関ヶ原古戦場(せきがはらこせんじょう)
・笹尾山(ささおやま)
●所在地 岐阜県関ケ原町
●指定 国指定史跡
●探訪日 2008年3月19日
◆解説
今稿は山城ではないが、戦国時代最大の合戦が繰り広げられた美濃国不破郡の関ヶ原古戦場を取り上げる。
笹尾山
写真中央上部に「笹尾山」の位置が示されている。
【写真左】「決戦地」の案内板
“国史跡(昭和6年3月30日指定)
決戦地
西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら4隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。
小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。
笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。
関ヶ原町”
【写真左】島左近(勝猛)陣跡の説明板
“島左近(勝猛(かつたけ)陣跡
三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。
前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討死したともいいます。
鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は、諸書に様々な姿で描かれています。
関ヶ原町”
【写真左】石田三成の陣地・笹尾山
小高い丘陵地にあって、「竹矢来(たけやらい)」という竹や丸太をもちいた囲いが復元されている。
三成はこの丘の頂部に陣取り、指示を与えていたという。
◎関連投稿
大谷吉継の墓・陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町山中32)
・笹尾山(ささおやま)
●所在地 岐阜県関ケ原町
●指定 国指定史跡
●探訪日 2008年3月19日
◆解説
今稿は山城ではないが、戦国時代最大の合戦が繰り広げられた美濃国不破郡の関ヶ原古戦場を取り上げる。
青野原の戦い
ところで、この関ヶ原では、慶長5年(1600)の合戦よりさかのぼること約260年前の南北朝期にも大きな戦が行われている。
ところで、この関ヶ原では、慶長5年(1600)の合戦よりさかのぼること約260年前の南北朝期にも大きな戦が行われている。
延元3年(暦応元年:1338年)正月28日、南朝方の命運をかけて奥州から北畠親房の長子・顕家(あきいえ)が、足利軍の大将・高師冬とこの関ヶ原で激突した。当時、この地は「青野原(あおのがはら)」と呼ばれていたところで、この戦いは後に「青野原の戦い」と呼ばれている。
戦いの結果は顕家の大勝利に終わるが、5月25日、和泉堺浦で大敗し顕家は討死した。わずか21歳であった。
顕家は公家の出であったが、武功の誉れ高く、また建武の新政を行った後醍醐天皇に対しても遠慮することなく、堂々と意見を述べている(「顕家奏上文」)。
ところで、当地の地名「青野原」が、いつごろ「関ヶ原」となったか分からないが、一説には現在の「関東」「関西」の元となったのが、「関ヶ原」の「関」からきているともいわれている。
笹尾山
さて、この日探訪したのは、西軍方石田三成が陣した笹尾山付近である。戦いの推移については他の史料やサイトで紹介されているので、ここでは一部を除いて割愛させていただく。
【写真左】関ヶ原町観光案内図写真中央上部に「笹尾山」の位置が示されている。
【写真左】「決戦地」の案内板
“国史跡(昭和6年3月30日指定)
決戦地
西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら4隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。
小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。
笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。
関ヶ原町”
【写真左】島左近(勝猛)陣跡の説明板
“島左近(勝猛(かつたけ)陣跡
三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。
前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討死したともいいます。
鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は、諸書に様々な姿で描かれています。
関ヶ原町”
【写真左】石田三成の陣地・笹尾山
小高い丘陵地にあって、「竹矢来(たけやらい)」という竹や丸太をもちいた囲いが復元されている。
三成はこの丘の頂部に陣取り、指示を与えていたという。
◎関連投稿
大谷吉継の墓・陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町山中32)
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