勝楽寺・勝楽寺城(しょうらくじ・しょうらくじじょう)
勝楽寺
●所在地 滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4
●創建 暦応4年(1341)
●開山 東福寺慧雲の法嗣雲海
●開祖 佐々木道誉
●参拝 2014年9月11日
勝楽寺城
●所在地 同上
●築城期 応安元年(1368)
●築城者 高築豊後守(道誉家臣か)
●城主 多賀豊後守など
●高さ 308m
●遺構 郭・石垣・土塁など
●登城 ※この日(2014年9月11日)は登城できず。
◆解説(参考文献『佐々木道誉』森茂暁著・吉川弘文館等)
前稿でも述べたように、今稿では道誉が後半期に居をさだめたといわれる甲良町にある勝楽寺及び勝楽寺城を取り上げたい。
【写真左】勝楽寺
勝楽寺城(正楽寺山)の麓にあり、静かなたたずまいの境内である。
道誉の墓はこの写真の左側奥に祀られている(下の写真参照)。
当地は、前稿清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)から旧中山道を伝って、約25キロほど向かった犬上川中流域にある甲良町にある。
ちなみに途中には元弘3年(1333)、後醍醐天皇の綸旨を受けた尊氏軍らに攻められた六波羅探題の北条仲時が、東国に落ち延びる途中、さらに行く手を道誉に阻まれ、一族郎党432名ともども自刃した蓮華寺がある(笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)参照)。
【写真左】正楽寺(勝楽寺)の案内図
名神高速道の高架下を潜ると、この看板と小落城が目の前に現れる。
現地の説明板より
“婆娑羅(ばさら)の地 勝楽寺
勝楽寺
慶雲山勝楽寺は、南北朝動乱期の近江守護職として、また室町幕府侍所々司を勤める四職家の一つとして、当代に傑出した武将・佐々木(京極道誉)を開祖として創建された。寺号は道誉の諡号勝楽寺殿徳翁道誉によって命名した。字名もまた明治のはじめ大字正楽寺と改めるまでは、勝楽寺と称していた。
婆娑羅(ばさら) 佐々木道誉
道誉は、その暁勇諸将に卓越した豪傑であり、如何なる権威にもとらわれぬ稀にみる自由奔放な思想の持ち主として、いわゆる「ばさら」の典型として、今日、歴史的な注目をあびるようになった。
道誉は、きわめて豊かな文化的教養をになっていた。今日の伝統芸術として親しまれている能・狂言・田楽はもとより、茶・花・香などの芸道に及んでその真価を発掘して、その興隆に力をつくした。
【写真左】案内図付近から勝楽寺城を遠望する。
この辺りは広々とした平地が続き、開放的な気分にさせてくれる。
大日如来坐像(重要文化財)
収蔵庫に安置されている大日如来坐像は、恵心僧都の作と伝え、道誉の念持仏といわれている。寄木式彫眼漆箔の手法による胎蔵界の大日形をなし、其宝髪は高く毛髪の線刻は精緻を極め天台と環釧とは、仏身と共木彫出となり、法界足印を結んで結跏し、その流麗なる衣文と端厳なる容姿とは藤原期の代表的な霊像といわれ、古来安産の霊験ありとして参拝者が多い。
佐々木道誉画像(重要文化財)国立京都博物館(預託)
精緻な色彩で描かれた肖像画である。この年代〔貞治5年(1366)〕のものとしては数少ない貴重なもので、道誉の画像は子高秀が道誉の還暦に筆をとり、それに端正なる筆跡で道誉自ら讃を添えている。
【写真左】山門
さほど大きなものではないが、歴史を感じさせる。
山門
室町時代の特徴豊かな六脚門である。織田信長のため一山は火燼に帰したが、この山門だけが火難を免れわずかに残ったものである。時代のおもかげを充分感じることのできる門である。
