堤城(つつみじょう)
●所在地 鳥取県北栄町北条島
●別名 津々見城
●高さ 標高60m(比高50m)
●形態 平城
●築城期 不明(承平年間 931~38)
●築城者 不明(長田氏、山田氏)
●城主 山田出雲守重直、十六島氏(越振氏)
●登城日 2020年6月16日
◆解説(参考資料 『山陰の戦国史跡を歩く【鳥取編】』加賀康之著 ハーベスト出版、HP「山城攻略記」、『鳥取県の歴史 県史31』内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門著 ㈱山川出版等)
堤城については前稿伯耆・松崎城(鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎) でも触れているが、それ以前では八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋) の稿でも取り上げている。
所在地は、伯耆・松崎城から西へ直線距離で8.2キロの位置に在り、東方を北条川が南北に流れる。また、当城に最も近い戦国期の史跡としては、茶臼山本陣跡(鳥取県東伯郡北栄町国坂)が 北東1.7キロの位置にある。
【写真左】堤城
東側を流れる北条川の橋付近から見たもので、前方の家並み全体が当時の堤城とされている。
現地の説明板より
❝堤城跡 ~中世豪族の館~
ここは蜘ヶ家山(くもがいやま)を中心とした丘陵地の東、半島状の小さい丘にあたり、「伯耆民談記」に北条郷嶋村(現 北条島)にあったと記される「堤城」と考えられる場所です。
堤城は小字「城之内」を中心に広がると見られ、江戸時代末の天保期に作られた絵図面では小高い丘が描かれていますが、現在は家が建て込んでおり、城郭の構造など詳細はわかっていません。
【写真左】堤城の説明板
川岸の民家に設置されているもので、奥の民家は後段で紹介している当城の最後の城主越振(十六島氏)の後裔とされる東地氏の家。
この城に拠ったのは山田氏です。山田氏は北条郷にあった京都石清水八幡宮の所領として知られる「山田別宮」(現 北条八幡宮)周辺の地にあって、管理者として鎌倉時代頃からの記録にその名が見られます。戦国時代に登場する山田出雲守重直は、羽衣石城の南条氏の重臣として活躍しますが、永禄年間(16世紀中頃)に毛利氏に従い、所領を安堵されています。
関ヶ原の戦いの後、毛利氏一門の吉川氏の家臣となり、周防国(現山口県東南部)岩国の地に移っていきました。
堤城は大規模な城郭ではありませんが、関係資料も伝わっており、郷土史を語る上で重要な史跡の一つといえるでしょう。
北栄町教育委員会❞
【写真左】堤城絵図
説明板の中に添付されている絵図で、天保年間といわれるので、江戸末期のもの。右方向が北を示し、中央が堤城を記す。堤城の下を斜めに流れているのは当時の北条川。
なお、おそらくこの絵図で囲まれた範囲とほぼ合致すると思われるのが下の図である。
【写真左】堤城位置図
現在の島集落の配置図で、管理人によってその個所を特定し、着色(黄土色)した箇所が堤城跡と思われる。右側をまっすぐに伸びるのは近代になって整備された北条川と国道313号線。
山田氏
『鳥取県の歴史 県史31』によれば、城主とされている山田氏は、紀姓で朱雀天皇の承平(931~38)の頃より当国に居住し、連綿として子孫代々この城を居城としていたという。そして、当初長田氏を称し、その後山田氏を名乗ったとされている。
山田氏の記録が現れるのは、後段で紹介する北条八幡宮(山田別宮)が、平安時代中期、山城国の石清水八幡宮から勧請されているが、その主体者が当時の堤城主山田山城守頼円とされている。
【写真左】北条川に架かる橋から見る。
奥が北を示し、右側の川が北条川。左側に説明板が設置されている。
北条川は現在まっすぐに北に延びているが、天保絵図でも示されているように、当時は堤城の北側に大きく蛇行していたと思われる。
戦国時代の天文年間(1532~55)になると、山田氏の居城堤城は出雲の尼子晴久の東伯耆侵攻で落とされ、山田高直は城を追われた。しかし、その後高直の嫡男重直が永禄3年(1560)当城に返り咲いたとされている。そのきっかけは毛利氏の支援を受けたことからといわれていることもあり、このころ堤城主であった山田氏は、羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)の南条氏の重臣とされていたものの、自らは毛利氏の家臣としての自覚が強かった。
【写真左】北側の道路から東を見る。
橋を渡って北側の路地のような道路に入り振り返ったもので、右側の民家などが堤城区域となる。
