米山寺・小早川隆景墓
●所在地 広島県三原市沼田東町納所
●探訪日 2008年3月15日及び2014年5月8日
◆解説
前稿で取り上げた新高山城(広島県三原市本郷町本郷)の麓を流れる沼田川を少し下り、土肥実平が最初に居を構えたといわれる三太刀から沼田川の対岸を南下し、約1キロ余り谷間に入ると、県史跡となっている小早川隆景の墓が祀られている米山寺がある。
【写真左】米山寺全景
この日訪れた時、特に門の建物が新しくなっていた。
手前に広いスペースがあるが、この付近一帯は茂平時代、山内に塔頭12坊があったことからだと思われる。
現地の説明板より
“国重要文化財
米山寺宝篋印塔
昭和31年6月28日指定
所在 三原市沼田東町納所
米山寺は、嘉禎元年(1235)、小早川茂平によって境内に不断念仏堂が建立され、小早川氏の菩提寺となった。
小早川氏歴代の墓など(石造宝篋印塔20基)が、二列に整然と並んでいる。このうち、後列、向かって一番左の大型の塔が米山寺宝篋印塔で、高さ223.4cmで、この塔は、元応元年(1319)に供養塔として造られたもので、形態は温雅の感があり美しく、鎌倉時代末期宝篋印塔の秀作である。
塔身に「大工念心 元応元年己末11月 日、一結衆敬白」の刻銘がある。”
【写真左】米山寺宝篋印塔および小早川隆景墓のある墓所
宝篋印塔がこれだけ整然と並んでいる墓所は珍しい。
しかも墓の保存状態もいい。
“広島県史跡
小早川隆景墓
昭和18年3月26日指定
墓は、149.1cmの宝篋印塔で、前列右端に位置する。
小早川隆景は、天文2年(1533)、毛利元就の三男として生まれ、竹原小早川家の養子に迎えられた後、天文19年(1550)には、沼田小早川家を相続し、兄吉川元春とともに父元就を助けて、毛利氏の中国統一を成就させ、後に豊臣秀吉の五大老の一人となった。
慶長2年(1597)65歳で没した。
三原市教育委員会”
【写真左】小早川隆景の墓
当該写真及び、下段の各墓は2014年5月8日に再訪した時撮影したもの。
【写真左】小早川繁平の墓
安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その2でも紹介したように、出雲において討死した正平の嫡男であるが、3歳のとき眼病を患い失明した武将である。
【写真左】小早川正平の墓
小早川正平の墓(島根県出雲市美談町)でも紹介したように、亡くなった場所は天文12年(1543)5月9日、島根県出雲市(旧平田市)美談町である。大内義隆の殿(しんがり)をつとめ、敗走の際尼子方によって討ち取られた。享年21歳。
【写真左】小早川興平の墓
永承2年(1505)~大永6年(1527)。
扶平の長男
【写真左】小早川扶平(すけひら)の墓
文明17年(1485)~永正5年(1508)。
敬平の長男。管領細川政元(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)に接近、備後三原を支配。後、大内義興、分家竹原小早川家より圧力を受ける。
【写真左】小早川敬平の墓
熈平(下段)の子で、竹原小早川家と戦った。
【写真左】小早川熈平の墓
文明年間東軍方細川勝元(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)に属して京において活躍する。
【写真左】小早川則平の墓
安芸・高塚城(広島県東広島市福富町上戸野)参照
【写真左】小早川春平の墓
応永4年(1397)三原市の古刹・仏通寺開基。
稲村山城(広島県三原市小坂町)参照。
【写真左】小早川貞平の墓
永和元年(1375)没。春平の父。
鎌倉幕府方として元弘の乱に参陣。近江国番場連華寺における六波羅探題一族郎党400余の自刃の際、脱出、本拠安芸国へ逃げ帰る(近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)参照)。
【写真左】土肥實平の墓
小早川氏の祖となった人物である。
安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1参照。
【写真左】後列の墓
中央部に實平の墓があり、記銘のある墓もあるが、不明なものもある。
ただ、いずれも小早川氏累代のものだろう。
米山寺の寺伝によると、仁平3年(1153)天台宗寺院として開かれたが、南北朝時代のころ、宣平の子応庵祖璿(おうあんそせん)のとき、臨済宗に変わり、巨真寺と称した。
【写真左】12坊の一つ日光坊
米山寺境内奥の小路を少し登っていくと、当坊がある。
当時、浄土坊、歓喜坊、宝蔵坊、 来迎坊、西隣坊、安楽坊、長楽坊、松林坊、安養坊、仏頂坊、蓮葉坊、そして日光坊の12坊があったといわれ、最後まで残っていたのが日光坊だったという。写真の建物は明治13年頃改築したものといわれている。
建具などは最近のもののようだ。
【写真左】高山城及び新高山城遠望
米山寺の西側の峠から見たもの。
下にみえる工業団地側から米山寺に向かう道が最近整備され、眺望が楽しめる。
撮影:2014年5月8日
(べいさんじ ・ こばやかわたかかげ はか)
●所在地 広島県三原市沼田東町納所