【写真左】佐々木道誉の墓・その1
墳墓
佐々木道誉の墓石は、本堂の北境内の一隅にまつられている。南北朝期の宝篋印塔婆として大名にふさわしいものであるが、兵火の際に塔身の一部が欠損している。
道誉(勝楽寺殿 前廷尉 徳翁道誉 大居士)
応安6年(1374)8月25日卒
【写真左】勝楽寺城遠望
勝楽寺境内に登山口がある(下段写真参照)。
勝楽寺城
南朝期の城で、一部だけ石垣を築いた山城である。尾根の各所から近江の平野が手に取るように見え、河瀬・多賀に支配を配し、鶴翼の陣構えで湖国近江を睨んでいた往時の本城の威容が偲ばれる。我が国初期の城として近年脚光を浴び、学術的価値を高めつつある。
山中には、狐塚・経塚・仕置場・上ろう落とし等があり、歴史とロマンを感じさせる。
甲良町・甲良町観光協会”
【写真左】勝楽寺城案内図
勝楽寺境内に設置されており、ハイキングコースとしても利用されているようだ。
この日は近江探訪の最終日で、前夜予想以上に雨が降ったことや、帰りの時間も制限されていたため、登城は断念した。
鎌倉末期から南北朝・室町初期まで
佐々木道誉が生まれたのは以前にも述べたように、鎌倉末期の永仁4年(1296)といわれている。実父は宗氏であるが、間もなく貞宗の猶子となる。
正和3年(1314)12月、19歳のとき、左衛門尉に任じられるが、具体的な活躍はそれから約10年ほど経た正中元年(1324)3月に行われた後醍醐天皇石清水行幸の際、橋渡しの使いを勤めるのが道誉の公式なデビューとなる。この年の暮れ、従五位下に叙し、佐渡守に任じられた。
鎌倉幕府の崩壊が顕れだしたのは北条高時が執権になったときである。すでに幕府の支配体制は弛緩の極みを見せ、嘉暦元年(1326)3月13日、高時は出家した。この10日後の23日、それまで佐々木高氏と名乗っていた道誉は、主君に倣って出家し、道誉と号することになる。道誉31歳のときである。
【写真左】勝楽寺境内
登城口付近から見たもの。
元弘元年(1331)8月24日、後醍醐天皇は内裏を出奔、神器を持って笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置) に入った。29日、天皇御謀叛の報が鎌倉に届いた。直ちに幕府は討伐軍を上洛させるべく、北条一族の大仏・金沢氏をはじめ、外様の足利高氏(尊氏)らを大将として進発させた。
9月28日、幕府軍の猛攻の前に笠置山は陥落、後醍醐天皇は捕らわれた。この戦いにおいて道誉は、勢多橋警固を命ぜられ、10月6日には天皇近臣の一人千種忠顕を預かる。
翌2年(1332)3月、幕府は後醍醐天皇を隠岐に配流することを決断、道誉はその護送・警固の任に当たった。天皇配流によってこの討幕というクーデターは鎮圧したかに見えた。しかし実態はそれとは逆にさらに討幕の機運が盛り上がることになる。
こうした中、鎌倉御家人であった道誉がいつから討幕側にまわったのだろうか。
この年(元寇3年)、船上山(名和長年(1)船上山 参照)における戦いで後醍醐派が勝利をおさめるや、一気に全国の武士たちが後醍醐のもとに馳せ参じた。
特に、3月に後醍醐派に与した播磨の赤松一族が、摂津で六波羅軍を破り京都へ進攻しだすと、幕府は4月16日に名越高家と足利尊氏に対し、京に討手の大将として進軍するよう命じている。そして、高氏(尊氏)は、道中道誉の本貫地であった近江番場駅で、道誉から饗応を受け、軍談・密約を交わしている(近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)参照) 。
