太尾山城・その2
●形式 山城(別城一郭)
●遺構 郭・土塁・堀切、礎石建物
●指定 市指定史跡
●登城日 2008年3月19日
◆解説(参考文献「近江城郭探訪 滋賀県教育委員会編」「戦国の山城 全国山城サミット連絡協議会編」その他)
太尾山城は米原市にあるが、この地域は西に琵琶湖を望み、東には鈴鹿山脈が湖岸まで迫るところである。
当時の街道としては、東山道と北国街道が交わり、大量の物資は西に向けては、琵琶湖を使った水運が盛んに使われたという。
登城路は整備され、比較的登りやすい。
写真下に見えるのは青岸寺で、太尾山城は左側になる。しばらく尾根伝いを進む。
【写真左】分岐点
最初のピーク地点で、左に向かうと八田山や米原高校のある場所に出る。
太尾山城へはこの写真をまっすぐ進む。
このあたりから右側斜面が険しくなっている。
【写真左】盗人岩
盗人がこの岩陰に隠れていて、村人を脅かしたといわれる。
太尾山城で眺望が最もいい場所は、この盗人岩付近で、特に琵琶湖方面がよく見える。
【写真左】盗人岩から米原市街・琵琶湖を見る。
登城した時刻が9時過ぎであったこともあり、全体に霧がかかり、琵琶湖方面ははっきりしない。
中世のころはおそらく写真にみえる平地はなく、琵琶湖の湖岸は現在の米原駅付近まで入江になっていたと思われる。
【写真左】北城・その1
北城側は大小合わせて6,7カ所の郭が尾根を利用して南北に連続している。
この写真はその中で最大の郭で、30m四方といったところか。
【写真左】北城・その2
鉄塔が建っているが、その奥に土塁が見える。
太尾山城の土塁は、全体に西側と北側に多くみられる。このことは、東側の琵琶湖側からの攻めより、西側、すなわち美濃や伊勢方面を意識しているということになる。
【写真左】堀切
北城から南に尾根伝いに向かうと、南城に至るが、その直前に堀切がある。
現在では大分埋まっているようだが、この位置から南城主郭までは距離が短いので、当時はかなりの深さがあったものと思われる。
なお、規模の大きい堀切としては、この外に南城の末端(西端)にも構築されている。
【写真左】南城その1
南城は北城に比べて城域長さは短い。写真は4,5段続く郭段で、尾根が西に屈曲していることもあり、東から南側に対する防御が意識されているためか、このライン上に土塁が連続している。
【写真左】南城その2
説明板が設置されている。
“太尾山城【南城跡】
太尾山城の南城跡は、標高242.4mの山頂に築かれています。方形の主郭を中心に尾根筋を階段状に削平して曲輪を配し、南北端の尾根筋には巨大な堀切を設けています。
発掘調査の結果、主郭の中心に設けられた方形の土壇上からは、2間×3間の礎石建物が検出され櫓台だったようです。
また、主郭からは4間×4間以上の礎石建物が検出されました。この礎石建物からは多くの土師器や擂鉢(すりばち)、中国製白磁皿などが出土しており、恒常的な居住施設が山上に設けられていたことが判明しました。”
【写真左】南城から北城を見る。
南城主郭から北城のそれまでは、約400m程度ある。
また標高は、南城が242m、北城が254mとなるから、10m余り北城が高いものの、ほぼ同程度の高さであったことから、当時はお互いの動きが確認できたと思われる。
【写真左】南城から南西方面を見る
この写真の中に入っているかどうか不明だが、鎌刃城がある。
●形式 山城(別城一郭)
●遺構 郭・土塁・堀切、礎石建物
●指定 市指定史跡
●登城日 2008年3月19日
◆解説(参考文献「近江城郭探訪 滋賀県教育委員会編」「戦国の山城 全国山城サミット連絡協議会編」その他)
太尾山城は米原市にあるが、この地域は西に琵琶湖を望み、東には鈴鹿山脈が湖岸まで迫るところである。
当時の街道としては、東山道と北国街道が交わり、大量の物資は西に向けては、琵琶湖を使った水運が盛んに使われたという。
図示したように、太尾山城は「北城」と「南城」の二つからなる「別城一郭」という形式の山城である。
米原市街地から東方に向かって狭い道を進むと、麓に「湯谷神社」と「青岸寺」という寺社がある。
登城コースは上記の二カ所から向かうことができるが、この日は左側(青岸寺)から登って行った。
