2012年3月22日木曜日

上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その3

上月城(こうづきじょう)その3

●登城日 2006年11月29日、及び2011年12月13日

◆解説(「山中鹿介幸盛」妹尾豊三郎編著等)
  今稿では毛利方によって落城した上月城における尼子勝久、並びに山中鹿助の最期について記しておきたい。

尼子勝久の最期

 尼子再興軍の主として上月城で毛利氏と戦った尼子勝久は、孤立無援の状況に陥り、天正6年(1578)7月5日ついに降伏した。傍らには山中鹿助が勝久の前に無念の涙を流し、両手をひざまずいた。
【写真左】尼子勝久の追悼碑
 麓に建立されているもので、「尼子勝久公四百年遠忌追悼碑」と刻まれ、当時の地元上月町長の謹書と記されている。


また裏書には
“尼子勝久後裔
 第31代当主 佐川英輝
     分家 佐川守利
     仝   尼子滝雄
         奉献
昭和47年4月建立 ”
と刻銘されている。   
 

 開城したこの日の朝、毛利方から派遣された検視の将たちが、用意された書院の間に待機していた。おそらくその場所は上月城の本丸ではなく、麓の場所であったと思われる。勝久は兜を脱ぎ、白装束に身を包んでいた。
そして、鹿助をはじめ、主だった家臣と最期の別れの盃をかわし、辞世の句を詠んだ。

「宝剣手に在り、殺活の時に臨む、これはこれ殺活自在の体、如何がこれ勝久末期の一句

すべて来る劃段(かくだん)千差の道 南北東西本郷に達す”」

 勝久の介錯は池田甚四郎が行い、その後自らも自刃し、続いて新宮党の一族といわれている氏久が続いた。

 勝久らの自害によって、正式な降伏が認められ、吉川元春・小早川隆景・口羽通良・宍戸隆家連署による起請文が鹿助に渡された。そして籠城者の大半に退城許可が下され、残兵は次々と下城していった。
 下城していった者たちに対し、鹿助はこれまで共につき従ってくれたことへの感謝と併せ、今後は尼子への忠義を捨て、各々自由に他の主君へ仕えてほしい旨を勧めたという。

鹿助の最期

上月城の敗戦処理を一通り終えた鹿助は、一時毛利方の作った仮屋に幽閉され、5日後の7月10日、備中に帰る毛利軍に警固されながら旅立った。鹿助を監視・警固したのは、粟屋彦右衛門・山縣三郎兵衛ら手勢500余騎である。
【写真左】山中鹿之助追頌之碑
 勝久の追悼碑の脇に鹿助の石碑が建立されている。








 一説では唐丸籠(とうまるかご)に入れられ護送されたというものあるが、播磨上月城から、後に移動した輝元の陣所・鞆の浦まで、その手段で運ぶのは現実的に無理があり、しかも唐丸籠が使用されたのは江戸期に入ってからというのが定説になっているので、これはあり得ないだろう。

 鹿助は上月城で大半の城兵と別れたが、それでも従者60余人が彼につき従ったという。彼は信長から拝領した四十里鹿毛という名馬に跨り、勝久から別れの品として受け取った尼子累代の名刀「荒身国行」を腰に差していたといわれている。そして鹿助らを取り囲むように粟屋彦右衛門らの手勢が囲んでいたとされる。

 ただ、馬に跨っていることは理解できるが、脇差をこの段階で未だ身に着けていたというのは理解できない。おそらく出立の段階でこれは毛利方に預けられたと思われる。

阿井の渡し場

 鹿助主従は備中の高梁川と成羽川が合流する「阿井の渡し場」までやってきた。当時高梁川は甲部川と呼ばれていたが、成羽川と合流する地点はもっとも川幅が広くなっている箇所である。吉川元春からの密命を受けていた天野中務少輔元明は、この渡し場で鹿助を殺害する計画を立てていたという。
【写真左】阿井の渡し場にある鹿助の供養塔












 すでに捕らわれの身になっていた鹿助を、この場所で殺害する動機が今一つはっきりしないが、かといって本国安芸まで連れて帰る必要性もなかったのだろう。渡し場にあらかじめ小舟一艘を用意し、先に鹿助の妻子や郎従を対岸へ渡した。

 鹿助は折り返し戻ってくる小舟を待つため、川岸で待機していた。すると、天野の家来で腕の立つことで知られた河村新左衛門が、突然鹿助の背後から切りつけた。鹿助は直ぐに応戦し二人は水の中で格闘となった。そのあと新左衛門に続いて、福間彦右衛門・三上淡路守等が加勢し、ついに鹿助は殺害された。天正6年(1578)7月17日のことである。享年34歳であった。
【写真左】阿井の渡し場付近
 高梁川と成羽川が合流する地点で、中央には大きな中洲が見える。

