2021年4月2日金曜日

万福寺・尼子経久位牌(鳥取県日野郡江府町武庫)

 万福寺(まんぷくじ)
   尼子経久位牌(あまごつねひさ いはい)

●所在地 鳥取県日野郡江府町武庫
●創建期 大永年間(1521~28)
●創建者 尼子経久
●宗派 天台宗・曹洞宗
●備考 熊野堂

解説(参考文献等『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』加賀康之 ハーベスト出版)

指の腱鞘炎

 私事で恐縮だが、昨年の7月を過ぎたころから次第に体調が芳しくなく、消化器系の痛みを覚え、検査していただいたところ、消化器系は問題ないが、心臓や循環器系に少し問題があることが分かった。これまでのところ、薬で体調を維持しているが、その後昨年末から特に右手の指に変調をきたし、主に中指と人差し指が曲がらなくなり、さらにはモノをつかむと痛みが走り、今度は整形外科に通う羽目になった。

 結局指の腱鞘炎ということで、中指の部分を手術して以前よりは動くようになった。このこともあって、一時は文字を書くことも、キーボードを打つこともできなくなった。現在は積極的に指を伸ばしたり曲げたりといったリハビリの効果もあって、何とかキーボードを打つこともできるようになった。

 2008年の暮れから始めたこのブログも14年目に入った。当初は10年も続ければ御の字と思っていたので、これからはこうした体調などによる中断も出てくるだろう。昔で言えば古希の年齢である。古代中国の詩人・杜甫が、70歳を生きのびるのは「である」といったところからできたらしいが、今まで通り無理をせず、マイペースでアップしていきたいと思っている。

 さて、久しぶりの投稿は山城・城郭とは少し趣が違う寺院と、「位牌」についてとり上げたい。

万福寺

 鳥取県の伯耆大山南麓を源流とする俣野川が、西進したあと日野郡日南町の三国山(1,004m)を源流とする日野川と合流する場所が武庫(むこ)といわれる地域である。

【写真左】万福寺

 右側が俣野川と並行に走る県道113号線で、このまま奥に向かうと、国道482号線にの下蚊屋に繋がり、美作の蒜山へと向かう。



 武庫という地名は、摂津国の古名が有名だが、その語源は「武器」を収めた、あるいは埋めたという伝承から生まれたものといわれる。もともと神功皇后の代にその地名が出ていることから、当地(伯耆国)の武庫もおそらくそのころには呼ばれていたのだろう。

 その武庫から少し俣野川を少し登ったところには、大永年間(1521~28)に出雲の尼子経久が西伯耆を攻めて、高谷山を通った際、景勝地だったことから尼子氏の祈願所として、天台宗の寺として創建した万福寺が建っている。

 こうした歴史を持っていることから、当院本堂には「尼子経久の位牌」とされるものが安置されている。

【写真左】万福寺側から武庫の街並みを遠望する。
 右側に日野川が流れ、俣野川と合流している。この写真の奥からおよそ5キロ余り遡っていくと、日野町で備後、備中方面へと道が分かれていく。


尼子経久の位牌

 この日当院に参拝した折、御住職から実物を拝見させていただいた。しかし、そこに記された戒名(法名)の文字を見る限り、尼子氏もしくは経久に関わるものが読みとれず、御住職もご指摘されているように、尼子氏ではなく、「南条氏」を想起させる銘が記されていた。どういう根拠で「尼子経久の位牌」とされたのか、この位牌を見る限り分からない。

【写真左】尼子経久のものとされている位牌

 高さおよそ40㎝前後のもので、文字はだいぶ劣化して鮮明でないが、何とか読み取れる。


 件の位牌を示したのが、左の写真だが、表には「開基慈雲院殿澤翁宗勝大居士〇位」と筆耕され、裏には「天文ニ申十月十三日」が記されている。

 注目されるのは、この裏に記された時期、すなわち天文2年(1533)と書かれていることである。当院に残っている以上、この位牌は「本位牌」と思われるので、当年の10月13日に亡くなったことを表わしている。

 単純に考えれば経久が没したことを示す位牌なのだが、実際には経久が亡くなるのは、天文2年から8年後の天文10年(1541)の11月3日である。また、「宗勝」銘から考えられる南条氏、すなわち南条宗勝(羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)参照)が亡くなるのは天正3年(1575)であるから、これは件の時期と合致しない。

【写真左】位牌の裏
 少し黒ずんでいるが、「天文ニ申十月十三日」と銘記されている。


 ところで、先述したように尼子経久が伯耆国に触手を伸ばし始めたのは、大永年間を遡った永正3年(1506)頃といわれている。このころは伯耆守護であった山名尚之と、反守護であった山名澄之(堤城(鳥取県北栄町北条島)参照)との対立が鮮明となり、そこへ尼子経久が介入し始めている。





南条宗勝の位牌か 

 そして、大永4年(1524)には尼子経久が本格的に伯耆に侵攻したという「大永の五月崩れ」があったといわれているが、現在では否定されている。

 天文2年頃になると、東伯耆の南条氏及び小鴨氏らが美作の国人領主とともに、尼子晴久と敵対し始めている。しかし、天文5年(1536)12月には尼子晴久が美作及び備中の一部を制圧しているので、出雲と美作の間に当たる伯耆もほぼ制圧していたのではないかと推察される。因みに、尼子氏に制圧されたあと、宗勝は一時的に尼子氏の臣下となっている。

【写真左】拡大したもの。

 南条宗勝という名は、入道した際の号で、「そうしょう」と読む。実名は国清、その後元清と改めていた。


 こうしたことから、件の位牌は南条宗勝が尼子氏に敵対した天文2年の戦の際、宗勝自身が自らの死を覚悟したうえで、あらかじめ位牌を作っておいたか、もしくは別の人物の首級が間違えられて宗勝とされたのかもしれない。

 いずれにしても謎の多い位牌である。

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