2010年6月21日月曜日

新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)

新日山安国寺 不動院(ふどういん)

●所在地 広島市東区牛田新町
●探訪日 2010年6月20日
●山号 新日山
●宗派 真言宗別格本山
●本尊 薬師如来
●創建 平安時代
●開基 空窓(伝)
●別称 安芸安国寺
●文化財 金堂(国宝)、鐘楼、楼門、薬師如来坐像、梵鐘(重要文化財)等

◆解説
 前稿で取り上げた銀山城(広島市安佐南区祇園町)城主・武田氏の菩提寺でもある「新日山 安国寺 不動院(以下「不動院」とする)」を取り上げる。

【写真左】不動院の楼門
 国重要文化財で、左右に鎮座する門内の金剛力士像は県重文になっている。





 現地の説明板より

“新日山安国寺 不動院の歴史

 新日山安国寺不動院は江戸時代の「新山雑記」では、当寺の開基は僧空窓(くうそう)であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。
 
 ただ金堂内に安置されている本尊薬師如来像が定朝(ていちょう)様式であることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。 当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は、足利尊氏、直義公兄弟が日本60余州に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以後、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。
【写真左】配置図
 「二葉の里歴史の散歩道」より
 広島市内を流れる太田川の東岸にあって、左図の左上にある。



 しかし、戦国時代の大永年間(1521~27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後50年は藁屋(わらや)に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。

 当寺を復興したのが、戦国大名毛利氏の外交僧として、又、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊(えけい)です。恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、寺運は隆盛を極めました。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に与した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊亡き後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。
【写真左】不動院内の配置絵図
 下段に紹介する豊臣秀吉遺髪塔・福島正則供養塔・安国寺恵瓊墓・武田刑部少輔墓などは本堂の奥(左)の墓所にある。




 毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国49万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍(ゆうちん)が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺全体を不動院と称するようになりました。

 正則公の治政は20年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以後藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。

 原子爆弾投下に際しても、地理的条件が幸いして災禍を免れ、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。”
【写真左】金堂・その1
 大変に優美な建物である。

 この金堂を見た瞬間思い出したのが、前年訪れた長府(山口県)の功山寺大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)参照)である。
 大きさ、形など実によく似ているため、時々二院の記憶が混乱することがある。



 所在地は、広島市の国道54号線が二つに分かれた祇園新道側の大田川にかかる祇園新橋の麓にあり、後背には牛田山が控える。前稿でも取り上げたように、不動院の墓地から北西方向に目を転ずると、銀山城をいただく武田山が見える。

 もともと南北朝期に尊氏らが創建させた安国寺の一つで、後に武田氏の菩提寺となった。武田氏の墓は、前稿で紹介しているように銀山城南麓に歴代のものがあるが、不動院にあるのは、光和のものである。
【写真左】金堂・その2
 国宝指定になっているもので、堂内には薬師如来像(国重文)が祀られている。




 戦国時代の大永年間(1521~27)、武田氏と大内氏の戦いにより、伽藍が焼失した。その後50年間は、藁屋(わらや)を建てて、本尊の薬師如来を安置していたという。

 当寺がそのあと本格的に復興したのは、毛利氏の外交担当として手腕をふるった僧・安国寺恵瓊で、伽藍をはじめ、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などほとんどの施設を再建した。
【写真左】武田刑部少輔墓
 武田刑部少輔は、光和のことで、この五輪塔は彼の墓とされている。生没年がはっきりしないが、文亀3年(1503)~天文4年(1535)という短い生涯を終えた。

 永正14年(1517)、有田中井手(現在の北広島千代田付近)の戦いで父・元繁が亡くなり、安芸武田氏を継ぐ。父同様、尼子氏に従属して、大内氏や毛利氏と抗争した。

 特に、大永4年(1524)大内義興・義隆父子による安芸国侵攻の際、尼子氏属城の一つであった武田氏の拠る銀山城の戦いは壮絶で、落城しかけた銀山城に尼子氏(経久)が、配下の国人衆を急ぎ動員して救い、大内氏は退却を余儀なくされている。なお、このころは毛利氏は尼子氏の配下にあった。


 しかし、その恵瓊も関ヶ原の戦いで西軍が破れたことにより、処刑され、毛利氏転封後、入国した福島正則の祈祷僧であった宥珍(ゆうちん)が当寺に入り、住持した。
 この時、それまでの禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を「不動院」と称した。
【写真左】福島正則の墓
 福島正則の晩年は、安芸・備後50万石を没収され、信濃(長野)の山奥(高井野藩)に減封され、当地で亡くなっているので、この墓はいわゆる供養塔と思われる。



 正則はよく知られているように、わずか20年足らずの治世で、そのあと浅野氏が入り、同氏が歴代藩主となっていく。
 第二次世界大戦の広島への原爆投下の際、奇跡的に災禍を逃れ、今日に至っている。
【写真左】豊臣秀吉遺髪塔
 福島正則が当地に入国した際、祀ったものと思われるが、正則の秀吉に対する忠義心がよくあらわれている。



安国寺恵瓊

 恵瓊の出自は諸説あり確定していないが、一つの説として、安芸武田氏の一族、もしくは武田元繁の娘婿・伴繁清の息子ともいわれている。
【写真左】安国寺恵瓊の墓












 天文10年(1541)毛利元就が武田氏を滅ぼすと、家臣の手によって脱出し、当院に一旦出家する。
 その後京都東福寺に入り、以後さまざまな形で毛利家に仕え、外交交渉に活躍した。
 戦国期に合戦などの交渉事にあたった僧は、幾人かはいるが、その案件の数の多さでは群を抜いている。

 後年は僧侶の身分のまま、大名としての禄高も取得している。
 関ヶ原の戦いでは、西軍方であったため、捕らえられ、京都六条河原において、石田三成・小西行長らととともに斬首された。享年62歳。
【写真左】不動院から銀山城を遠望する。
 太田川を挟んで北方に安芸武田氏の居城・銀山城(武田山)が見える。

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