2012年3月1日木曜日

太閤ヶ平(鳥取県鳥取市百谷太閤ヶ平)

太閤ヶ平(たいこうがなる)

●所在地 鳥取県鳥取市百谷 帝釈山 太閤ヶ平
●別名 久松城
●築城期 天正9年(1581)
●築城者 羽柴秀吉
●高さ 標高240m
●遺構 土塁等
●指定 国指定史跡
●登城日 2009年10月30日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 豊臣秀吉が西国の雄・毛利氏と激戦に及ぶ際、鳥取城攻めを行ったが、そのとき陣を張った場所が、南東に聳える本陣山に築かれた「太閤ヶ平」である。
【写真左】太閤ヶ平の土塁跡
 登城したこの日(2009年10月30日)は、遺構部分も含め草木・雑草が繁茂していて、当時の形状は写真に収めてもわかりにくい状態だった。


 鳥取城は別名「久松城」とも呼ばれ、因幡国を代表する山城である。

 鳥取城については、10年ぐらい前に登城はしているが、写真の出来栄えも今一つで、再度登城した際改めて取り上げることとし、今回は「太閤ヶ平」のみ紹介したいと思う。
【写真左】案内図
 写真中央の緑色の中央部に太閤ヶ平が記されている。
 左図のように現地に向かう道としては、約9コースあるようだが、この日は左下にある樗谿(おうちだに)公園側から向かった。


 なお、このコースも含め周辺は中国自然歩道となっており、車は当公園内に駐車することになる。

現地の説明板より
“国指定史跡「太閤ヶ平」
  昭和32年12月18日指定
 
 天正9年(1581)の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で展開されたものである。
【写真左】スタート地点の鳥居から2,267mの地点
 鳥居というのは、樗谿(おうちだに)公園の奥にある樗谿神社の鳥居のことで、登城途中には要所ごとに歩いた距離が記されている。

 なお、写真のように広い道となっているが、これは関係者の管理用の道路専用で、一般の者は車では通れない。
 この日も我々以外に多くの市民が登って行った。

 信長の派遣した部将羽柴秀吉は、姫路から但馬口を経て天正9年7月12日、鳥取に到着し鳥取城背後の東北の山頂(太閤ヶ平)のこの位置に本陣を置き、左右両翼と前面の袋川沿いに各陣を布いて、2万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開した。

 太閤ヶ平(本陣山)は、西方前方に鳥取城を望み、左方に芳心寺に至る一帯の山々をひかえ、右方には、はるかに円護寺・覚寺・浜坂・賀露に至る一帯を見下し、総本陣としては最も適した場所であった。

 これを迎え撃つ鳥取城は、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として守備しており、その兵力は芸州毛利氏よりの加番衆四百と因幡国方衆千余であった。
 毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後3ヶ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰い候」という状況となった。
【写真左】鳥取城(久松山城)遠望
 先ほどの位置から見たもので、この地点以外にも望める箇所があるが、このポイントが一番眺望がいい。

 天気がよいと、鳥取の町や日本海が望める。

 ついに10月25日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。時に35歳であった。


 死の前日、10月24日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において、倅腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。

 この太閤ヶ平には、当時の鳥取城攻防の歴史を物語るかのように、土塁と空濠を廻らした曲輪の跡が厳然として残されている。
 また、この一帯は鳥取自然休養林であり、摩尼寺に至る中国自然歩道も整備され、広く市民の憩いの場として親しまれている。
    平成5年3月
      文部科学省
      鳥取市教育委員会
      鳥取森林管理署”
【写真左】太閤ヶ平の土塁外側
 10月末だったが、約3.5kmの坂道を登ったことから、着いたときには大汗をかいていた。真夏だったら引き返していただろう。

 土塁の脇に道路が接しているが、当時はこの辺りにも大小の郭群が点在していたという。現在は中心部の四角形で囲まれた土塁跡が主な遺構として残っている。

秀吉の鳥取城攻め

 当初秀吉は山陰方面の責任者として弟の秀長を当てていた。天正8年(1580)4月、秀長は宮部善祥坊と東方の但馬方面から向かった。

 これに対し秀吉らは南東側の若桜街道、すなわち戸倉峠へ入り、先ず因幡・若桜鬼ヶ城を落とし、さらには八東川の支流細見川を登り、市場の私部城を攻め落としていった。この後、本来ならばそのままの勢いで鳥取城攻めを行うところだったが、この時は猛攻をしていない。

