小倉山城(おぐらやまじょう)
●所在地 広島県山県郡北広島町新庄字小倉山
●登城日 2006年10月25日、及び2009年4月27日
●別名 小倉城・紅葉山城
●築城期 南北朝末期
●築城者 吉川経見
●形状 放射状連郭式山城
●遺構 本丸、三の丸、空堀、礎石等
●指定 国史跡
●規模 700m×700m
●高さ 標高460m、比高80m
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
前稿「駿河丸城」でも述べたとおり、駿河丸城を築いた初代・経高(吉川)から、四代目となる経見がこの地に本拠を移したとされている。駿河丸城からは直線距離で約3キロ下った同町の新庄地区に築かれた。
【写真左】現地にある案内図
写真上が南になり、散策コースは赤字が南回りコース、青字が北周りコースとして図示されている。
主たる遺構が多いのは青字の北周りコースで、この日も北側の駐車場に停めて向かった。
図示されているように、当城の見どころは、本丸、二の丸、三の丸、御座所跡、堀切などである。
駿河丸城、小倉山城とも北方の隣国石見国に接しているが、小倉山城の方が街道筋(石見街道・国道261号線)の峠(中三坂の峠)にアクセスがしやすく、交通の要衝でもあり、領地経営がしやすいと考え、移ったものと思われる。
経見の後、当城を引き継いだのは、5代経信、6代元経、7代経基、8代国経、9代元経、10代興経と6代が続き、この興経の時代に、次の移城先である日野山城までの百数十年間、安芸吉川氏の居城となった。もっとも、興経自身が移城を計画したものではなく、結果的には養子として入った元就の次男・元春が移城を完了させていると考えられる。
【写真左】北側駐車場側(北周りコース)にある案内標識
駐車場から城域までは1,2分程度で着く。北周りコースも西側の登城路から入って行った方が、効率がいいかもしれない。
興経は、自身の領主としての能力・器量が極めて低く、尼子や大内の間を度々鞍替えし、このため一門や他の国人領主から信頼を失い、最後は強制的に幽閉・隠居させられた。
その後も興経は元就に復活の嘆願を行うが、これが逆に不穏な動きととられ、天文19年(1550)元就の命を受けた熊谷信直・天野隆重らによって殺害された。吉川氏直系の嫡流(駿河国藤原姓)は、この時をもって断絶した。
【写真左】本丸へ向かう
最初に右手に二の丸が見え、前方にある御座所跡を見て左側にある坂道が本丸登城路になっている。
写真にあるように高さは優に10mは越えているだろう。
小倉山城の略歴で特徴的なことは、当城で合戦の記録がほとんど見られないことである。前記したように、経見から元春(興経)まで約150年以上もの長い間居城とされたが、戦が行われなかったというのも珍しい。
そのため、代が変わるごとに規模が拡大され、特に応仁・文明の乱の7代経基のとき、領地の大幅な取得があり、それにともなって当城の規模も大きくなり、整備も進んだ。おそらく現在の遺構の大半は、この7代経基のころに施工されたものといわれている。
【写真左】本丸跡その1
掘立柱跡が復元されている。全体に整備が行き届いていることもあるが、郭群の仕上げが非常に丁寧である。
城域の規模は、駿河丸城をはるかにしのぎ、およそ700m四方の中に造られた。地元北広島町教育委員会のパンフレットによると、発掘調査では次のようなものが発見されている。
掘立柱建物跡、堀切、登城路、什器関係では備前焼、瀬戸・美濃焼、陶磁器(明・朝鮮製)、太刀金具、切羽、コギネ(鎧の一部)
【写真左】本丸跡その2
【写真左】本丸跡から南方に日野山城を見る
左側の山で、標高705mと高く、比高も300m以上もある。小倉山城のあと、吉川元春が居城とした県内屈指の大規模な山城である。
管理人は麓を度々通過するが、山容を見ただけで躊躇している。
【写真左】本丸から南方に門跡を持つ郭を見る
写真の郭からさらに南に伸びる舌状丘陵にも小規模な郭段が連続しているが、おそらくこのルートが大手口のものと思われる。
門跡の後部にも建物跡があることから、いわゆる番所の役割を果たしていたのではないかと思われる。
なお、この門跡を過ぎると本丸に向かうには、最初の登り口まで一旦左へ向かわないと登れない設計になっている。
【写真左】土塁跡
本丸の北側下段にある帯郭から三の丸方面に向かう位置にあるもので、東側の進入を意識したものと思われる。
【写真左】三の丸から見上げた本丸北端部 上記の土塁を過ぎると、三の丸が配置されている。
三の丸は当城の最北端部の郭になっている。 戦略的な構図でもあるが、景観的にも山城としての美しさがうかがえる。
【写真左】御座所跡
本丸から一旦降りて、南西部に巨大な平坦地を構成しているのが、御座所跡である。
詳細にみると、3~4程度の段差をもっているが、ほとんどフラットである。長径は100m前後はあると思われる。この場所で多くの将兵が戦の準備をしていたことだろう。
【写真左】御座所跡から本丸を見る
写真は本丸の西端部にあたるが、この位置から見ると、さらにその高さを感じる。
【写真左】堀切
御座所跡の西端に設置されたもので、堀切の左側丘陵部は当城の城砦施設として図示はされていないが、小規模な郭がさらに連続して構成されているように見えた。
◆まとめ
訪れた時期も良かったかもしれないが、当城の保全管理は極めて良好で、しかも各遺構ごとに詳細な説明板が設置され、探訪する者にとって十分に満足できる山城である。
改めて、当地・北広島町(教育委員会)の御尽力に感謝したい。
◎関連投稿
嶽山城(大阪府富田林市龍泉)
●登城日 2006年10月25日、及び2009年4月27日