因みに、絵図や現在の集落状況から考えると、当時の堤城は東西150m×南北60m前後の規模を持つ城館だったと考えられる。
伯耆・松崎城でも触れたように、天正3年(1575)南条宗勝が亡くなると、嫡男元続が家督を引継ぎ、元続は毛利氏から離反し、織田方につく姿勢を示した。これに対し重直は度々元続に翻意を促すよう迫ったが、元続はそれを聞かず、それどころか、ついに元続は重直の居城・堤城を攻撃するに至った。天正7年(1579)9月のことである。因みに、元続はさらに毛利方となっていた河口城(鳥取県東伯郡湯梨浜町園) もこの時期攻撃している。
【写真左】南側の道路
おそらく江戸時代の道(路地)がそのまま残っているのだろう。
何か所か屈曲した箇所が見られる。
重直は元続の攻撃にかろうじて逃れ、嫡男・信直と共に鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野) へ向かった。そして、重直は改めて毛利氏(吉川元春)の臣下となり、南条氏攻撃の先鋒に立つことになる。天正10年(1582)ついに南条元続の拠る羽衣石城を自らの手で堕とし、武功を挙げた。
ところが、こうした活躍を挙げたものの、恩賞は久米郡内の28石で、しかもその2年後の天正12年から13年にかけて行われた秀吉と毛利輝元の領土交渉、すなわち「京芸和睦」によって、因幡と伯耆東三郡は豊臣領へ、伯耆西三郡が毛利領となったことから、久米郡は南条領(豊臣領)となったため、重直はこの地を領地できず、西伯耆の会見郡小鷹城に移された。
【写真左】小鷹城
所在地:西伯郡南部町福成
別名・柏尾城とも呼ばれ、山田重直が居城とした。当城についてはいずれ別稿で取り上げたい。
もっとも、山田氏の庶流であろうか、堤城から北へ300mほど向かった北尾にある山田氏の居館の一つとされる「堤屋敷」跡に残る墓地には、「山田氏累代の墓」が数基建立されているので、一族全員が会見郡へ移ってはいない可能性がある(山田氏庶流の一部が当地に残った可能性もある)。
【写真左】堤屋敷
堤城から北へ向かうと、隣の集落北尾に繋がるが、その一角には丘状の台地がある。これが堤屋敷があったところとされている。
【写真左】山田家代々の墓・その1
現在堤屋敷跡は北側に墓地があり、南側は野地となっているが、元は畑地だったようだ。
この墓地には山田家と刻銘された墓石が3,4基建立されている。
【写真左】山田家代々の墓・その2
現在は新しい墓石が多いが、写真にあるように五輪塔をはじめ古い墓も残されている。
登り口に数体の地蔵仏があったので、ひょっとして江戸時代はこの堤屋敷跡に寺院が建てられていた可能性もある。
越振氏と十六島氏
さて、山田氏が堤城から去ったあとは、南条元続の家臣といわれる越振氏が入城したといわれる。越振は「おつふるし」又は「うつぶるいし」もしくは「うっぷるいし」と呼称される。
山名尚之は、当時の伯耆守護であったが、これに敵対する反守護勢力で尼子経久の支援を受けていた山名澄之と守護職を争い、永正3年(1506)以前に没落している。
この後、越振氏は紆余曲折した後、南条氏の家臣となっていく。「京芸和睦」の後、越振氏は山田氏の居城であった堤城に入城した。現在当地北条島の集落内にある堤城跡に建つ東地家に「城主・宗太郎」の供養塔があるが、当家記録(過去帳か)に記載されているのが、十六島宗太郎という人物で、彼が堤城の城主であったといわれる。
【写真左】精緻な彫刻
拝殿から本殿にかけて地垂木や手挟みには見事な彫刻が施されている。
十六島・越振氏については、別稿で取り上げる予定だが、前述したように同氏初代は、もともと伯耆国に在した黒美信基という武将で、南北朝期名和氏及び塩冶氏に仕えた。
康安2年(1362)、出雲十六島の高島城に移り、ここで十六島氏を名乗ったといわれる。その後、永正年間ごろに再び伯耆に戻り南条氏に仕えたといわれる。
【写真左】高島城遠望
所在地:島根県出雲市十六島町
別名:十六島城ともいう。
南側の海岸部(十六島湾)から見たもので、現在主郭跡には発電用の風車が設置されたため、主郭付近の遺構はほとんど消滅していると思われる。
●所在地 鳥取県北栄町北条島
●別名 津々見城
●高さ 標高60m(比高50m)
●形態 平城
●築城期 不明(承平年間 931~38)
●築城者 不明(長田氏、山田氏)
●城主 山田出雲守重直、十六島氏(越振氏)
●登城日 2020年6月16日