【写真左】太閤ヶ平遺構図
 下方が北を示す。
 現地にあるこの図は大分色が劣化し、見にくいがほぼ四角形を為した土塁群が周囲を囲み、中央には平(成)と呼ばれる平坦地がある。


 西側土塁を隔てたところには郭が取りつき、そのまま帯状の郭となって南側まで連続している。

 南側の東端部は少し突き出した土塁囲繞となっており、その東側には空堀が施されている。

 出入口は、東側と南側の二か所に開口部があり、東側には馬場跡とされる削平地が配置されている。なお、太閤ヶ平の北東部には現在無線中継所基地が立っており、これらの施設整備のため周辺の遺構はほとんど消滅しているようだ。


 秀吉が次に狙いを定めたのは、西方の鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)である。当時、鹿野城には毛利方の城番として、三木左衛門及び近藤豊後が守備していた。鹿野城はあっという間に秀吉の手に落ちた。
【写真左】土塁
 反時計方向に土塁の上を進んで行ったが、かなり大きな雑木が育っているため、やや難渋する。

 写真左側が中央部の平(成)部分。なお、土塁の高さは2~3m程度か。


 秀吉がすぐに鳥取城を攻めなかったのは、これら鳥取城を支える端城となっていたものを先に落として置くことが先決であったことも確かであるが、鹿野城については、当時毛利方に与した因幡の諸将の身内などが人質として預けられていたからである。
【写真左】南側の出入口付近
 現在はどの程度整備されているかわからないが、国指定史跡というわりにはほとんど野放図状態に近い状態だった。

 指定史跡として登録されても管理費等予算的な恩典がないのだろうか。


 中国自然歩道(樗谿公園~摩尼寺線)という立派な道や案内板が設置されている割には、この太閤ヶ平の状況には違和感を覚える。


 秀吉はこれら人質を鳥取城の麓まで連れて行き、磔(はりつけ)をつくり、城中にいる山名豊国らの目の前で降参・開城を迫った。

 豊国の家老森下・中村氏の人質は殺害され、豊国の娘は許された。結局、秀吉はこの時は鳥取城を完全に落とさず、奪取した因幡の主要な城に下記の者を城番として置き、一旦姫路に引き上げた。
  1. 因幡・若桜鬼ヶ城    木下(荒木)重賢
  2. 鹿野城          亀井茲矩
  3. 景石城          磯部兵部
  4. 桐山城          垣屋光成
【写真左】土塁東側の開口部
 この開口部が南側より少し広い。








 この後、鳥取城内では城主・山名豊国が毛利氏から織田方に鞍替えしようと画策し始めていた。しかし、度重なる豊国の豹変ぶりに家臣からは不信の念と憎悪が増し、ついに豊国は鳥取城から追われることになった。

 そして、豊国に変わって城主となったのが、石見国温泉津の福光城からやってきた吉川経家である。

 福光城は別名「不言城(物言わず城)」(福光城(島根県大田市温泉津町福波谷山)参照)とも呼ばれているが、鳥取城の家臣が城主として毛利氏(吉川元春)に頼んだことから、同族の経家が派遣されたわけである。
 その後の経緯は、説明板の通りである。
【写真左】東側の空堀
 東側の土塁の外には空堀がほぼ並行して設置されている。
【写真左】土塁の内側
 南東部の突起した箇所を除くと、ほぼ四角形の囲繞型で、一辺が約90m前後ある。したがって内側の面積は8,100㎡強の規模となる。

 これとよく似た城砦としては、以前取り上げた伊予の沼城・荏原城が思い起こされる。ただ土塁の高さは荏原城の方が高く、規模も大きい。


 戦国期に陣所として、秀吉がこうした南北朝期の形態に類似した城塁を築いているのは珍しいといえる。
【写真左】百谷(ももたに)付近
 太閤ヶ平の東側の谷で、秀吉が太閤ヶ平(本陣山)に入る際、この谷から向かったといわれる。

 現在この谷には、本陣山及び稲葉山を水源とした治水ダム(百谷ダム)がある。

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