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●築城期 南北朝末期
●築城者 吉川経見
●形状 放射状連郭式山城
●遺構 本丸、三の丸、空堀、礎石等
●指定 国史跡
●規模 700m×700m
●高さ 標高460m、比高80m
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
前稿「駿河丸城」でも述べたとおり、駿河丸城を築いた初代・経高(吉川)から、四代目となる経見がこの地に本拠を移したとされている。駿河丸城からは直線距離で約3キロ下った同町の新庄地区に築かれた。
【写真左】現地にある案内図
写真上が南になり、散策コースは赤字が南回りコース、青字が北周りコースとして図示されている。
主たる遺構が多いのは青字の北周りコースで、この日も北側の駐車場に停めて向かった。
図示されているように、当城の見どころは、本丸、二の丸、三の丸、御座所跡、堀切などである。
駿河丸城、小倉山城とも北方の隣国石見国に接しているが、小倉山城の方が街道筋(石見街道・国道261号線)の峠(中三坂の峠)にアクセスがしやすく、交通の要衝でもあり、領地経営がしやすいと考え、移ったものと思われる。
経見の後、当城を引き継いだのは、5代経信、6代元経、7代経基、8代国経、9代元経、10代興経と6代が続き、この興経の時代に、次の移城先である日野山城までの百数十年間、安芸吉川氏の居城となった。もっとも、興経自身が移城を計画したものではなく、結果的には養子として入った元就の次男・元春が移城を完了させていると考えられる。
【写真左】北側駐車場側(北周りコース)にある案内標識
駐車場から城域までは1,2分程度で着く。北周りコースも西側の登城路から入って行った方が、効率がいいかもしれない。
興経は、自身の領主としての能力・器量が極めて低く、尼子や大内の間を度々鞍替えし、このため一門や他の国人領主から信頼を失い、最後は強制的に幽閉・隠居させられた。
その後も興経は元就に復活の嘆願を行うが、これが逆に不穏な動きととられ、天文19年(1550)元就の命を受けた熊谷信直・天野隆重らによって殺害された。吉川氏直系の嫡流(駿河国藤原姓)は、この時をもって断絶した。
【写真左】本丸へ向かう
最初に右手に二の丸が見え、前方にある御座所跡を見て左側にある坂道が本丸登城路になっている。
写真にあるように高さは優に10mは越えているだろう。
小倉山城の略歴で特徴的なことは、当城で合戦の記録がほとんど見られないことである。前記したように、経見から元春(興経)まで約150年以上もの長い間居城とされたが、戦が行われなかったというのも珍しい。
そのため、代が変わるごとに規模が拡大され、特に応仁・文明の乱の7代経基のとき、領地の大幅な取得があり、それにともなって当城の規模も大きくなり、整備も進んだ。おそらく現在の遺構の大半は、この7代経基のころに施工されたものといわれている。
【写真左】本丸跡その1
掘立柱跡が復元されている。全体に整備が行き届いていることもあるが、郭群の仕上げが非常に丁寧である。
城域の規模は、駿河丸城をはるかにしのぎ、およそ700m四方の中に造られた。地元北広島町教育委員会のパンフレットによると、発掘調査では次のようなものが発見されている。
掘立柱建物跡、堀切、登城路、什器関係では備前焼、瀬戸・美濃焼、陶磁器(明・朝鮮製)、太刀金具、切羽、コギネ(鎧の一部)
【写真左】本丸跡その2
【写真左】本丸跡から南方に日野山城を見る
左側の山で、標高705mと高く、比高も300m以上もある。小倉山城のあと、吉川元春が居城とした県内屈指の大規模な山城である。
管理人は麓を度々通過するが、山容を見ただけで躊躇している。
【写真左】本丸から南方に門跡を持つ郭を見る
写真の郭からさらに南に伸びる舌状丘陵にも小規模な郭段が連続しているが、おそらくこのルートが大手口のものと思われる。
門跡の後部にも建物跡があることから、いわゆる番所の役割を果たしていたのではないかと思われる。
なお、この門跡を過ぎると本丸に向かうには、最初の登り口まで一旦左へ向かわないと登れない設計になっている。
【写真左】土塁跡
本丸の北側下段にある帯郭から三の丸方面に向かう位置にあるもので、東側の進入を意識したものと思われる。
【写真左】三の丸から見上げた本丸北端部 上記の土塁を過ぎると、三の丸が配置されている。
三の丸は当城の最北端部の郭になっている。 戦略的な構図でもあるが、景観的にも山城としての美しさがうかがえる。
【写真左】御座所跡
本丸から一旦降りて、南西部に巨大な平坦地を構成しているのが、御座所跡である。
詳細にみると、3~4程度の段差をもっているが、ほとんどフラットである。長径は100m前後はあると思われる。この場所で多くの将兵が戦の準備をしていたことだろう。
【写真左】御座所跡から本丸を見る
写真は本丸の西端部にあたるが、この位置から見ると、さらにその高さを感じる。
【写真左】堀切
御座所跡の西端に設置されたもので、堀切の左側丘陵部は当城の城砦施設として図示はされていないが、小規模な郭がさらに連続して構成されているように見えた。
◆まとめ
訪れた時期も良かったかもしれないが、当城の保全管理は極めて良好で、しかも各遺構ごとに詳細な説明板が設置され、探訪する者にとって十分に満足できる山城である。
改めて、当地・北広島町(教育委員会)の御尽力に感謝したい。
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