児島高徳の墓(こじまたかのりのはか)
●所在地 兵庫県赤穂市坂越
●参拝日 2011年10月25日
◆解説(参考資料『サイト「城郭放浪記」』等)
児島高徳
児島高徳については、これまで美作の院庄館(岡山県津山市院庄)で取り上げているが、今稿は全国に複数あるといわれる彼の墓のうち、播磨赤穂坂越にある「児島高徳公墳墓」を取り挙げる。
【写真左】児島高徳墓地・その1
ところで、高徳については、今ではそもそも実在していなかったという説や、彼の存在を示す史料としては『太平記』のみに登場する武将であるため、架空の人物であり、また実在したとすれば、『太平記』の著者といわれている小島法師自身ではないか、ともいわれている。
このこともあって、現代の体系的にまとまれられる史学上の文献などには、児島高徳を全く掲載していないものもある。
そうした存在の有無を論じる知見など到底管理人は持ち合わせていないが、しかし、当地に彼を祀った史跡などがあること自体が、歴史のひとコマともいえるのではないかと思われるので紹介しておきたい。
【写真左】「さこし歴史と自然の森」案内図
このあたり一帯は、史跡と自然を一体化した「里山ふれあい森づくり」という事業が行われ、高徳の墓をはじめ、宝珠山・茶臼山(山城)・大避神社・妙見寺などが紹介されている。
さて、児島高徳が祀られている赤穂市の坂越は往古より栄えた湊町で、少なくない史跡が点在している。高徳に直接関係しないものもあるかもしれないが、併せて紹介しておきたい。
現地の説明板より
“坂越浦船岡園
児島高徳卿 墓所ご案内
備後三郎児島高徳は、備前(岡山)児島字林、五流尊龍院四世頼宴大僧正の三男に、正和元年(1312)誕生しました。
約650年の昔、後醍醐天皇は、鎌倉幕府に捕えられて隠岐の島へ配流されました。天皇を救出しようと、児島高徳と和田範長の一行は後を追い、「院の庄」でようやく合流、暗夜にまぎれて高徳一人が行在所に忍び込み、桜の幹に「十字の詩」を下記残し、傷心の天皇を慰め勇気づけました。
【写真左】児島高徳墓地・その2
中央の五輪塔形式の墓石が高徳の墓で、「児島高徳卿墓」と命名されている。
この場所の上には「白勢稲荷」があり、その東側に下段に示す「妙見寺」がある。
ここから少し下がると、忠魂碑があり、さらに下ると現在「展望広場」とされている公園があるが、これは次稿で予定している「坂越浦城」跡である。
『天莫空勾践時非無氾蠡』(天コウセンを空うすること勿れ、時にハンレイ無きにしも非ず)
建武の中興(1338)以後、備前(岡山)熊山城の野戦で高徳は落馬、重傷となりました。一行は東方に陣する官軍に合流しようと坂越浦に到着、高徳は妙見寺で養生し、回復のあと、四国、淡路方面の豪族たちを味方につけ、上洛軍を導く作戦に出陣しましたが、正平20年(1365)5月13日、坂越浦で54歳の生涯を閉じました。
【写真左】遥拝所
高徳の550年祭にあたる大正3年(1914)、墓地周辺を開拓し「船岡園」と名付けたとされる。船岡とは、吉野南朝にあったとされる吉野山から命名されたという。
したがって、この方向は大和吉野の船岡神社に向かって遥拝する角度になる。
●明治天皇は、南朝の忠臣児島高徳卿に従三位の位階を追贈されました。
●大正3年(1914)5月13日、坂越浦の旧家奥藤謹治氏を会長とする児島贈従三位旧跡保存会により、船岡園を設置し、墓前祭を執り行っています。
平成20年5月 児島高徳卿 顕彰会”
上記説明板にある備前「熊山城」とは、現在の岡山県赤磐市奥吉原の熊山神社境内がその場所といわれ、管理人は登城していないが、『城郭放浪記』氏がすでに登城・紹介しているのでご覧いただきたい。
◎関連投稿(追記)
熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)
現地には児島高徳が当地で挙兵した際、腰かけたといわれる腰掛岩や、我国ではほとんど見られない珍しい形の「石積遺跡」などがある。中世山城としての価値もあるようだが、なぞの多い遺構が多く点在している。
【写真左】坂越の港から播磨灘を望む
