(あまごしきがんしょ・こうとくじ)
●所在地 鳥取県東伯郡琴浦町公文227
●備考 伯耆三十三観音霊場第24番札所
●山号 亀福山
●指定 琴浦町指定保護文化財 光徳寺山門(昭和49年5月1日指定)
●開基 永享元年(1429)
●創建 退休寺(大山町)三世無餘空圓禅師
●参拝 2013年12月21日
◆解説(参考文献「吉川弘文館『佐々木道誉』森茂暁著等)
鳥取県の伯耆国に聳える名峰大山(だいせん)は、火山活動によって周辺部に放射線状に数多くの丘陵地と谷を形成している。特に北方の日本海側を車で横断する際、規模の大小はあるものの、よく似た地形の谷間が多くあるため、目的地に行く際、混乱することがある。
【写真左】光徳寺
茅葺の山門
「不許葷酒入山門」と刻まれた石碑を左手に見ながら、享保15年(1730)に造られた階段を登ると、趣のある山門が出迎えてくれる。
地勢的に大山の影響を受けなくなる位置は、伯耆の東方すなわち倉吉市辺りからと思われるが、その手前にあたる東伯郡琴浦町には何本もの深い谷間がある。このうち、赤松川が流れる谷間に公文という地区があり、そこには尼子持久や清貞が寄進し、祈願寺としたといわれる光徳寺がある。
【写真左】公文地区の景観
光徳寺付近から見たもので、右方向に日本海、左方向には大山があるが、大山はこの谷からは行けない。
現地の説明板より
“琴浦町指定保護文化財
光徳寺山門
(昭和49年5月1日指定)
亀福山光徳寺は、もと天台宗で、現地から南方一里の野田の地にありましたが、室町時代の永享元年(1429)退休寺(大山町)三世無餘空圓禅師が現在の地、公文亀谷に移して、曹洞宗に改めました。当時出雲守護代尼子持久は空圓に帰依して、永享5年(1433)本堂、庫裡を寄進し尼子一族の祈願寺としました。
【写真左】山門前附近
当院は公文地区の東側に伸びる舌陵丘陵に建立されているが、この場所に至るまでに数軒の民家の脇を通る狭い道を通らなければならない。
次いで、持久の子、清定は、嘉吉3年(1443)開山堂、鐘楼とこの山門を建立寄進しました。
鎌倉時代様式で、茅葺寄棟造りの山門楼上には、この門をくぐる参拝者の願い事を叶えてくださるという伝えの「金色寳光妙行成就王如来」坐像が安置されています。
末寺10数ヶ寺を有する、地方本山でもあったこの寺の風格にふさわしい山門といえます。
平成21年3月24日
琴浦町教育委員会”
【写真左】山門
現在残る山門はこれまで何度か改修されたものだろうが、おそらく当時(鎌倉時代)の様式を継承した茅葺寄棟造りの建物だろう。
部材も相当年数が経っている。
佐々木道誉から尼子持久まで
ところで、未だに月山富田城を投稿していないが、いずれアップすることとし、今稿では当城を本拠とした出雲尼子氏の出自について概説しておきたい。
尼子氏の元を古代まで辿ると、近江の豪族佐々貴山君(ささきやまのきみ)一族に繋がる。この地にその後別系統の宇多源氏系の佐々木氏が乗り込み、同氏の間に同化が進んだとされる。そして、経方の代に季定・行定の二子ができ、季定以下の系譜が宇多源氏系、行定以下は佐々貴氏系とされている。しかし、実態として定綱の代であった鎌倉寺時代初期には同化していなかったため、佐々貴氏は「本佐々木氏」と称されていたという。
【写真左】鐘楼
尼子清貞が嘉吉3年(1443)に寄進した鐘楼は、昭和17年の第2次世界大戦のために供出され、その後新たに設置したものの台風などで倒壊、昭和53年に檀信徒によって寄進・再建された。
その後近江武士佐々木氏の基礎を築いたのが、前出の季定の子・佐々木三郎(源三)秀義である。そして秀義の子・佐々木太郎定綱から信綱と続き、信綱が4人の男子を設けた。これが下段に示すのちのそれぞれの祖となった。
- 佐々木重綱 ⇒ 大原氏
- 佐々木高信 ⇒ 高島氏
- 佐々木泰綱 ⇒ 六角氏(庶流近江米原氏 ⇒ 高瀬城(島根県斐川町)主・米原氏など)
- 佐々木氏信 ⇒ 京極氏
このうち佐々木(京極)氏信は、満信と宗綱の男子を設け、満信は宗氏を経て、貞氏・高氏・貞満・秀信・時満・経氏の6人の男子が生まれた。
一方、宗綱の方は、祐信・時綱・貞宗の3人の男子のほか、二人の女子があった。
前出の宗氏の次男・高氏はその後、宗綱の三男・貞宗の猶子となった。この高氏がいわずもがな佐々木(京極)道誉その人である。
【写真左】本堂
峰瓦に家紋(尼子氏:平四つ目結)などがあるかと思ったが何もない。
もっとも、説明板にもあるように当院は、退休寺(大山町)三世無餘空圓禅師が建立したもので、退休寺は以前紹介した大山町にある岩井垣城主・箆津敦忠との関わりの強い寺院であったから、平四つ目結の家紋などは入らなかったのだろう。
道誉には、秀綱・秀宗・高秀の三人の男子があり、三男・高秀はその後、高詮(経)と高久の男子を持った。
佐々木道誉 ⇒ 秀綱 → 秀詮 → 秀頼
⇒ 秀宗
⇒ 高秀 → 高詮(経)(氏頼猶子)
⇒ 高久(尼子) ⇒ 詮久(近江尼子氏)
⇒ 持久(出雲尼子氏)
この高久が後に出雲尼子氏の祖となる持久の父である。高久は近江守護代に任ぜられたのが14世紀後半といわれているが、元中8年(1391)に29歳で早逝しているので、守護代になったのもこの直前頃と思われる。