その後、尊氏は敢然と幕府に反旗を翻すことになる。尊氏叛逆の背景には道誉が密接に絡んでいることは注目に値する。おそらくこの尊氏との密談のときが一つのきっかけであったものと思われる。
鎌倉幕府が倒れたあと、後醍醐天皇による建武の新政が行われたが、僅か3年で瓦解した。そして武家方の代表・足利尊氏による北朝(室町幕府)と、吉野に逃れた後醍醐天皇による南朝の両朝に分裂することになる。延元元年・建武3年(1336)の11月から12月にかけてのことである。
【写真左】大日池
登山口側脇には大日池と呼ばれる小さな池がある。
現地の説明板より
“大日池
元亀元年(1570)7月、織田信長の兵火によって、ほとんどの堂宇が焼失したが、大日如来像は幸いに、村人たちの機転で此処に埋めて難を逃れました。
鎮火後、掘り出してみると、ここから水が涌き出し、以来涸れたことがなく、大日池と呼ばれ、安産・美顔等に霊験あらたかな水と崇められ、汲んで行かれる人も多い。”
さて、この頃の道誉の動きを見てみたい。先ず最初に、指摘しておきたいことは、道誉が常に尊氏に従っていることである。そして活躍の場が主として近江を中心にしていることである。
北朝が樹立されて間もないこの年(延元元年)、若狭守護に補任され、翌年の6月には本稿の勝楽寺に近い多賀荘を多賀社に寄進し、当地の多賀・河瀬一族の軍忠について執事高師直に報告、すなわち証判を加える立場でもあった。道誉が受けた褒賞の理由は道誉自身の活躍もあるが、既に成人して活躍していた嫡男秀綱等の勲功も大いに役立っている。
そして、道誉が勝楽寺が所在する甲良荘に居住し始めたのがこのころであったとされる。因みに、この前年佐々木氏嫡流であった六角氏の佐々木氏頼は、愛知川を挟んだ南の観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)に入っている。
【写真左】佐々木道誉の墓・その2
道誉の墓の左隣には、「赤田栄(又は宋か)公墓」と刻銘された墓がある。
赤田氏は、道誉が多賀荘区域まで勢力を広げたころ、それまでの支配者曽我氏に代わって、当地(曽我城:犬上郡多賀町一円附近)を本拠とした。
同氏と道誉の関係がうかがわれる(下段道誉の事績・文和3年の項参照)。
道誉の事績と出雲国との関わり
その後の道誉の事績や、守護職として出雲国などが関わった所領地など主だったものを時系列的に列記しておきたい。
勝楽寺
●所在地 滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4
●創建 暦応4年(1341)
●開山 東福寺慧雲の法嗣雲海
●開祖 佐々木道誉
●参拝 2014年9月11日
勝楽寺城
●所在地 同上
●築城期 応安元年(1368)
●築城者 高築豊後守(道誉家臣か)
●城主 多賀豊後守など
●高さ 308m
●遺構 郭・石垣・土塁など
●登城 ※この日(2014年9月11日)は登城できず。
◆解説(参考文献『佐々木道誉』森茂暁著・吉川弘文館等)
前稿でも述べたように、今稿では道誉が後半期に居をさだめたといわれる甲良町にある勝楽寺及び勝楽寺城を取り上げたい。
【写真左】勝楽寺
勝楽寺城(正楽寺山)の麓にあり、静かなたたずまいの境内である。
道誉の墓はこの写真の左側奥に祀られている(下の写真参照)。
当地は、前稿清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)から旧中山道を伝って、約25キロほど向かった犬上川中流域にある甲良町にある。