●探訪日 2008年3月15日及び2014年5月8日
◆解説
前稿で取り上げた新高山城(広島県三原市本郷町本郷)の麓を流れる沼田川を少し下り、土肥実平が最初に居を構えたといわれる三太刀から沼田川の対岸を南下し、約1キロ余り谷間に入ると、県史跡となっている小早川隆景の墓が祀られている米山寺がある。
【写真左】米山寺全景
この日訪れた時、特に門の建物が新しくなっていた。
手前に広いスペースがあるが、この付近一帯は茂平時代、山内に塔頭12坊があったことからだと思われる。
現地の説明板より
“国重要文化財
米山寺宝篋印塔
昭和31年6月28日指定
所在 三原市沼田東町納所
米山寺は、嘉禎元年(1235)、小早川茂平によって境内に不断念仏堂が建立され、小早川氏の菩提寺となった。
小早川氏歴代の墓など(石造宝篋印塔20基)が、二列に整然と並んでいる。このうち、後列、向かって一番左の大型の塔が米山寺宝篋印塔で、高さ223.4cmで、この塔は、元応元年(1319)に供養塔として造られたもので、形態は温雅の感があり美しく、鎌倉時代末期宝篋印塔の秀作である。
塔身に「大工念心 元応元年己末11月 日、一結衆敬白」の刻銘がある。”
【写真左】米山寺宝篋印塔および小早川隆景墓のある墓所
宝篋印塔がこれだけ整然と並んでいる墓所は珍しい。
しかも墓の保存状態もいい。
“広島県史跡
小早川隆景墓
昭和18年3月26日指定
墓は、149.1cmの宝篋印塔で、前列右端に位置する。
小早川隆景は、天文2年(1533)、毛利元就の三男として生まれ、竹原小早川家の養子に迎えられた後、天文19年(1550)には、沼田小早川家を相続し、兄吉川元春とともに父元就を助けて、毛利氏の中国統一を成就させ、後に豊臣秀吉の五大老の一人となった。
慶長2年(1597)65歳で没した。
三原市教育委員会”
【写真左】小早川隆景の墓
当該写真及び、下段の各墓は2014年5月8日に再訪した時撮影したもの。
【写真左】小早川繁平の墓
安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その2でも紹介したように、出雲において討死した正平の嫡男であるが、3歳のとき眼病を患い失明した武将である。
【写真左】小早川正平の墓
小早川正平の墓(島根県出雲市美談町)でも紹介したように、亡くなった場所は天文12年(1543)5月9日、島根県出雲市(旧平田市)美談町である。大内義隆の殿(しんがり)をつとめ、敗走の際尼子方によって討ち取られた。享年21歳。
【写真左】小早川興平の墓
永承2年(1505)~大永6年(1527)。
扶平の長男
【写真左】小早川扶平(すけひら)の墓
文明17年(1485)~永正5年(1508)。
敬平の長男。管領細川政元(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)に接近、備後三原を支配。後、大内義興、分家竹原小早川家より圧力を受ける。
【写真左】小早川敬平の墓
熈平(下段)の子で、竹原小早川家と戦った。
【写真左】小早川熈平の墓
文明年間東軍方細川勝元(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)に属して京において活躍する。
【写真左】小早川則平の墓
安芸・高塚城(広島県東広島市福富町上戸野)参照
【写真左】小早川春平の墓
応永4年(1397)三原市の古刹・仏通寺開基。
稲村山城(広島県三原市小坂町)参照。
【写真左】小早川貞平の墓
永和元年(1375)没。春平の父。
鎌倉幕府方として元弘の乱に参陣。近江国番場連華寺における六波羅探題一族郎党400余の自刃の際、脱出、本拠安芸国へ逃げ帰る(近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)参照)。
【写真左】土肥實平の墓
小早川氏の祖となった人物である。
安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1参照。
【写真左】後列の墓
中央部に實平の墓があり、記銘のある墓もあるが、不明なものもある。
ただ、いずれも小早川氏累代のものだろう。
米山寺の寺伝によると、仁平3年(1153)天台宗寺院として開かれたが、南北朝時代のころ、宣平の子応庵祖璿(おうあんそせん)のとき、臨済宗に変わり、巨真寺と称した。
【写真左】12坊の一つ日光坊
米山寺境内奥の小路を少し登っていくと、当坊がある。
当時、浄土坊、歓喜坊、宝蔵坊、 来迎坊、西隣坊、安楽坊、長楽坊、松林坊、安養坊、仏頂坊、蓮葉坊、そして日光坊の12坊があったといわれ、最後まで残っていたのが日光坊だったという。写真の建物は明治13年頃改築したものといわれている。
建具などは最近のもののようだ。
【写真左】高山城及び新高山城遠望
米山寺の西側の峠から見たもの。
下にみえる工業団地側から米山寺に向かう道が最近整備され、眺望が楽しめる。
撮影:2014年5月8日
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