◆解説(参考資料 『山陰の戦国史跡を歩く【鳥取編】』加賀康之著 ハーベスト出版、HP「山城攻略記」、『鳥取県の歴史 県史31』内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門著 ㈱山川出版等)
堤城については前稿伯耆・松崎城(鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎) でも触れているが、それ以前では八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋) の稿でも取り上げている。
所在地は、伯耆・松崎城から西へ直線距離で8.2キロの位置に在り、東方を北条川が南北に流れる。また、当城に最も近い戦国期の史跡としては、茶臼山本陣跡(鳥取県東伯郡北栄町国坂)が 北東1.7キロの位置にある。
【写真左】堤城
東側を流れる北条川の橋付近から見たもので、前方の家並み全体が当時の堤城とされている。
現地の説明板より
❝堤城跡 ~中世豪族の館~
ここは蜘ヶ家山(くもがいやま)を中心とした丘陵地の東、半島状の小さい丘にあたり、「伯耆民談記」に北条郷嶋村(現 北条島)にあったと記される「堤城」と考えられる場所です。
堤城は小字「城之内」を中心に広がると見られ、江戸時代末の天保期に作られた絵図面では小高い丘が描かれていますが、現在は家が建て込んでおり、城郭の構造など詳細はわかっていません。
【写真左】堤城の説明板
川岸の民家に設置されているもので、奥の民家は後段で紹介している当城の最後の城主越振(十六島氏)の後裔とされる東地氏の家。
この城に拠ったのは山田氏です。山田氏は北条郷にあった京都石清水八幡宮の所領として知られる「山田別宮」(現 北条八幡宮)周辺の地にあって、管理者として鎌倉時代頃からの記録にその名が見られます。戦国時代に登場する山田出雲守重直は、羽衣石城の南条氏の重臣として活躍しますが、永禄年間(16世紀中頃)に毛利氏に従い、所領を安堵されています。
関ヶ原の戦いの後、毛利氏一門の吉川氏の家臣となり、周防国(現山口県東南部)岩国の地に移っていきました。
堤城は大規模な城郭ではありませんが、関係資料も伝わっており、郷土史を語る上で重要な史跡の一つといえるでしょう。
北栄町教育委員会❞
【写真左】堤城絵図
説明板の中に添付されている絵図で、天保年間といわれるので、江戸末期のもの。右方向が北を示し、中央が堤城を記す。堤城の下を斜めに流れているのは当時の北条川。
なお、おそらくこの絵図で囲まれた範囲とほぼ合致すると思われるのが下の図である。
【写真左】堤城位置図
現在の島集落の配置図で、管理人によってその個所を特定し、着色(黄土色)した箇所が堤城跡と思われる。右側をまっすぐに伸びるのは近代になって整備された北条川と国道313号線。
山田氏
『鳥取県の歴史 県史31』によれば、城主とされている山田氏は、紀姓で朱雀天皇の承平(931~38)の頃より当国に居住し、連綿として子孫代々この城を居城としていたという。そして、当初長田氏を称し、その後山田氏を名乗ったとされている。
山田氏の記録が現れるのは、後段で紹介する北条八幡宮(山田別宮)が、平安時代中期、山城国の石清水八幡宮から勧請されているが、その主体者が当時の堤城主山田山城守頼円とされている。
【写真左】北条川に架かる橋から見る。
奥が北を示し、右側の川が北条川。左側に説明板が設置されている。
北条川は現在まっすぐに北に延びているが、天保絵図でも示されているように、当時は堤城の北側に大きく蛇行していたと思われる。
戦国時代の天文年間(1532~55)になると、山田氏の居城堤城は出雲の尼子晴久の東伯耆侵攻で落とされ、山田高直は城を追われた。しかし、その後高直の嫡男重直が永禄3年(1560)当城に返り咲いたとされている。そのきっかけは毛利氏の支援を受けたことからといわれていることもあり、このころ堤城主であった山田氏は、羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)の南条氏の重臣とされていたものの、自らは毛利氏の家臣としての自覚が強かった。
【写真左】北側の道路から東を見る。
橋を渡って北側の路地のような道路に入り振り返ったもので、右側の民家などが堤城区域となる。
因みに、絵図や現在の集落状況から考えると、当時の堤城は東西150m×南北60m前後の規模を持つ城館だったと考えられる。
伯耆・松崎城でも触れたように、天正3年(1575)南条宗勝が亡くなると、嫡男元続が家督を引継ぎ、元続は毛利氏から離反し、織田方につく姿勢を示した。これに対し重直は度々元続に翻意を促すよう迫ったが、元続はそれを聞かず、それどころか、ついに元続は重直の居城・堤城を攻撃するに至った。天正7年(1579)9月のことである。因みに、元続はさらに毛利方となっていた河口城(鳥取県東伯郡湯梨浜町園) もこの時期攻撃している。