写真右の突出した所の反対側は千種川河口で赤穂港になる。また坂越湾の東は相生湾が隣接する。
写真中央の霞んだ島は、西島や家島。
説明板に書かれている高徳が没したとされる正平20年(貞治4年)(1365)の状況は、室町幕府内部も混乱を来しているころで、そうした浮足立ったところを南朝方として攻め入ろうとしたのだろう。
足利義詮の時代は、南朝方のとの抗争よりも、むしろ足元の幕府内部の対立が激しく、貞治元年(1362)7月に幕府の最高権力者となった斯波高経は、わずか13歳の嫡男・義将(よしまさ)を執事(管領)とさせ、もう一人の雄・佐々木道誉と妥協を図った。
【写真左】大避神社
瀬戸内海三大船祭の一つとされている重要有形民俗文化財「坂越船祭り祭礼用和船六艘及び船倉一棟」が所有されている。
しかし、その高経はわずか3年で失脚、義詮は越前に奔った高経・義将を山名氏冬・佐々木氏頼・土岐頼康らに追討を命じた。貞治5年(1366)8月8日のことである。
これらの動きの背後には、常に佐々木道誉が絡んでいたとされ、当時の政界の黒幕とされている。
小倉御前の墓
坂越の町の路地裏奥には、児島高徳とは別に南北朝時代の後亀山天皇の皇子(みこ)小倉宮の墓と伝えられているところがある。
【写真左】小倉御前の案内標識
坂越の町の通りに設置されているが、歩いていないとわかりにくいかもしれない。この写真の左側路地を入っていく。
現地の説明板より
“小倉御前(おぐらごぜん)の墓
この五輪塔は、南北朝時代の後亀山天皇の皇子・小倉宮の墓と言い伝えられています。皇子は、京都嵯峨の小倉山に住み、人々に小倉宮と慕われていましたが、将軍家との争いのために坂越に逃れて隠れ住みました。しかし、争いに負けたことを知った小倉宮は、坂越浦に身を投げて亡くなったと伝えられています。
その場所を御前岩といい、船祭りの日にお供えをして供養をしています。”
【写真左】小倉御前の墓
五輪塔形式のもの5,6基が祀られている。場所は一般の民家の後ろにある崖との間にあるため、目立たない場所となっている。
当時は海を前にした位置だったのだろうが、家が建ち始めてしまったため、このような場所となっている。
周りの墓石は妻子や近臣の者たちのものだろうか。
小倉宮の父・後亀山天皇は南北朝時代の南朝方として最期の天皇で、その子が小倉御前といわれている。本名は、小倉宮恒敦(つねあつ)という。
説明板にある「将軍家との争い」とは、南朝方の父・後亀山天皇を最後として、南北朝合一が図れるが、その際、北朝方と南朝方の天皇のいずれを皇位継承とするかとするもので、恒敦(小倉御前)は父に従わず、吉野で抵抗を続けたとされている。したがって、史料によっては小倉御前の死去した地は吉野とされているものもある。
妙見寺観音堂
上掲した妙見寺には現在赤穂市の指定有形文化財となっている観音堂がある。
【写真左】妙見寺観音堂
現地の説明板より
“赤穂市指定有形文化財 指定番号28
妙見寺観音堂
所在地 赤穂市坂越1307番地の1
所有者 宗教法人 妙見寺
指定日 平成9年3月31日
宝珠山妙見寺は、天平勝宝(749~757)ごろに行基によって創建され、大同年中(806~810)の空海の再興を経て、盛時には16坊5庵を抱えた大山岳寺院であったといわれている。
観音堂は、万治2年(1659)に、妙見寺の奥ノ院として宝珠山上に建立されたが、後に大破したため享保7年(1722)に現在地に再建されたものである。
【写真左】観音堂周辺の墓地
この墓地を下っていくと、児島高徳の墓につながる。
建物は、桁行3間、梁行3間(約7m四方)の本瓦葺きで、山のの斜面にもたれ掛けるように造られた懸造り形式の構造になっており、坂越湾の絶景が望めるようになっている。
また、桁を支える蟇股(かえるまた)には十二支が彫り込まれており、細部にわたって意匠が凝らされている。
昭和55年には老朽化のため、一部修復されているが、こうした懸造り形式の建物は、近世社寺のなかでは全国的にも例が少なく、建造物として非常に価値の高いものである。
赤穂市教育委員会”
