坂越浦城(さこしうらじょう)
●所在地 兵庫県赤穂市坂越
●築城期 室町時代
●築城者 山名氏
●高さ 不明(50m前後か)
●城主 山名氏・赤松下野守村秀
●形態 海城
◆解説(参考資料「サイト:帝國博物学協会 播磨國」等)
前稿「児島高徳の墓」が所在する位置から少し下がった所に築かれた海城である。
【写真左】坂越浦城・その1
現地の説明板より
“坂越浦城跡・御番所跡
坂越浦城は、「坂越浦砦」または「坂越城」とも呼ばれ、室町時代に播磨地方を支配していた山名氏が築いたといわれています。
その後、龍野城主である「赤松下野守村秀」の通城(かよいじろ)となり、坂越を支配したといわれています。
江戸時代には、この展望台の前の小高い場所に赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていました。”
【写真左】坂越浦城・その2
築山があるが、遺構ではないだろう。
【写真左】坂越浦城から北方の山並みを見る。
ここから北にウォーキングコースをたどると、茶臼山(城)・五輪塔などがあり、さらに稜線を東に進むと宝珠山などへつながる。
この日は、時間もなく麓の当城しか訪れていないが、「城郭放浪記」氏が茶臼山城を登城・紹介されているのでご覧いただきたい。
城主・赤松氏
坂越浦城については詳細な史料を持ち合わせていていないが、築城者とされる山名氏と、その後赤松氏に移ったとする動きは、両氏の盛衰変遷と重なる。
説明板にある赤松村秀は、出自に諸説あるものの、父を赤松政則とすれば、遡って祖父は赤松時勝で、以下義雅→義則→則祐→則村、すなわち円心にたどり着く。
現地は完全に公園化されているため、遺構はほとんど確認できない。しかし、この高台から坂越港・播磨灘を俯瞰すると、中世から多くの船が行きかい、戦略的にも航路の要所であったことが想像される。
【写真左】坂越浦城から播磨灘を見る。
この写真の左に少し見えているのが「生島(いきしま」といわれ、天然記念物とされている原生林が残る。
城下の町は、旧庄屋や、入母屋の大屋根を持つ造り酒屋・酒造の白壁などが残り、明治初期までの建物も多い。
●所在地 兵庫県赤穂市坂越
●築城期 室町時代
●築城者 山名氏
●高さ 不明(50m前後か)
●城主 山名氏・赤松下野守村秀
●形態 海城
◆解説(参考資料「サイト:帝國博物学協会 播磨國」等)
前稿「児島高徳の墓」が所在する位置から少し下がった所に築かれた海城である。
【写真左】坂越浦城・その1
現地の説明板より
“坂越浦城跡・御番所跡
坂越浦城は、「坂越浦砦」または「坂越城」とも呼ばれ、室町時代に播磨地方を支配していた山名氏が築いたといわれています。
その後、龍野城主である「赤松下野守村秀」の通城(かよいじろ)となり、坂越を支配したといわれています。
江戸時代には、この展望台の前の小高い場所に赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていました。”
【写真左】坂越浦城・その2
築山があるが、遺構ではないだろう。
【写真左】坂越浦城から北方の山並みを見る。
ここから北にウォーキングコースをたどると、茶臼山(城)・五輪塔などがあり、さらに稜線を東に進むと宝珠山などへつながる。
この日は、時間もなく麓の当城しか訪れていないが、「城郭放浪記」氏が茶臼山城を登城・紹介されているのでご覧いただきたい。
城主・赤松氏
坂越浦城については詳細な史料を持ち合わせていていないが、築城者とされる山名氏と、その後赤松氏に移ったとする動きは、両氏の盛衰変遷と重なる。
説明板にある赤松村秀は、出自に諸説あるものの、父を赤松政則とすれば、遡って祖父は赤松時勝で、以下義雅→義則→則祐→則村、すなわち円心にたどり着く。
現地は完全に公園化されているため、遺構はほとんど確認できない。しかし、この高台から坂越港・播磨灘を俯瞰すると、中世から多くの船が行きかい、戦略的にも航路の要所であったことが想像される。
【写真左】坂越浦城から播磨灘を見る。
この写真の左に少し見えているのが「生島(いきしま」といわれ、天然記念物とされている原生林が残る。
城下の町は、旧庄屋や、入母屋の大屋根を持つ造り酒屋・酒造の白壁などが残り、明治初期までの建物も多い。
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