2011年7月31日日曜日

南天山城(広島県三次市吉舎町大字吉舎)・その1

南天山城(なんてんざんじょう)・その1

●所在地 広島県三次市吉舎町大字吉舎●別名 矢の城・清綱城
●築城期 応安年間(1368~75)
●築城者 和智師実
●遺構 郭・空堀・井戸・竪堀・土塁
●高さ 標高350m/比高120m
●指定 三次市指定史跡
●登城日 2008年5月28日、2011年7月27日、2014年3月25日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』『和智氏と吉舎町の山城:吉舎町教育委員会編』等)

  前々稿「三良坂・横山城」で少し触れた和智氏の居城・南天山城を取り上げる。
 「三良坂・横山城」や「萩原山城」は、江の川の支流馬洗川から枝分かれした上下川流域にあるが、南天山城は馬洗川をさかのぼった吉舎の市街地にある山城である。
【写真左】南天山城遠望
 北西麓からみたもの











現地の説明板より

“和智氏ゆかりの史跡・三次市史跡・南天山城跡

南天山城と和智氏

 南天山城は中世、約200年の間、9代にわたってこの地方を支配した和智氏の本拠で、戦国時代のこの地方を代表する本格的な山城です。
 築城年代は文献がないために明確ではありませんが、初代の和智資実が14世紀中ごろに本拠地を和知(現三次市)から吉舎に移したことから、このころに築城されたものと思われます。以後、和智氏の本拠として戦国時代を迎えました。
【写真左】登城口付近の社
 この裏に登城口がある。












 戦国時代、和智氏は大内氏・尼子氏の二大勢力の間にあって、大永年間(1521~27)には尼子氏に攻められ、8代城主の和智豊郷は、尼子方に降っています。

 9代城主の和智誠春は、大内氏を滅亡させた毛利元就の三方として転戦していましたが、永禄12年(1569)、元就によって厳島において誅殺されました。
 誠春の子の和智元郷は毛利氏に従い、和智氏は吉舎の地を離れています。そのため、このころに南天山城は廃城となったものと思われます。


南天山城について

 標高340mの南天山山頂を本丸とし、南北にのびる尾根にそって郭(削平地)が何段もあります。ここから200m上がったところに、大手門(城の入口)がありました。

 城内には、井戸跡が4カ所あります。また、戦国時代特有の竪堀の跡が数カ所あります。これは敵が攻めてきたときに、敵の左右の移動を防ぐためのものです。
 かつては、礎石(建物の土台)や、石積みがありましたが、第2次世界大戦中に畑として開墾されたため、現在では確認することができません。

【写真左】南天山城配置図
 城域は南天山全域に及ぶ。大きく分けると、Ⅰ郭群・Ⅱ郭群・Ⅲ郭群・Ⅳ郭群になる。

 本丸とされるⅠ郭群では、戦時中(1936~45)開墾された際、郭内から礎石が多数発掘されたという。






 城内からは、一部の建物に用いられた軒丸瓦や軒平瓦の破片が見つかっており、それらは吉舎町歴史民俗資料館に展示されています。

 南天山城は、城域が非常に広く、敵が攻めてきたときには、城下に住んでいた住民も一緒に立てこもったと考えられます。
 南天山城の城下町である吉舎には「古市」「七日市」「四日市」といった古い地名が残っています。また、城下を流れる馬洗川は、もともと現在の国道184号線辺りを流れていたのを濠として利用するために流路を変えたという言い伝えもあります。
【写真左】「尾崎山の堀切」
 下段の説明にもあるように、戦国期のものではなく、江戸時代後期のもの。

 約3年の歳月をかけ独力で切り開いたと伝えられる。この道沿い500m先に日正上人の墓があると書かれていたが、この日はそこまで行っていない。



 なお、南天山城と北側の尾崎山を区切る「尾崎山の堀切(町史跡)は、戦国時代のものではなく、江戸時代後期に清正公の初代庵主日正上人が里道のために開削したものです。

 平成9年(1997)11月、市史跡に指定
 平成10年3月
  三次市教育委員会”
【写真左】登城口


【写真左】犬走りと郭
 登城口から暫く尾根を旋回しながら登っていくと、左側に犬走りを置き、右側に細長い郭段が続く。
【写真左】整備された郭
 途中で犬走りは無くなり、郭の中を進むようになるが、この付近の施工精度は良好で、綺麗に整備されている。
【写真左】土塁
 高さ1m程度で、隅の方は往来のため築土されていないが、尾根幅いっぱいに構築されている。
 この位置で先ず遮断しようとする狙いが見て取れる。
【写真左】再び犬走りと郭段
 しばらくすると、前半と同じような犬走りが左側にあり、右側に郭が接合する。
【写真左】郭段
 進んで行くと同じような光景が続くが、次第に上部の郭との高低差が大きくなっていく。
【写真左】大井戸
 当城には4ヵ所の井戸が確認されているが、この井戸はその中で最も大きいもの。
 すでに水は涸れて穴もふさがり、窪みのみが残る。
 この位置の左側に竪堀がある(下段の写真参照)。
【写真左】竪堀
 この斜面(東面)そのものも急傾斜だが、さらに竪堀を一条配置している。
【写真左】前方に二の丸などが見える。
 大井戸を過ぎると、地形が大きく変わり、左から右にかけて壁の様な姿が出てくる。
 この上に二の丸や本丸が控える。
【写真左】二の丸手前の段
 上掲した配置図には特に名がつけられていないが、三の丸ともいうべき大きな郭である。この郭から二の丸・本丸へ続く尾根筋は、登ってきた尾根筋とは角度を変えたもので、少し西方向へ向く。
【写真左】石垣
 この郭(三の丸)先端部にあるもので、石積は大分崩落しているが、この斜面はみごとな切崖であるので、当時は壮観な姿を見せていたものだろう。
【写真左】二ノ丸・本丸に向かう。
 三の丸からいよいよ本丸方面に向かう。犬走りは右側に設置してある。
【写真左】二ノ丸・その1
 坂道となった犬走りを登っていくと、左手に二の丸が見える。
 なお、二の丸の下にも腰郭状のものが控えている。
【写真左】二の丸・その2
 さきほどの三の丸よりは規模は小さい。
【写真左】本丸に向かう。
 二ノ丸の上にあるが、さらに急傾斜の道となる。
【写真左】本丸・その1
【写真左】本丸・土塁
 南端部に設置してあるもので、高さ1.5~2m程度のもの。
【写真左】土塁下を覗く
 本丸の土塁南側からは急傾斜となって出丸に繋がるが、この日はここで打ち止め。


 



【写真左】北西麓からみる 
 右側を登ると南天山城、左に向かうと尾崎山










【写真左】北方に伸びる尾崎山
 尾崎山は南天山城から堀切を超えて更に北に伸びる小丘で、史料では城域として明記はされていないが、北端部であったことから出丸のような役割があったものと思われる。


【写真左】尾崎山
 この場所には現在社が祀られ、尾崎山公園という施設になっている。
 先端部に行くと、吉舎の町並みが眼下に広がる。
 なお、この場所が出丸であった可能性も高いとしているが、地元教育委員会の資料では、「和智氏の館跡」の可能性もある、としている。





【写真左】善逝寺(ぜんせいじ)
 和智資実が建立した寺で、南天山城の北西麓にある。




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