◆解説(参考資料『サイト「城郭放浪記」』等)
児島高徳
児島高徳については、これまで美作の院庄館(岡山県津山市院庄)で取り上げているが、今稿は全国に複数あるといわれる彼の墓のうち、播磨赤穂坂越にある「児島高徳公墳墓」を取り挙げる。
【写真左】児島高徳墓地・その1
ところで、高徳については、今ではそもそも実在していなかったという説や、彼の存在を示す史料としては『太平記』のみに登場する武将であるため、架空の人物であり、また実在したとすれば、『太平記』の著者といわれている小島法師自身ではないか、ともいわれている。
このこともあって、現代の体系的にまとまれられる史学上の文献などには、児島高徳を全く掲載していないものもある。
そうした存在の有無を論じる知見など到底管理人は持ち合わせていないが、しかし、当地に彼を祀った史跡などがあること自体が、歴史のひとコマともいえるのではないかと思われるので紹介しておきたい。
【写真左】「さこし歴史と自然の森」案内図
このあたり一帯は、史跡と自然を一体化した「里山ふれあい森づくり」という事業が行われ、高徳の墓をはじめ、宝珠山・茶臼山(山城)・大避神社・妙見寺などが紹介されている。
さて、児島高徳が祀られている赤穂市の坂越は往古より栄えた湊町で、少なくない史跡が点在している。高徳に直接関係しないものもあるかもしれないが、併せて紹介しておきたい。
現地の説明板より
“坂越浦船岡園
児島高徳卿 墓所ご案内
備後三郎児島高徳は、備前(岡山)児島字林、五流尊龍院四世頼宴大僧正の三男に、正和元年(1312)誕生しました。
約650年の昔、後醍醐天皇は、鎌倉幕府に捕えられて隠岐の島へ配流されました。天皇を救出しようと、児島高徳と和田範長の一行は後を追い、「院の庄」でようやく合流、暗夜にまぎれて高徳一人が行在所に忍び込み、桜の幹に「十字の詩」を下記残し、傷心の天皇を慰め勇気づけました。
【写真左】児島高徳墓地・その2
中央の五輪塔形式の墓石が高徳の墓で、「児島高徳卿墓」と命名されている。
この場所の上には「白勢稲荷」があり、その東側に下段に示す「妙見寺」がある。
ここから少し下がると、忠魂碑があり、さらに下ると現在「展望広場」とされている公園があるが、これは次稿で予定している「坂越浦城」跡である。
『天莫空勾践時非無氾蠡』(天コウセンを空うすること勿れ、時にハンレイ無きにしも非ず)
建武の中興(1338)以後、備前(岡山)熊山城の野戦で高徳は落馬、重傷となりました。一行は東方に陣する官軍に合流しようと坂越浦に到着、高徳は妙見寺で養生し、回復のあと、四国、淡路方面の豪族たちを味方につけ、上洛軍を導く作戦に出陣しましたが、正平20年(1365)5月13日、坂越浦で54歳の生涯を閉じました。
【写真左】遥拝所
高徳の550年祭にあたる大正3年(1914)、墓地周辺を開拓し「船岡園」と名付けたとされる。船岡とは、吉野南朝にあったとされる吉野山から命名されたという。
したがって、この方向は大和吉野の船岡神社に向かって遥拝する角度になる。
●明治天皇は、南朝の忠臣児島高徳卿に従三位の位階を追贈されました。
●大正3年(1914)5月13日、坂越浦の旧家奥藤謹治氏を会長とする児島贈従三位旧跡保存会により、船岡園を設置し、墓前祭を執り行っています。
平成20年5月 児島高徳卿 顕彰会”
上記説明板にある備前「熊山城」とは、現在の岡山県赤磐市奥吉原の熊山神社境内がその場所といわれ、管理人は登城していないが、『城郭放浪記』氏がすでに登城・紹介しているのでご覧いただきたい。
◎関連投稿(追記)
熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)
現地には児島高徳が当地で挙兵した際、腰かけたといわれる腰掛岩や、我国ではほとんど見られない珍しい形の「石積遺跡」などがある。中世山城としての価値もあるようだが、なぞの多い遺構が多く点在している。
【写真左】坂越の港から播磨灘を望む
写真右の突出した所の反対側は千種川河口で赤穂港になる。また坂越湾の東は相生湾が隣接する。
