2010年6月17日木曜日

熊谷氏土居屋敷跡(広島市安佐北区三入南1)

熊谷氏土居屋敷跡(くまがやしどいやしきあと)

●所在地 広島市安佐北区三入南1
●探訪日 2008年3月15日
●築造者 熊谷兵庫頭高直
●築造期 室町期

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 前稿で紹介した「伊勢ヶ坪城」からさらに国道54号線を4キロ程度南下していくと、三入南地区に「熊谷氏土居屋敷跡」がある
【写真左】熊谷氏土居屋敷跡
 写真にある看板が説明板で、その下部には石垣跡がのこる。
 屋敷跡地周囲は、ハム工場や変電所、駐車場など雑然とした施設が建ち、しかも道が広くなく、当地に進入する際、車の運転には注意が必要だ。

 現地の説明板より転載する。

“広島県史跡 熊谷氏の遺跡・土居屋敷跡
   指定 昭和45年1月30日 広島市可部町大字下町屋字土居

熊谷氏と三入荘
 承久の変(1221)で勝利をおさめた鎌倉幕府は、戦功のあった武将たちを西国各地の守護・地頭に任じた。武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)の熊谷氏は、安芸国三入荘(現在の大字大林、桐原、上・下町屋付近)の地頭に任ぜられると、間もなくこの地に移り伊勢ヶ坪に城を築いた。

 その後、室町期に入ってから戦略的により優れた高松山に本拠を進め、麓に屋敷を構えた。また、この屋敷と根之谷川をはさんで向かい合う位置に、一族の菩提所・正法山観音寺を営んだ。
【写真左】石垣跡と石碑
 遺構としては、写真に見える石垣のみが残存する。この石垣の規模は、東西40m×南北45mで、中央に門跡、前面には堀跡があると記録されているが、大分痕跡が減じている。
土居屋敷跡 伊勢ヶ坪から高松城に本拠を進めた熊谷氏が、天正19年(1591)毛利氏に従って広島に移るまで、平常使用していた屋敷・政庁跡である。背後に高松城(海抜高度339m)をひかえ、前面の根之谷川を天然の堀とした要害の地にある。

 屋敷跡の広さは約20アールと推定されるが、現在は、わずかにL字型に残る石垣にその跡をとどめる。なお、正面中央付近の「切りかけ」は門跡と考えられている。また、この付近一帯の字を土居というが、これは有力な地方豪族の屋敷を中心とした中世の集落が、この地に存在していたことを物語るものである。
【写真左】熊谷氏の遺構配置図
 現地説明板に添付された地図で、中央下部の濃線で囲んだ個所が「高松山城」、そのほぼ真北に当地・土居跡がある。また、最初に築城した「伊勢ヶ坪城」は、右上の位置に小さく記入されている。

 説明板設置については、ここの土地所有者で、熊谷氏の子孫と伝えられる岡太直氏の承諾を得たものである。
  昭和52年3月1日 広島市教育委員会”
【写真左】土居屋敷跡から高松山城を見る
 当屋敷跡地の南方の隅に、当城へ向かう登城入口があるが、相当崩落した石が麓付近から散在しており、しかも傾斜も険しく、途中までで引き返した(時間的にも余裕がなかった)。
 この位置から繋がる登城路は、室町期に熊谷氏がもっとも利用したものと思われるが、こういう登城路を踏みしめるたびに、当時の武将たちの健脚・体力に脱帽せざるを得ない。

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