2012年3月6日火曜日

但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)

但馬・朝倉城(たじま・あさくらじょう)

●所在地 兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山
●築城期 鎌倉時代か
●築城者 朝倉氏か
●高さ 150m(比高100m)
●遺構 郭・土塁・堀切など
●指定 養父市指定史跡
●登城日 2011年8月7日

◆解説
 前稿「鶴城」の麓を流れる円山川をさかのぼり、西方から流れてくる支流・八木川の南岸朝倉の地区に所在した山城である。
【写真左】但馬・朝倉城遠望
 北側から見たもので、写真中央の高い位置が本丸になる。


 登城したのが夏だったこともあり、周辺の樹木が生い茂り、探訪するにはいい時期ではなかった。


 当地は、以前紹介した越前の一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)の領主・朝倉氏の発祥の地といわれている。

現地の説明板より

“越前の大名朝倉氏発祥の地
町指定文化財 朝倉城跡 昭和43年7月31日指定
町指定文化財 宝篋印塔 昭和43年7月31日指定


 八鹿町朝倉は福井市の一乗谷で栄えた大名、朝倉氏の発祥の地である。朝倉氏は孝徳天皇の皇子、表米(ひょうまい)親王を始まりとする。平安時代末期に地名を苗字として朝倉氏が興り、朝倉高清を初代とした。その中から八木氏、宿南氏、奈佐氏などの多くの武将を輩出した。
【写真左】登城口付近
 北麓付近に集落があり、道は大変に狭い。正式な駐車場らしきものはなかったので、この写真左にあった社の境内に停めた。





 朝倉城は、集落の南西の丘陵にあり、東西130m、南北110mの規模を持つ。室町期に作られた城郭を堀切や竪堀で戦国期に改修して守りを固めている。
 
 宝篋印塔はお経をおさめた供養塔である。高さは230cmあり、塔身の月輪内には金剛界四仏の梵字を刻む。室町期の15世紀ごろの造立と推定されている。
【写真左】宝篋印塔
 指定文化財となっている宝篋印塔で、登城口の脇に建立されている。
 劣化は少なく保存状態はいいようだ。




 トゲがなく味香りが優れている朝倉山椒の原産地である。出石藩から将軍徳川秀忠公に献上されたほか、朝倉義景公にも献上された。朝倉という集落名が、様々な由緒を育みながら歴史と伝統の重みを現代に伝えている。


 平成13年5月
 朝倉城跡保存会・八鹿町教育委員会”
【写真左】登城道
 東側から南側へ回り込むコースとなっており、管理もされ踏み跡もあることから、結構登っているようだ。






但馬・朝倉氏

 但馬・朝倉氏の出自については、説明板にもあるように、「朝倉氏は孝徳天皇の皇子、表米(ひょうまい)親王を始まり」、としているが、別説では開化天皇(紀元前208~98)の孫・狭穂彦王に始まる但馬国造の日下部君の後裔ともいわれている。もっとも、あまりにも古い伝承なので真偽のほどは分からない。

ただ、この日下部氏は、その後下って庶流に前稿でも紹介した「太田垣氏」「八木氏」そして、本稿の「朝倉氏」を輩出したことは確かである。
【写真左】本丸直下
 当城の規模はさほど大きなものでなく、また縄張りも単純な構成となっている。


 中央部に本丸を置き、周囲に帯郭が取り巻くという構図だが、西側にかけては3,4段の腰郭が残る。


 一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)の稿でも記したように、南北朝時代養父郡で勢威を張っていた豪族朝倉氏は、主家であった斯波高経に従って越前に入国したのが移住のきっかけと思われる。

 その際、朝倉家一族挙げて越前に入ったわけではなく、地元但馬に一部は残ったと考えられる。
【写真左】本丸
 若干の段差はあるものの、ほとんど平坦な仕上げで、東西2,30m、南北10m前後か。
【写真左】土塁跡
 草が繁茂しているため、分かりづらいが東方の帯郭の一角に残る。
 全体に当城は東方の防御に意を用いているようだ。


【写真左】北西側の帯郭から東方を見る。
 本丸下の帯郭は西側の奥行が長く、北に向かって次第に細くなり、最少3m前後となるが、そのまま東側に向かうと再び奥行が伸びる。


 写真右の奥に向かうと、日下部氏庶流・山名四天王の一人といわれた八木氏の八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)につながる。

 中央を流れる川は八木川で、国道9号線が並行して走る。
【写真左】本丸から西方を見る。
 手前の山と向の山の間を過ぎると、八木川は主流円山川と合流していく。


 なお、この付近には朝倉城の出城といわれる「朝倉比丘尼城」や「朝倉向山城」などがある。これにらについては、『城郭放浪記』氏がすでに登城して紹介しているのでご覧いただきたい。
【写真左】奥の院観音堂
 朝倉城の脇を通って南に向かうと、十二所という地区に出るが、その途中の山中に忽然とこの堂が建っている。

 ここから約700mほど九十九折を下ったところにある新宮山本浄院満福寺の奥の院で、観音堂の脇には熊野権現が祀られている。

 中世の八木氏、太田垣氏の一族が熊野信仰の信仰者であったという。


 また、戦国末期までは14もの坊があったというから、相当な規模の修験道場だったと思われる。


本院の境内も大変に見事な造りで、秋になると見事な紅葉となるだろう。

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