 写真にみえる川は高梁川で、右に向かうと成羽川との合流地点に至る。


鹿助の墓及び塚

 現在鹿助の墓及び塚といわれている箇所は次の通りである。

(1)観泉寺(高梁市)

 当院は阿井の渡し場から成羽川を少しさかのぼった同市落合町阿部にある。 ただ、先般(2012年3月20日)参拝した折、墓所付近は改修工事が行われており、明治35年に建立された墓が今どこにあるのか確認できなかった。

 鹿助の位牌は「幸盛院鹿山中的居士霊位」と記され、当院に安置されている。
【写真左】観泉寺
 この写真の左側に墓地があるが、そこに向かう付近の道路周辺は工事が行われていた。






【写真左】「山中鹿介胴墓」
 道路わきに設置されているが、鹿助の墓そのものを示すものは、しいて言えば左側にある小さな五輪塔ぐらいなものである。



 また、観泉寺とは別にこの寺に向かう途中の高梁病院手前の十字路に「山中鹿介胴墓」と記された説明板があり、その脇に石仏像や五輪塔などが集められたものがあったので、現在はこの箇所が墓とされているのかもしれない。

参考までに、現地にある説明板には次のように記されている。

“(中略) その首は、輝元のいる松山の本陣に送られ、遺骸は観泉寺珊牛(さんぎゅう)和尚の手により、赤羽根の「石田畑」に葬られていたものを、遺骨を再度掘り出し布片に包み、瓶に収めて埋葬し、墓碑を建立したものであります。(以下略)”

(2)鞆の浦の幸盛首塚(福山市)

 輝元が陣所を備中松山城から備後鞆の浦に移動し、鹿助妻子等もここまで連行されているので、首はこの鞆の浦で埋葬されたといわれている。

(3)阿井の渡しの塚(石碑)

 冒頭に示した写真だが、この石碑は鹿助が殺害されてから100年以上も経った江戸時代の正徳3年(1713)、当時の松山藩主石川主殿頭の家臣前田時棟が、同藩士佐々木郡六と建てたもので、供養塔である。

(4)幸盛寺の墓(鳥取県鹿野町)

 亀井茲矩が後に因幡鹿野に封ぜられたとき、当地に「幸盛寺」を建て、鹿助の墓も建立している。
【写真左】鳥取県鳥取市鹿野町の幸盛寺の鹿助の墓
 五輪塔形式のもので大型である。(2006年1月参詣)




     主だったものは上掲の通りだが、鹿助が殺害された後、首の処置については、これらとは全く違うものだったという伝承が残るものを次に紹介しておきたい。

    徳雲寺の鹿助首塚

     阿井の渡しを流れる成羽川をさかのぼり、新成羽ダムの貯水池をさらに越えると、備後国に入るが、ここからさらに成羽川を北上していくと、東城町(現庄原市)の国道314号線と、東側を走るJR芸備線に挟まれた山間部に徳雲寺という古刹がある。

    この寺の境内奥にひっそりと鹿助の首塚が安置されている。
    【写真左】徳雲寺
     備後南国33か所・観音霊場22番地
     勅使門という入口から本堂まで広大な面積を誇り、手前には庭園が整備され周囲には椛などが植わっている。
     

     阿井の渡し場で殺害された鹿助の胴が、地元高梁市の観泉寺に埋葬されたことは事実と思われるが、首実検を終えた後、何らかの経緯で尼子方、もしくは鹿助に縁のある者がそれを手に入れたのだろう。

     徳雲寺をさらに北上し、高野に向かえばやがて備後と出雲の国境である王貫峠に至る。鹿助に随従していた家臣が、鹿助の故郷である出雲月山まで持ち帰り供養しようとしたが、力尽き果てたか、あるいは熱い夏の時期であるため、生首の状態が悪くなり、この寺に埋葬することになったのかもしれない。
    【写真左】山中鹿助首塚
     本堂奥の斜面に安置されている。
     形、大きさとも小ぶりなもので、敢えて目立たないようにしていたのではないかとも思える。


     右側の墓地には当院歴代住職の墓が並んでいる。


     ところで、この徳雲寺は室町期の文安から長禄年間(1446~57)にかけて、当地を支配した宮政盛によって建立されている。

     戦国期には尼子氏に属していたが、天文3年(1534)に毛利元就によって攻略され、以降毛利氏の家臣となった。おそらく、徳雲寺に埋葬された背景には、毛利氏に対しては、面従腹背であったといわれる宮氏の意向もあったのかもしれない。

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