ちなみに途中には元弘3年(1333)、後醍醐天皇の綸旨を受けた尊氏軍らに攻められた六波羅探題の北条仲時が、東国に落ち延びる途中、さらに行く手を道誉に阻まれ、一族郎党432名ともども自刃した蓮華寺がある(笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)参照)。
【写真左】正楽寺(勝楽寺)の案内図
名神高速道の高架下を潜ると、この看板と小落城が目の前に現れる。
現地の説明板より
“婆娑羅(ばさら)の地 勝楽寺
勝楽寺
慶雲山勝楽寺は、南北朝動乱期の近江守護職として、また室町幕府侍所々司を勤める四職家の一つとして、当代に傑出した武将・佐々木(京極道誉)を開祖として創建された。寺号は道誉の諡号勝楽寺殿徳翁道誉によって命名した。字名もまた明治のはじめ大字正楽寺と改めるまでは、勝楽寺と称していた。
婆娑羅(ばさら) 佐々木道誉
道誉は、その暁勇諸将に卓越した豪傑であり、如何なる権威にもとらわれぬ稀にみる自由奔放な思想の持ち主として、いわゆる「ばさら」の典型として、今日、歴史的な注目をあびるようになった。
道誉は、きわめて豊かな文化的教養をになっていた。今日の伝統芸術として親しまれている能・狂言・田楽はもとより、茶・花・香などの芸道に及んでその真価を発掘して、その興隆に力をつくした。
【写真左】案内図付近から勝楽寺城を遠望する。
この辺りは広々とした平地が続き、開放的な気分にさせてくれる。
大日如来坐像(重要文化財)
収蔵庫に安置されている大日如来坐像は、恵心僧都の作と伝え、道誉の念持仏といわれている。寄木式彫眼漆箔の手法による胎蔵界の大日形をなし、其宝髪は高く毛髪の線刻は精緻を極め天台と環釧とは、仏身と共木彫出となり、法界足印を結んで結跏し、その流麗なる衣文と端厳なる容姿とは藤原期の代表的な霊像といわれ、古来安産の霊験ありとして参拝者が多い。
佐々木道誉画像(重要文化財)国立京都博物館(預託)
精緻な色彩で描かれた肖像画である。この年代〔貞治5年(1366)〕のものとしては数少ない貴重なもので、道誉の画像は子高秀が道誉の還暦に筆をとり、それに端正なる筆跡で道誉自ら讃を添えている。
【写真左】山門
さほど大きなものではないが、歴史を感じさせる。
山門
室町時代の特徴豊かな六脚門である。織田信長のため一山は火燼に帰したが、この山門だけが火難を免れわずかに残ったものである。時代のおもかげを充分感じることのできる門である。
【写真左】佐々木道誉の墓・その1
墳墓
佐々木道誉の墓石は、本堂の北境内の一隅にまつられている。南北朝期の宝篋印塔婆として大名にふさわしいものであるが、兵火の際に塔身の一部が欠損している。
道誉(勝楽寺殿 前廷尉 徳翁道誉 大居士)
応安6年(1374)8月25日卒
【写真左】勝楽寺城遠望
勝楽寺境内に登山口がある(下段写真参照)。
勝楽寺城
南朝期の城で、一部だけ石垣を築いた山城である。尾根の各所から近江の平野が手に取るように見え、河瀬・多賀に支配を配し、鶴翼の陣構えで湖国近江を睨んでいた往時の本城の威容が偲ばれる。我が国初期の城として近年脚光を浴び、学術的価値を高めつつある。
山中には、狐塚・経塚・仕置場・上ろう落とし等があり、歴史とロマンを感じさせる。
甲良町・甲良町観光協会”
【写真左】勝楽寺城案内図
勝楽寺境内に設置されており、ハイキングコースとしても利用されているようだ。
この日は近江探訪の最終日で、前夜予想以上に雨が降ったことや、帰りの時間も制限されていたため、登城は断念した。
鎌倉末期から南北朝・室町初期まで
佐々木道誉が生まれたのは以前にも述べたように、鎌倉末期の永仁4年(1296)といわれている。実父は宗氏であるが、間もなく貞宗の猶子となる。