写真中央の霞んだ島は、西島や家島。
説明板に書かれている高徳が没したとされる正平20年(貞治4年)(1365)の状況は、室町幕府内部も混乱を来しているころで、そうした浮足立ったところを南朝方として攻め入ろうとしたのだろう。
足利義詮の時代は、南朝方のとの抗争よりも、むしろ足元の幕府内部の対立が激しく、貞治元年(1362)7月に幕府の最高権力者となった斯波高経は、わずか13歳の嫡男・義将(よしまさ)を執事(管領)とさせ、もう一人の雄・佐々木道誉と妥協を図った。
【写真左】大避神社
瀬戸内海三大船祭の一つとされている重要有形民俗文化財「坂越船祭り祭礼用和船六艘及び船倉一棟」が所有されている。
しかし、その高経はわずか3年で失脚、義詮は越前に奔った高経・義将を山名氏冬・佐々木氏頼・土岐頼康らに追討を命じた。貞治5年(1366)8月8日のことである。
これらの動きの背後には、常に佐々木道誉が絡んでいたとされ、当時の政界の黒幕とされている。
小倉御前の墓
坂越の町の路地裏奥には、児島高徳とは別に南北朝時代の後亀山天皇の皇子(みこ)小倉宮の墓と伝えられているところがある。
【写真左】小倉御前の案内標識
坂越の町の通りに設置されているが、歩いていないとわかりにくいかもしれない。この写真の左側路地を入っていく。
現地の説明板より
“小倉御前(おぐらごぜん)の墓
この五輪塔は、南北朝時代の後亀山天皇の皇子・小倉宮の墓と言い伝えられています。皇子は、京都嵯峨の小倉山に住み、人々に小倉宮と慕われていましたが、将軍家との争いのために坂越に逃れて隠れ住みました。しかし、争いに負けたことを知った小倉宮は、坂越浦に身を投げて亡くなったと伝えられています。
その場所を御前岩といい、船祭りの日にお供えをして供養をしています。”
【写真左】小倉御前の墓
五輪塔形式のもの5,6基が祀られている。場所は一般の民家の後ろにある崖との間にあるため、目立たない場所となっている。
当時は海を前にした位置だったのだろうが、家が建ち始めてしまったため、このような場所となっている。
周りの墓石は妻子や近臣の者たちのものだろうか。
小倉宮の父・後亀山天皇は南北朝時代の南朝方として最期の天皇で、その子が小倉御前といわれている。本名は、小倉宮恒敦(つねあつ)という。
説明板にある「将軍家との争い」とは、南朝方の父・後亀山天皇を最後として、南北朝合一が図れるが、その際、北朝方と南朝方の天皇のいずれを皇位継承とするかとするもので、恒敦(小倉御前)は父に従わず、吉野で抵抗を続けたとされている。したがって、史料によっては小倉御前の死去した地は吉野とされているものもある。
妙見寺観音堂
上掲した妙見寺には現在赤穂市の指定有形文化財となっている観音堂がある。
【写真左】妙見寺観音堂
現地の説明板より
“赤穂市指定有形文化財 指定番号28
妙見寺観音堂
所在地 赤穂市坂越1307番地の1
所有者 宗教法人 妙見寺
指定日 平成9年3月31日
宝珠山妙見寺は、天平勝宝(749~757)ごろに行基によって創建され、大同年中(806~810)の空海の再興を経て、盛時には16坊5庵を抱えた大山岳寺院であったといわれている。
観音堂は、万治2年(1659)に、妙見寺の奥ノ院として宝珠山上に建立されたが、後に大破したため享保7年(1722)に現在地に再建されたものである。
【写真左】観音堂周辺の墓地
この墓地を下っていくと、児島高徳の墓につながる。
建物は、桁行3間、梁行3間(約7m四方)の本瓦葺きで、山のの斜面にもたれ掛けるように造られた懸造り形式の構造になっており、坂越湾の絶景が望めるようになっている。
また、桁を支える蟇股(かえるまた)には十二支が彫り込まれており、細部にわたって意匠が凝らされている。
昭和55年には老朽化のため、一部修復されているが、こうした懸造り形式の建物は、近世社寺のなかでは全国的にも例が少なく、建造物として非常に価値の高いものである。
赤穂市教育委員会”
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