境目の城
太尾山城の本丸付近から眺望すると、この場所に山城を築いた理由が即座に理解できる。
太尾山城の本丸付近から眺望すると、この場所に山城を築いた理由が即座に理解できる。
この位置は東の鈴鹿山脈を越えると、美濃の国につながり、南東に向かえば、伊勢の国となり、北の湖北を越えると、若狭の国に至る。
このことから、この地域は国境の地、すなわち「境目」の山城として必要不可欠の城砦であることが分かる。このため、この付近には、太尾山城の外に多くの山城が密集している。
当城からおよそ2キロ四方の範囲で設置された山城には、下記の6カ所がある。
- 福島城 太尾山城の南西1キロ付近
- 菖蒲嶽城 〃 の南方1キロ付近で名神高速の北側
- キトラ谷城 菖蒲城の南方500m余の名神高速の東側
- 鎌刃城 太尾山城より南東2キロの山中に入った位置
- 番場城 鎌刃城を降りたところ
- 地頭山城 太尾山城の北東1キロの位置
この中で、管理人は登城していないが、4.の鎌刃城は、太尾山城と同じく六角・京極氏の抗争の場となった山城で、興味深い遺構が多く残り、国指定史跡なっている。
【写真左】登城途中から青岸寺を見る。登城路は整備され、比較的登りやすい。
写真下に見えるのは青岸寺で、太尾山城は左側になる。しばらく尾根伝いを進む。
【写真左】分岐点
最初のピーク地点で、左に向かうと八田山や米原高校のある場所に出る。
太尾山城へはこの写真をまっすぐ進む。
このあたりから右側斜面が険しくなっている。
【写真左】盗人岩
盗人がこの岩陰に隠れていて、村人を脅かしたといわれる。
太尾山城で眺望が最もいい場所は、この盗人岩付近で、特に琵琶湖方面がよく見える。
【写真左】盗人岩から米原市街・琵琶湖を見る。
登城した時刻が9時過ぎであったこともあり、全体に霧がかかり、琵琶湖方面ははっきりしない。
中世のころはおそらく写真にみえる平地はなく、琵琶湖の湖岸は現在の米原駅付近まで入江になっていたと思われる。
【写真左】北城・その1
北城側は大小合わせて6,7カ所の郭が尾根を利用して南北に連続している。
この写真はその中で最大の郭で、30m四方といったところか。
【写真左】北城・その2
鉄塔が建っているが、その奥に土塁が見える。
太尾山城の土塁は、全体に西側と北側に多くみられる。このことは、東側の琵琶湖側からの攻めより、西側、すなわち美濃や伊勢方面を意識しているということになる。
【写真左】堀切
北城から南に尾根伝いに向かうと、南城に至るが、その直前に堀切がある。
現在では大分埋まっているようだが、この位置から南城主郭までは距離が短いので、当時はかなりの深さがあったものと思われる。
なお、規模の大きい堀切としては、この外に南城の末端(西端)にも構築されている。
【写真左】南城その1
南城は北城に比べて城域長さは短い。写真は4,5段続く郭段で、尾根が西に屈曲していることもあり、東から南側に対する防御が意識されているためか、このライン上に土塁が連続している。
【写真左】南城その2
説明板が設置されている。
“太尾山城【南城跡】
太尾山城の南城跡は、標高242.4mの山頂に築かれています。方形の主郭を中心に尾根筋を階段状に削平して曲輪を配し、南北端の尾根筋には巨大な堀切を設けています。
発掘調査の結果、主郭の中心に設けられた方形の土壇上からは、2間×3間の礎石建物が検出され櫓台だったようです。
また、主郭からは4間×4間以上の礎石建物が検出されました。この礎石建物からは多くの土師器や擂鉢(すりばち)、中国製白磁皿などが出土しており、恒常的な居住施設が山上に設けられていたことが判明しました。”
【写真左】南城から北城を見る。
南城主郭から北城のそれまでは、約400m程度ある。
また標高は、南城が242m、北城が254mとなるから、10m余り北城が高いものの、ほぼ同程度の高さであったことから、当時はお互いの動きが確認できたと思われる。
【写真左】南城から南西方面を見る
この写真の中に入っているかどうか不明だが、鎌刃城がある。
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