正和3年(1314)12月、19歳のとき、左衛門尉に任じられるが、具体的な活躍はそれから約10年ほど経た正中元年(1324)3月に行われた後醍醐天皇石清水行幸の際、橋渡しの使いを勤めるのが道誉の公式なデビューとなる。この年の暮れ、従五位下に叙し、佐渡守に任じられた。
鎌倉幕府の崩壊が顕れだしたのは北条高時が執権になったときである。すでに幕府の支配体制は弛緩の極みを見せ、嘉暦元年(1326)3月13日、高時は出家した。この10日後の23日、それまで佐々木高氏と名乗っていた道誉は、主君に倣って出家し、道誉と号することになる。道誉31歳のときである。
【写真左】勝楽寺境内
登城口付近から見たもの。
元弘元年(1331)8月24日、後醍醐天皇は内裏を出奔、神器を持って笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置) に入った。29日、天皇御謀叛の報が鎌倉に届いた。直ちに幕府は討伐軍を上洛させるべく、北条一族の大仏・金沢氏をはじめ、外様の足利高氏(尊氏)らを大将として進発させた。
9月28日、幕府軍の猛攻の前に笠置山は陥落、後醍醐天皇は捕らわれた。この戦いにおいて道誉は、勢多橋警固を命ぜられ、10月6日には天皇近臣の一人千種忠顕を預かる。
翌2年(1332)3月、幕府は後醍醐天皇を隠岐に配流することを決断、道誉はその護送・警固の任に当たった。天皇配流によってこの討幕というクーデターは鎮圧したかに見えた。しかし実態はそれとは逆にさらに討幕の機運が盛り上がることになる。
こうした中、鎌倉御家人であった道誉がいつから討幕側にまわったのだろうか。
この年(元寇3年)、船上山(名和長年(1)船上山 参照)における戦いで後醍醐派が勝利をおさめるや、一気に全国の武士たちが後醍醐のもとに馳せ参じた。
特に、3月に後醍醐派に与した播磨の赤松一族が、摂津で六波羅軍を破り京都へ進攻しだすと、幕府は4月16日に名越高家と足利尊氏に対し、京に討手の大将として進軍するよう命じている。そして、高氏(尊氏)は、道中道誉の本貫地であった近江番場駅で、道誉から饗応を受け、軍談・密約を交わしている(近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)参照) 。
その後、尊氏は敢然と幕府に反旗を翻すことになる。尊氏叛逆の背景には道誉が密接に絡んでいることは注目に値する。おそらくこの尊氏との密談のときが一つのきっかけであったものと思われる。
鎌倉幕府が倒れたあと、後醍醐天皇による建武の新政が行われたが、僅か3年で瓦解した。そして武家方の代表・足利尊氏による北朝(室町幕府)と、吉野に逃れた後醍醐天皇による南朝の両朝に分裂することになる。延元元年・建武3年(1336)の11月から12月にかけてのことである。
【写真左】大日池
登山口側脇には大日池と呼ばれる小さな池がある。
現地の説明板より
“大日池
元亀元年(1570)7月、織田信長の兵火によって、ほとんどの堂宇が焼失したが、大日如来像は幸いに、村人たちの機転で此処に埋めて難を逃れました。
鎮火後、掘り出してみると、ここから水が涌き出し、以来涸れたことがなく、大日池と呼ばれ、安産・美顔等に霊験あらたかな水と崇められ、汲んで行かれる人も多い。”
さて、この頃の道誉の動きを見てみたい。先ず最初に、指摘しておきたいことは、道誉が常に尊氏に従っていることである。そして活躍の場が主として近江を中心にしていることである。