【写真左】南側の道路
おそらく江戸時代の道(路地)がそのまま残っているのだろう。
何か所か屈曲した箇所が見られる。
重直は元続の攻撃にかろうじて逃れ、嫡男・信直と共に鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野) へ向かった。そして、重直は改めて毛利氏(吉川元春)の臣下となり、南条氏攻撃の先鋒に立つことになる。天正10年(1582)ついに南条元続の拠る羽衣石城を自らの手で堕とし、武功を挙げた。
ところが、こうした活躍を挙げたものの、恩賞は久米郡内の28石で、しかもその2年後の天正12年から13年にかけて行われた秀吉と毛利輝元の領土交渉、すなわち「京芸和睦」によって、因幡と伯耆東三郡は豊臣領へ、伯耆西三郡が毛利領となったことから、久米郡は南条領(豊臣領)となったため、重直はこの地を領地できず、西伯耆の会見郡小鷹城に移された。
【写真左】小鷹城
所在地:西伯郡南部町福成
別名・柏尾城とも呼ばれ、山田重直が居城とした。当城についてはいずれ別稿で取り上げたい。
もっとも、山田氏の庶流であろうか、堤城から北へ300mほど向かった北尾にある山田氏の居館の一つとされる「堤屋敷」跡に残る墓地には、「山田氏累代の墓」が数基建立されているので、一族全員が会見郡へ移ってはいない可能性がある(山田氏庶流の一部が当地に残った可能性もある)。
【写真左】堤屋敷
堤城から北へ向かうと、隣の集落北尾に繋がるが、その一角には丘状の台地がある。これが堤屋敷があったところとされている。
【写真左】山田家代々の墓・その1
現在堤屋敷跡は北側に墓地があり、南側は野地となっているが、元は畑地だったようだ。
この墓地には山田家と刻銘された墓石が3,4基建立されている。
【写真左】山田家代々の墓・その2
現在は新しい墓石が多いが、写真にあるように五輪塔をはじめ古い墓も残されている。
登り口に数体の地蔵仏があったので、ひょっとして江戸時代はこの堤屋敷跡に寺院が建てられていた可能性もある。
越振氏と十六島氏
さて、山田氏が堤城から去ったあとは、南条元続の家臣といわれる越振氏が入城したといわれる。越振は「おつふるし」又は「うつぶるいし」もしくは「うっぷるいし」と呼称される。
越振氏は伯耆国の国人領主で、『伯耆民談記』『羽衣石南条記』には、十六島(うっぷるい)の名で出ている。越振氏は、伯耆国東部河村郡合田(現・湯梨浜町羽合地域)を本拠とし、室町時代中期に在地領主としてあったとされる。それ以前の領主は河村氏であったとされ、実力で越振氏が奪い取ったのか分からないが、いずれにしろ明応元年(1492)秋には、山名尚之被官として「越振飛騨守」の名が残っている。
【写真左】北条八幡宮
平安時代に当時の堤城主山田山城守頼円が勧請した北条八幡宮(山田別宮)。
【写真左】北条八幡宮
平安時代に当時の堤城主山田山城守頼円が勧請した北条八幡宮(山田別宮)。
堤城から北西へ直線距離で800mほど向かった標高60m余の山頂部に建立されている。
山名尚之は、当時の伯耆守護であったが、これに敵対する反守護勢力で尼子経久の支援を受けていた山名澄之と守護職を争い、永正3年(1506)以前に没落している。
この後、越振氏は紆余曲折した後、南条氏の家臣となっていく。「京芸和睦」の後、越振氏は山田氏の居城であった堤城に入城した。現在当地北条島の集落内にある堤城跡に建つ東地家に「城主・宗太郎」の供養塔があるが、当家記録(過去帳か)に記載されているのが、十六島宗太郎という人物で、彼が堤城の城主であったといわれる。
【写真左】精緻な彫刻
拝殿から本殿にかけて地垂木や手挟みには見事な彫刻が施されている。
十六島・越振氏については、別稿で取り上げる予定だが、前述したように同氏初代は、もともと伯耆国に在した黒美信基という武将で、南北朝期名和氏及び塩冶氏に仕えた。
康安2年(1362)、出雲十六島の高島城に移り、ここで十六島氏を名乗ったといわれる。その後、永正年間ごろに再び伯耆に戻り南条氏に仕えたといわれる。
【写真左】高島城遠望
所在地:島根県出雲市十六島町
別名:十六島城ともいう。
南側の海岸部(十六島湾)から見たもので、現在主郭跡には発電用の風車が設置されたため、主郭付近の遺構はほとんど消滅していると思われる。
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