松尾城(まつおじょう)
●所在地 広島県東広島市安芸津町三津
●登城日 2010年1月9日
●標高 180m(比高140m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 行友光叔
●遺構 帯郭、堀切等
●別名 三津城
◆解説(参考文献:サイト「城格放浪記」、「図説 東広島・竹原・呉の歴史」郷土出版社編等)
延文3年(1358)、竹原小早川家の6代・実義のとき、今稿の「松尾城」がある三津村を軍功により与えられている。おそらく足利尊氏の旗揚げに際し、戦功があったことからと思われるが、同年には尊氏自身は没している。
【写真左】登城口付近
北方の東広島市西条方面から南下し、県道32号線を安芸津方面に向かっていくと、途中で北東方面に枝分かれする狭い道がある。
岩伏川という三津川の支流を登っていくと、写真に見える登城口を示した標識が立っている。駐車スペースは農道の脇に1台分確保できるところがある。
現地の説明板より
“中国自然歩道
松尾城跡
松尾城は、瀬戸の島々を一望の下に眺め渡す安芸津町三津城山(海抜187m)に築かれていました。
小早川家にあって、永禄年間(1558~70)戦功を挙げた行友源左衛門光叔の居城であったと、芸藩通志に見えます。
また、郷土史によると素鵞神社(もと元祇園社といい、明治4年に改名)は、松尾城の鎮守であったといわれています。”
築城期は不明だが、当地を与えられたのち、応永年間以降、竹原小早川家が着々と領地を増やしていっているので、15世紀初頭には築城されていたものと思われる。
特に瀬戸内海の諸島へ進出し、大崎上島、同下島、豊島と南進、享徳元年(1452)には、以前紹介した芸予諸島の蒲刈島へも進攻している。
【写真左】松尾城遠望
登城してしばらく行くと、尾根のピークに出てくる。この位置から左へ向かうと、本丸が先に出てくる。
松尾城は、小早川氏の家臣・行友(いくとも)氏の城といわれている。竹原小早川氏の西方の押さえとして、また、三津湾を望む瀬戸内海の監視を兼ねた山城だったと思われる。
なお、今回は登城していないが、安芸津から東方の竹原市へ向かう途中の木谷というところにも、木谷氏が拠った「重信城」もあり、松尾城とセットで当地の押さえをしていたものと思われる。
【写真左】ピークから本丸へ向かう尾根道
搦手側と思われるが、傾斜はややきつい。
【写真左】本丸直下付近
写真にある標識の指示に従って向かったが、本丸に登れる道がまともに残っておらず、あえぎながらよじ登った。この位置からは約7,8mの高低差があった。
なお、当城は先ほどの搦手部分に小規模な帯郭を残し、本丸から南方に5,6段の郭をつなげている。
【写真左】本丸跡
規模は20×15m程度のもので、中央部に3m前後の円形の窪みが認められた。
御覧の通り、近年はほとんど整備されていないようだ。
【写真左】井戸跡
本丸南の帯曲輪付近にあるもので、ほどんど埋まっている。
前記の本丸の規模がさほど大きくないので、兵力の大半はこの帯郭を中心とした場所を利用していたのだろう。
【写真左】物見台の石?
南方に伸びた郭段の途中にあるもので、この石の上から眺めると、さらに視界が広がる。
【写真左】南端部の郭から安芸津の町並みと三津湾を見る
左に大崎上島町、奥が大崎下島などが見える。
●所在地 広島県東広島市安芸津町三津
●登城日 2010年1月9日
●標高 180m(比高140m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 行友光叔
●遺構 帯郭、堀切等
●別名 三津城
◆解説(参考文献:サイト「城格放浪記」、「図説 東広島・竹原・呉の歴史」郷土出版社編等)
延文3年(1358)、竹原小早川家の6代・実義のとき、今稿の「松尾城」がある三津村を軍功により与えられている。おそらく足利尊氏の旗揚げに際し、戦功があったことからと思われるが、同年には尊氏自身は没している。
【写真左】登城口付近
北方の東広島市西条方面から南下し、県道32号線を安芸津方面に向かっていくと、途中で北東方面に枝分かれする狭い道がある。
岩伏川という三津川の支流を登っていくと、写真に見える登城口を示した標識が立っている。駐車スペースは農道の脇に1台分確保できるところがある。
現地の説明板より
“中国自然歩道
松尾城跡
松尾城は、瀬戸の島々を一望の下に眺め渡す安芸津町三津城山(海抜187m)に築かれていました。
小早川家にあって、永禄年間(1558~70)戦功を挙げた行友源左衛門光叔の居城であったと、芸藩通志に見えます。
また、郷土史によると素鵞神社(もと元祇園社といい、明治4年に改名)は、松尾城の鎮守であったといわれています。”
築城期は不明だが、当地を与えられたのち、応永年間以降、竹原小早川家が着々と領地を増やしていっているので、15世紀初頭には築城されていたものと思われる。
特に瀬戸内海の諸島へ進出し、大崎上島、同下島、豊島と南進、享徳元年(1452)には、以前紹介した芸予諸島の蒲刈島へも進攻している。
【写真左】松尾城遠望
登城してしばらく行くと、尾根のピークに出てくる。この位置から左へ向かうと、本丸が先に出てくる。
松尾城は、小早川氏の家臣・行友(いくとも)氏の城といわれている。竹原小早川氏の西方の押さえとして、また、三津湾を望む瀬戸内海の監視を兼ねた山城だったと思われる。
なお、今回は登城していないが、安芸津から東方の竹原市へ向かう途中の木谷というところにも、木谷氏が拠った「重信城」もあり、松尾城とセットで当地の押さえをしていたものと思われる。
【写真左】ピークから本丸へ向かう尾根道
搦手側と思われるが、傾斜はややきつい。
【写真左】本丸直下付近
写真にある標識の指示に従って向かったが、本丸に登れる道がまともに残っておらず、あえぎながらよじ登った。この位置からは約7,8mの高低差があった。
なお、当城は先ほどの搦手部分に小規模な帯郭を残し、本丸から南方に5,6段の郭をつなげている。
【写真左】本丸跡
規模は20×15m程度のもので、中央部に3m前後の円形の窪みが認められた。
御覧の通り、近年はほとんど整備されていないようだ。
【写真左】井戸跡
本丸南の帯曲輪付近にあるもので、ほどんど埋まっている。
前記の本丸の規模がさほど大きくないので、兵力の大半はこの帯郭を中心とした場所を利用していたのだろう。
【写真左】物見台の石?
南方に伸びた郭段の途中にあるもので、この石の上から眺めると、さらに視界が広がる。
【写真左】南端部の郭から安芸津の町並みと三津湾を見る
左に大崎上島町、奥が大崎下島などが見える。
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