北朝が樹立されて間もないこの年(延元元年)、若狭守護に補任され、翌年の6月には本稿の勝楽寺に近い多賀荘を多賀社に寄進し、当地の多賀・河瀬一族の軍忠について執事高師直に報告、すなわち証判を加える立場でもあった。道誉が受けた褒賞の理由は道誉自身の活躍もあるが、既に成人して活躍していた嫡男秀綱等の勲功も大いに役立っている。
そして、道誉が勝楽寺が所在する甲良荘に居住し始めたのがこのころであったとされる。因みに、この前年佐々木氏嫡流であった六角氏の佐々木氏頼は、愛知川を挟んだ南の観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)に入っている。
【写真左】佐々木道誉の墓・その2
道誉の墓の左隣には、「赤田栄(又は宋か)公墓」と刻銘された墓がある。
赤田氏は、道誉が多賀荘区域まで勢力を広げたころ、それまでの支配者曽我氏に代わって、当地(曽我城:犬上郡多賀町一円附近)を本拠とした。
同氏と道誉の関係がうかがわれる(下段道誉の事績・文和3年の項参照)。
道誉の事績と出雲国との関わり
その後の道誉の事績や、守護職として出雲国などが関わった所領地など主だったものを時系列的に列記しておきたい。
- 暦応元年(1338) 43歳 近江守護に補任される。
- 暦応3年(1340) 45歳 嫡男・秀綱白河妙法院宮と争い、同宮御所を襲い、焼はらう。これにより延暦寺から訴により、幕府しぶしぶ道誉父子の配流を決するも、道中で酒宴や遊女をもて遊ぶ(配流先には向かっていないと推測される)。
- 暦応4年(1341) 46歳 犬上郡甲良荘に慶雲山勝楽寺を創建。
- 康永2年(1343) 48歳 出雲国守護職に補任される。
- 康永3年(1344) 49歳 幕府、引付・内談結審定め、二番引付並びに内談方に配属さる。嫡男・秀綱、四番引付に配属。
- 貞和3年(1347) 52歳 3月、幕府、道誉に対し出雲国杵築大社三月会頭役対捍を戒む。 11月、道誉、出雲国諏訪部貞助(三刀屋じゃ山城 その2参照)、大野治郎衛門入道(本宮山城・大野氏(島根県松江市上大野町)参照)に、河内東条攻撃への馳参を促す。
- 貞和4年(1348) 53歳 2月、大和風森巨勢河原水越で、南朝軍と戦い秀綱と共に負傷。次男秀宗、大和国水越合戦で戦死。出雲国諏訪部貞助、同信恵代扶直に軍忠状証判を加える。
- 貞和5年(1349) 54歳 8月以後、引付編成替えにより、5番引付の筆頭に昇格。
- 観応2年(1351) 56歳 8月観応の擾乱において、尊氏近江鏡宿に着陣の際、道誉・秀綱父子三千余騎を率いて馳参す。11月、両朝和談の交渉において、義詮、赤松則祐らと共に和議を主張。義詮の命により、南朝との交渉に当たる。12月、義詮、道誉を「佐々木大惣領」となし、一族を催さしめる。
- 文和元年(1352) 57歳 閏2月、義詮京都の戦いに破れ近江国四十九院に逃れ、道誉父子随従す。6月、芝宮弥仁王擁立のため、武家使者として執奏勧修寺経顕と交渉す。8月、義詮、道誉に命じ、禅林寺聖衆来迎院雑掌に出雲国淀新荘地頭職を渡付せしむ。
- 文和3年(1354) 59歳 4月尊氏(幕府)、勲功賞として出雲国富田荘・美作国青柳荘・近江国江辺荘幷鳥羽荘下司職・同国多賀荘・一円石炭召次等を宛行う。10月、秀綱戦死の功を賞し、秀綱跡に出雲国安来荘・伯耆国小鴨次郎・同庶子等跡幷蚊屋荘・神田荘・因幡国私都郷を宛行う。
- 文和4年(1355) 60歳 2月、足利義詮の軍に属し、摂津神南に山名時氏・師氏父子と戦う。
- 延文元年(1356) 61歳 2月、吉田厳覚をして出雲漆治郷(現在の出雲市斐川町上直江附近)を円宗院に渡付せしむ。8月、義詮より、四条京極四町々(釈迦堂地を除く)を与えられる。またこの地を金運寺に寄進す。