高久が亡くなったあと、長男・詮久(のりひさ)は父の跡を受け継ぎ、近江尼子氏を、二男・持久は出雲に下向し守護代となり、出雲尼子氏の祖となる。
【写真左】五輪塔・その1
境内には檀家墓地とは別に歴代住職の墓があるが
その一角に五輪塔が数基祀られている。尼子氏と関係がったものだろうか。
出雲守護職・守護代
さて、京極氏が出雲国と最初の接点を持ったのは、道誉のときで、第1期は康永2年(1343)8月20日、出雲守護職に補され、観応2年(1351)まで続く(「正閏史料」)。補任したのは足利尊氏である。
これより先立つ暦応4年・興国4年(1341)3月、出雲国及び隠岐国守護職であった塩冶(佐々木)判官高貞は、高師直によるいわれなき讒言によって京から本国へ逃走、宍道白石にて無念の自刃を遂げた(塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)参照)。高貞討伐に功のあった山名時氏は、高貞に代わって出雲守護職に任じられた(田内城(巖城)・山名氏(倉吉市)参照)。
【写真左】五輪塔・その2
境内にある五輪塔とは別に、南側の斜面に複数の石塔を含む五輪塔もある。この付近には自然石を墓石のように扱い、数か所に分散させて供養しているところがある。このような箇所を他所で見たことがあるが、それがどこだったか、今は思い出せない。
刻銘もされていない墓石なので、無縁仏と思われるが、何らかの謂われがあったものだろう。
時氏が出雲守護職に任じられてから2年後、前記した道誉が時氏に代わって任じられることになる。これは観応の擾乱(景石城(鳥取県鳥取市用瀬町用瀬)参照)が原因とされる。すなわち、室町幕府開幕期、足利尊氏と弟・直義との権力争いで、尊氏が勝利したものだが、もともとこれ以前から山名時氏と佐々木道誉には確執があった。
そして尊氏に従った道誉がこれにより出雲守護職を補任された。なお、冒頭で第1期の出雲守護職期間終了年を観応2年としているが、その後も山名氏と断続的な交代劇があるものの、道誉は貞治6年(1367)まで、同国守護職を務めている。
山名氏は満幸の代(至徳3年・1386~明徳2年・1391)を最後とし、以後京極高詮を始めとして名目上、永正5年(1508)まで京極氏が任じた。
【写真左】秋葉三尺坊の鳥居
光徳寺の脇には秋葉三尺坊とされる社が建立されている。
急傾斜の階段を登ると、社殿が建立されている(下段写真参照)
【写真左】【写真左】秋葉三尺坊社殿
創建時期などは不明だが、歴史を感じさせる。
ところで、出雲国における守護職の記録は残るものの、守護代の記録は余り残っていない。むしろ、守護職として当国にせわしくなく立ち振る舞った京極氏の記録が多いため、守護代の必要性もなかったのかもしれない。
応永8年(1401)、8月出雲守護・京極高詮は、出雲・隠岐・飛騨三国の守護職、所領、惣領分を嫡子・高光に譲り、その翌月の9月高詮は没した(「佐々木文書」)。
【写真左】尼子持久の墓・その1
持久の墓とされているのが、出雲(島根県)広瀬月山富田城の西南・菅原附近にあるもので、最近できた「菅原広瀬バイパス」沿いにある。
【写真左】尼子持久の墓・その2
あくまでも伝承として伝えられているもので、確定したものではない。
当地には、持久が月山西南鬼門に当たる山上に経塚を築き、平穏な治政、子孫の永福を祈ったと記されている。
翌応永9年(1402)、尼子持久は野崎武右衛門に従って富田城に入った(「島根県歴史大年表」2001年発行)。これとは別に、明徳3年(1392)、出雲守護京極高詮によって尼子高久が守護代に補任され(「陰徳太平記」)、3年後の応永2年(1395)に月山富田城に入城したとある。 ただこの入城記録には出典が明記されていないため、真偽のほどは解らない。
むしろ、前記したように、京極高詮が亡くなり、その跡を嫡子・高光に譲った時期と併せて持久が出雲国に来住した応永9年説が有力だろう。
持久に関する記録は、今のところ出雲国においては入国した時期のみで、他に見当たらない。しかし、今稿の因幡国にある光徳寺において、
“当時出雲守護代尼子持久は空圓に帰依して、永享5年(1433)本堂、庫裡を寄進し尼子一族の祈願寺とする…”
という記録があるところを見ると、持久が京極氏の元で何らかの役割を果たしていたと考えられる。ただ、なぜ持久が守護国である出雲国ではなく、因幡国に祈願寺を設けたのだろうか。
【写真左】尼子清貞(定)・経久の墓
安来市広瀬町の洞光寺に祀られている。
右が清貞、左が経久の墓
【写真左】月山富田城遠望
この場所から月山富田城が正対して見える。
そこで考えられるのが、明徳2年(1391)に起こった「明徳の乱」である。この乱については既に小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)などでも紹介しているが、乱の首謀者であった伯耆守護職山名満幸が、出雲守護職京極高詮によって打果されたことが一つの原因と思われる。そして満幸のあと、持久及び清貞が一時的に当地を支配したのではないだろうか。
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