある。

 幅は約20m前後で、奥行き10m程度の平坦地が2段に構成され、東部には谷川が流れている。おそらく数棟の建屋があったものと思われ、平時の生活も可能だったと思われる。


 その後、銀山城は信時の孫・信宗の代(鎌倉末期)に武田山に築城された。信宗の子・信武は南北朝期足利尊氏に追従し、周辺の毛利・熊谷・吉川など率い東上している。

 ちなみに、このころ石見国での戦いで、安芸武田氏らの動きが記録されているので、付記しておきたい(「益田市史」)。

 建武4年(1337)4月、安芸の武田兵庫助信武は、吉川五郎次郎経盛、長門の厚東修理亮武実、石見邑智郡の小笠原氏を連合し、石見三隅に迫った。

 暦応2年(1339)7月には、石見の宮方軍(後醍醐派)である高津長幸らを主軸とした連隊が、孤立した武家方軍(尊氏派)の天野氏の拠る邑智郡市山城を攻めるというので、武田孫三郎入道、小笠原信濃守貞宗代らが救援に向かい、一戦を交えた。
【写真左】御門跡
 大倉屋敷跡から再び急坂を上り、「大手枝分れ」から本丸方向へ直進していくと、最初にこの「御門跡」が現れる。

 写真に見える説明板の内容を転載しておく。
御門跡
 ここは銀山城の南麓の出入口にあたり、城内への門があったと伝えられているところです。
 かつては、通路を直角にとる「鉤(かぎ)の手」に石積みがあったと思われ、この石積みで囲まれた部分は、近世の城郭で「枡形」と呼ばれる防御施設にあたり、その原型として注目される遺構です。”


 康永元年(1342)6月、足利直義は安芸国守護武田信武に命じて、兵を石見に進めさせ、7月安芸の武家方は芸州山県郡大朝(広島県北広島町)に陣し、石見の武家方と連絡を取りながら、市木の三坂峠(島根と広島の県境:浜田八重可部線)を避け、雲月峠(同県境で西方の今福芸北線)を目指していった。(中略)6月4日、来原の合戦が開始された。
  以上が石見国における武田氏の動きである。
【写真左】城跡(千畳敷)
 上記の御門跡から180mほど登っていくと、規模の大きな平坦地が出てくる。

 この場所が本丸跡とされているところで、幅は2,30mだが、奥行きは100m程度はあると思われる。


 さて、南北朝以降、武田氏は守護大名となり、熊谷氏、香川氏、己斐(こい)氏などを家臣としていくが、それ以上の伸長はなく、元繁の代には当初大内氏に従い、その後離反し独自に勢力拡大を図るため、毛利氏を討つべく有田合戦で戦うも、敗死してしまう。

 元繁の子・光和は後に尼子氏と組んで大内氏に対抗したため、度々銀山城は同氏に攻められるも持ちこたえた。
 しかし、次第に同氏の勢いは衰え、説明板にもあるように天文10年(1541)5月、大内義隆の命を受けた毛利元就によって落城した。
【写真左】御守岩台
 銀山城が最も偉容を見せる場所で、巨大な岩が武田山頂部に残る。
 また、ここから俯瞰する広島市街は絶景で、苦労して登城してきた者の疲れを一気に吹き飛ばすものがある。

 この場所の北東部には、大岩に囲まれた平坦地に館跡があり、さらに東に向かうと見張り台がある。ここから一旦数メートル下がって尾根伝いにいくと、出丸が控えているが、当日は見張り台までしか向かっていない。
【写真左】御守岩台より広島市街地を見る
 写真に中央部に見える道路は、山陽自動車道で、右方面が東方になり大坂方面に向かう。

 山陽自動車道は、この武田山(銀山城)や西峰の火山を北麓からぐるっと囲むように走り、火山西麓から大きくカーブして五日市方面に向かっている。
【写真左】御守岩台から広島市中心部および広島湾を見る
 この日は少しかすんでいたが、冬季などになれば、瀬戸内方面も鮮やかに見えるだろう。
【写真左】館跡付近から北西麓を見る
 安佐南区の西部方面も見ることができる。
写真左】弓場跡
 御守岩台から西側の尾根伝いに向かうと、北側の平坦地に弓場が見える。現地には手作りの弓・矢が備えられ、的も設置されている。
【写真左】観音堂跡
 弓場側から尾根を越え南側に廻ると、観音堂という個所がある。現地の説明板にもあるように、本来は郭として搦手の防御の役目をしていたものだろう。
【写真左】馬場跡
 観音堂付近から下山するルートは今一つはっきりしない案内標識で、少し迷ったが、途中から西の方に降りていくと、長さ30~40m(資料では70m)程度の平坦地が現れる。これが、馬場跡で近くに「水飲み場」という施設もある。
【写真左】櫓跡
 搦手ルートのものだろうが、石積み状況は大分崩れている。
【写真左】鹿ヶ谷自然道付近
 結局、登り道とはかなり離れた西側の谷に降りてしまった。鹿ヶ谷という谷らしいが、この道をさらに上に向かうと、武田山の西峰である「火山(H488m)」に行くようだ。
【写真左】鹿ヶ谷砦
 この砦名が記された施設(櫓)が、当時もあったものか判然としないが、戦略的には十分に考えられる。


 この後、この谷から一旦下まで降り、南麓の小路を北東部に向かって歩き、最初の登城口である「武田山憩の森」に戻った。

 銀山城は規模も大きいこともあり、すべての遺構をじっくりと見ようとすれば、半日では足らないだろう。まさに見ごたえ十分な山城である。

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