- 延文2年(1357) 62歳 閏7月、北朝、関白二条良基撰集の莬玖波集を勅撰に准ず。これ武家奏聞(道誉の執奏)による。
- 延文3年(1358) 63歳 10月、細川清氏をもって幕府執事(管領)となす。義詮、昨日道誉をもってこれを内示する。12月、幕府評定始に着座(評定衆)。
- 延文4年(1359) 64歳 6月、義詮、勲功賞として近江国多賀荘地頭職を宛行う。8月、飛騨守護職に補任さる。
- 康安元年(1361) 66歳 9月、細川清氏と不和、清氏、若狭に奔る。12月9日、南朝軍の攻撃により後光厳天皇を奉じて京都を落ちる。同月27日、北朝軍京都を奪還す。(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町) 参照)
- 貞治元年(1362) 67歳 10月、幕府評定始に着座す(評定衆)。
- 貞治2年(1363) 68歳 7月10日、道誉以下他大名等、斯波高経を討たんとするの風聞あり。同月19日、道誉家人吉田厳覚、高秀の命により四条京極道場前にて、侍所所司代若宮左衛門尉に殺害される。これについて道誉、高秀を譴責(けんせき)す。
- 貞治4年(1365) 70歳 2月、飛騨・出雲国分春日社造替料諸国棟別の賦課令を受く。閏9月、祇園百度大路石塔西頬神保掃部助俊氏地の沽却を後家尼みやうゐに証す。10月、大野頼成の出雲国安国寺領同国大野荘半分内三分一薩摩八郎跡を押領するを止め、下地を同寺雑掌に渡付しむ。
- 貞治5年(1366) 71歳 6月、道誉画像(上記:佐々木道誉画像)に自賛す。8月、元の如く出雲守護職に補任され、元の如く摂津国多田院を返付さる。仁木義長の所領(4,5ヵ所)を拝領す。11月、幕府、出雲守護職道誉をして、被官人同国加賀荘・持田村(現在の松江市持田町付近か)領家職の押領するを止め、蓮華王院雑掌に渡付しむ。12月、隠岐入道に令して、出雲国加賀荘・持田村領家職のことを施行せしむ。
- 貞治6年(1367) 72歳 4月29日、南北両朝の和議破る。道誉、義詮からの譴責を受ける。5月、医師但馬入道々仙、道誉宿所を訪れ治療及び良薬を提供す。5月下旬、関東の紛争成敗のため、将軍の使いとして関東に下向す。
- 応安元年(1368) 73歳 足利義満元服。嘉例の石清水八幡宮参詣で前駆を勤む。管領細川頼之に従い、河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市) の南朝軍を攻める。8月、猿楽能興行あり、道誉・高秀父子見物に招待さる。
- 応安4年(1371) 76歳 8月、義満月見会遊宴を主催。道誉、管領細川頼之の次席に列され、和歌詠む。
- 応安6年(1373) 78歳 2月27日、近江甲良荘尼子郷を「みま」に譲ることを嫡子・高秀に告げ、後事を託す。3月10日、近江清瀧寺徳源院(滋賀県米原市清滝)・西念寺の両寺の寺務制定を定む。8月25日、疫癌を病み、近江で没す(戒号:勝楽寺殿徳翁道誉)。子息高秀、これに先んじて下向。12月、惣奉行佐々木高秀除服宣旨を下さるにより、山門神輿造替沙汰執行さる。
上掲した事績は当然ながら一部である。佐々木氏本流である六角氏が近江に強力な地盤を根付かせたことに対し、庶流の京極氏(道誉)は摂津、上総、飛騨、若狭などの守護職を一時的に獲得するものの、出雲国が同氏の最も重要な支配地であり、その礎を築いたのが佐々木道誉である。
次稿では、道誉のあとを引き継いだ戦国期に至るまでの京極氏関係の史跡を取り上げたい。
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