霜北城(しもきたじょう)
●所在地 島根県出雲市小境町
●築城期 南北朝時代
●築城者 伊藤氏
●標高 74m
●別名 松尾山城・要害城
●遺構 郭・土塁・堀切・竪堀等
●登城日 2011年1月10日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」等)
前稿「平田城」と同じく、旧平田市にあった山城で、築城期は南北朝時代とされている。
【写真左】霜北城東麓付近
訪れたのが残雪のあった時期でもあり、登城までは至っていない。
登城路らしきものが付近に見当たらなかったので、踏破するには藪こぎを覚悟しなければならないだろう。
所在地は、平田城から北東へ約5キロほど向かった小境という地にある。
現在では霜北城という山城よりも、その東麓に祀られた酒の神様として知られる「松尾神社(佐香神社)」の方が有名で、霜北城を標記するものは現地にほとんどない。
鎌倉時代、このあたりを小境保といい、地頭・小境二郎が23町9反の領地を治めていたという。
【写真左】松尾神社鳥居
霜北城の城域規模は不明だが、松尾神社本殿から直線距離で150m程度のところに本丸が位置しているので、神社境内も南北朝期から室町期にかけて城砦の役目も兼ねていたかもしれない。
標高74mで、比高はおそらく40m程度しかないが、写真に見える階段の傾斜は予想以上のものがある。この部分(階段)の周囲も山城特有の郭段を構成している。
南北朝期になると、小境郷一分地頭・伊藤次郎義明が領地し、建武の新政後、出雲守護であった塩冶高貞に従って北朝方として戦い、大和・河内を転戦したという。その後、高貞が追討された際は、義明の子・頼明がその追討軍に加わったという。
頼明の子・元智の代になった正平5年(1350)の8月19日、足利直冬に与し、小境に隣接した領主・多久中太郎入道らと、松江の白潟橋上で武家方軍を相手に終日合戦している(萩閥66)。
これは、以前にも紹介したように、石見国にあった足利直冬が正平5年兵を挙げ、7月20日、鰐淵寺に祈祷を命じ(鰐淵寺文書)、これに応じた出雲国の佐々木信濃五郎左衛門尉が動いたことからで、当時出雲国では多くの武将が一時的であったが、直冬の下に馳せ参じている。
【写真左】松尾神社本殿
霜北城はこの写真の向背の崖をよじ登って行けばたどり着くはずだ。
その後、応仁の乱(1467~77)が起こると、(伊藤)四郎左衛門尉は山名方に属したため、文明2年(1470)に、その所領を没収されたという。
その処置をとったのは当然、出雲守護代であった尼子清定であるが、この年(文明2年)6月2日には、最強の国人領主であった三沢対馬守の所領も押収している(佐々木文書)。
霜北城は戦国期には記録が見えないので、おそらく、このとき(文明2年)に廃城となったものと思われる。
【写真左】霜北城の東麓部
御覧の通り、今冬の雪で竹や樹木が大分なぎ倒され、侵入を阻む。
小境土居跡(こざかいどいあと)
ところで、霜北城から北方500mほどの位置には、小境土居跡という遺跡が認められている。
おそらくこの場所は、霜北城に拠った伊藤氏などの居館跡と思われる。
現地を確認してはいないが、現在は資材置き場となっているようだ。
●所在地 島根県出雲市小境町
●築城期 南北朝時代
●築城者 伊藤氏
●標高 74m
●別名 松尾山城・要害城
●遺構 郭・土塁・堀切・竪堀等
●登城日 2011年1月10日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」等)
前稿「平田城」と同じく、旧平田市にあった山城で、築城期は南北朝時代とされている。
【写真左】霜北城東麓付近
訪れたのが残雪のあった時期でもあり、登城までは至っていない。
登城路らしきものが付近に見当たらなかったので、踏破するには藪こぎを覚悟しなければならないだろう。
所在地は、平田城から北東へ約5キロほど向かった小境という地にある。
現在では霜北城という山城よりも、その東麓に祀られた酒の神様として知られる「松尾神社(佐香神社)」の方が有名で、霜北城を標記するものは現地にほとんどない。
鎌倉時代、このあたりを小境保といい、地頭・小境二郎が23町9反の領地を治めていたという。
【写真左】松尾神社鳥居
霜北城の城域規模は不明だが、松尾神社本殿から直線距離で150m程度のところに本丸が位置しているので、神社境内も南北朝期から室町期にかけて城砦の役目も兼ねていたかもしれない。
標高74mで、比高はおそらく40m程度しかないが、写真に見える階段の傾斜は予想以上のものがある。この部分(階段)の周囲も山城特有の郭段を構成している。
南北朝期になると、小境郷一分地頭・伊藤次郎義明が領地し、建武の新政後、出雲守護であった塩冶高貞に従って北朝方として戦い、大和・河内を転戦したという。その後、高貞が追討された際は、義明の子・頼明がその追討軍に加わったという。
頼明の子・元智の代になった正平5年(1350)の8月19日、足利直冬に与し、小境に隣接した領主・多久中太郎入道らと、松江の白潟橋上で武家方軍を相手に終日合戦している(萩閥66)。
これは、以前にも紹介したように、石見国にあった足利直冬が正平5年兵を挙げ、7月20日、鰐淵寺に祈祷を命じ(鰐淵寺文書)、これに応じた出雲国の佐々木信濃五郎左衛門尉が動いたことからで、当時出雲国では多くの武将が一時的であったが、直冬の下に馳せ参じている。
【写真左】松尾神社本殿
霜北城はこの写真の向背の崖をよじ登って行けばたどり着くはずだ。
その後、応仁の乱(1467~77)が起こると、(伊藤)四郎左衛門尉は山名方に属したため、文明2年(1470)に、その所領を没収されたという。
その処置をとったのは当然、出雲守護代であった尼子清定であるが、この年(文明2年)6月2日には、最強の国人領主であった三沢対馬守の所領も押収している(佐々木文書)。
霜北城は戦国期には記録が見えないので、おそらく、このとき(文明2年)に廃城となったものと思われる。
【写真左】霜北城の東麓部
御覧の通り、今冬の雪で竹や樹木が大分なぎ倒され、侵入を阻む。
小境土居跡(こざかいどいあと)
ところで、霜北城から北方500mほどの位置には、小境土居跡という遺跡が認められている。
おそらくこの場所は、霜北城に拠った伊藤氏などの居館跡と思われる。
現地を確認してはいないが、現在は資材置き場となっているようだ。
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