2010年4月26日月曜日

鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)

鹿野城(しかのじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市鹿野町鹿野
●登城日 2010年4月24日
●築城期 不明
●築城主 志加奴氏(鹿野氏)
●標高/比高 200m/140m
●城主 志加奴氏、山名氏、亀井氏、池田氏
●形式 山城
●遺構 石垣、土塁、堀、郭等
●別名 志加奴城、鹿奴城、王舎城

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」その他)
旧気高郡鹿野町にあった山城(平山城)で、特に有名な城主としては、これまで度々紹介してきた山中鹿助の義兄弟でもあった亀井玆矩・通称新十郎である。

写真左】鹿野城遠望
 当城西麓側、鹿野小学校付近から撮ったもので、天守台は写真の妙見山(最高所)に設置されていた。




 鹿野城のある鹿野町鹿野は、現在の鳥取市の西部に当たり、北部の日本海側より3,4キロ南方に入った谷間に開かれた城下町である。

 築城期は不明だが、「鹿野小誌」によると、築城者は橘氏というから、平安期にはすでに同氏が土着し、国人領主となっていたと思われる。

写真左】鹿野城跡公園案内図
 亀井玆矩の時代に大幅な改築が行われた。当時の主だった施設の規模は次の通り。
本丸 天守12m四方、詰の丸15m×5.5m
二の丸 11m×7m
三の丸 21m×19m
西の丸 39.5m×19m

また、内堀の外にも出丸を築き外堀をめぐらした。
 図にある中学校の敷地なども当時の城跡である。



 鹿野城の歴史を概括すると、次の三つの時期に整理できる。

(1)南北朝・室町初期時代

 室町時代初期、因幡守護だった山名氏の家臣として志加奴(しかぬ)氏が仕えたという。明徳2年(1391)、山名氏清・満幸の強大な勢力を恐れた将軍・足利義満が、巧妙な策を弄して同氏を陥れようとした。

 これに対し、山名氏が挙兵し、上洛したいわゆる「明徳の乱」があるが、その際、討死した氏清と共に「志加奴七郎」という武将の名も見える。
【写真左】登城口付近
 上記の案内図では右側(西側)に駐車場(東西に分かれて設置されている)があり、そこから中腹にある城山神社の鳥居をくぐり、階段を登るコースと、写真にみえる左側の坂道を登っていくコースがある。 途中で両道は繋がり、城山神社へ向かうコースになる。



(2)天文年間

 天文12年(1543)出雲の尼子晴久は、伯耆・因幡両国を一気に攻め落とそうと押し入った。このとき、天神山城の山名氏は、因幡国西端部で、阻止すべく、日本海側の大崎城と、鹿野城に拠った。
 大崎城は、ほとんど一戦も交えず陥落し、残った鹿野城には、城将・志加奴入道がわずか三百の手兵で応戦・激闘したが、あえなく自刃した。
【写真左】郭跡
 登城口から坂道コースを通ると、すぐに北側に突き出た郭が見える。特に表示板のようなものがないので、具体的にどんな用途のものだったかわからないが、場合によっては矢倉が設置されていたかもしれない。
 写真の左側下には駐車場があり、右側には中学校のグランドがある。


(3)亀井氏時代

 天正8年(1580)、24歳のとき鹿野城の城番に任ぜられ、翌年鳥取城攻めの功労が認められ、気多郡13,800石を与えられ、鹿野城主となったのが、冒頭で述べた亀井玆矩である。

 その後、関ヶ原の戦いでは、東軍に属し、高草郡24,200石を加増された。玆矩は慶長14年正月に家督を嗣子・政矩に譲り、同年4月には、さらに久米・河村両郡から5,000石の加増があり、合わせて43,000石の所領となった。 なお、玆矩は慶長17年正月26日、鹿野城において病没した。享年56歳。
 その後、政矩は元和3年(1617)幕府の命によって、石見国津和野に移封、三本松城主となった。

【写真左】西の丸御殿跡
 現地の説明板より

西の丸御殿跡

 鹿野城跡の山城部分の曲輪の中で、一番広い曲輪であり、入口(東の山側)付近に井戸があったという。曲輪の西半には、南北七間半(約16m)、東西八間(約17m)に礎石の配列が残っている。

 これは、初代藩主亀井玆矩の隠居所(西の丸)の跡といわれ、本瓦葺の書院造りの殿舎が建てられ、また海外の珍奇の材で一室を構えたという「唐木御殿」もここにあったのだろう。”

【写真左】城山神社本殿
 当社延喜(説明板より)

城山神社(しろやまじんじゃ)
 祭神は須佐之男命。亀井氏在城中は、城内鎮謹の神社として祀られました。

 社殿は精緻を極め、彫刻も見事なものです。また祭礼は文化10年(1813)から、古式を守り伝えて今に至り、祭礼および獅子舞は、県の無形民族文化財に指定されています。

 毎年4月第1日曜日から三日間公開されています。”
 この設置場所も、元は曲輪だった可能性がある。
【写真左】本殿その2
 外側の建物は平成20年に竣工している。写真にある社殿を保護するために、「鞘がけ」と拝殿建替をしたとある。

 明治に造られたようだが、彫刻は全面にわたって力強く、しかも優美である。







【写真左】城山神社から北麓の鹿野町町並みを見る。
 写真にある池は元の水堀跡。









【写真左】本丸直下の郭
 山の配置上、鹿野城は北東部に突き出した稜線上に造られ、写真に見えるこうした腰郭状の段が、天守台までに4段程度構成されている。いずれも三角形の形状で、小規模な山城の割に、郭の面積は広い。
 これは、北東部の鳥取城を意識したためと思われる。





【写真左】天守台直下
 上記の郭からすぐ西に設置されているのが、天守台跡だった主郭である。
 高さは4m前後だろうか。









【写真左】天守台跡
 下の図面のように、ほぼ正方形の形状で、礎石跡が確認できる。










【写真左】天守台基礎図
 上段で記したように、約10m四方の礎石列の外側2mに14m四方の外側線と、その基底部に根石が残っており、14m四方の石垣の上に、本瓦葺、入母屋造りの三層の建物がそびえていたという。














【写真左】天守台跡から、北西部にある譲傳寺を見る。
 譲傳寺は、次稿で取り上げる予定だが、亀井玆矩の菩提寺とされている。
 また、同寺の背後にある山は、元城跡のあったところで、右側の突き出した丘陵上には、亀井家一族の墳墓が建立されている。






【写真左】鹿野城跡公園
 手前が元の内堀で、奥の橋の向こうが外堀になっている。
 なお、写真右側の内堀と外堀の間には、鹿野中学校の校舎などが建っている。

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