2011年7月21日木曜日

尾首城(広島県世羅郡世羅町伊尾字宮の沖)

尾首城(おくびじょう)

●所在地 広島県世羅郡世羅町伊尾字宮の沖
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 湯浅越中守将宗・元勝
●高さ 標高280m/比高20m
●遺構 郭
●登城日 2010年11月26日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 尾首城は、広島県の旧甲山町にあった山城(丘城)で、国道432号線沿いのJR福塩線・備後三川駅から西方500m余りの位置に所在する。

【写真左】尾首城近景
 南西側からみたもので、『日本城郭大系第13巻』では、この小山を城郭としているが、余りにも規模が小さく、下段に示すこの山の右に繋がる丘陵部にむしろ城郭があったのではないかと思える。

 写真手前の広場は近接する「井原八幡宮」用の駐車場のようだ。


 築城期・築城者など詳細な記録はないが、城主が湯浅越中守将宗(一説に元勝)とあり、毛利氏の部将として文禄年間(1592~95)まで在城し、のちに長門に移ったとあるので、湯浅越中守は戦国末期の城主だったと思われる。

 なお、文禄年間後、長門に移ったという記録と、広島城築城に伴って広島に出た、という記録の二つがあり、どちらが事実か分からない。

 また、尾首城からさらに国道432号線を2キロほど南下したところに、鳳林寺という寺院があり、そこには、尾首城の城主であったとされる石塔群がある(下段参照)。
【写真左】井原八幡宮前広場と後背の山
 写真右に見える建物は、井原八幡宮の社務所(神楽殿か)で、尾首城はこの写真の左側になる。



備後・湯浅氏

出典は不明ならが、この湯浅氏の系譜が次のように記録されている。
  • 雅楽助
  • 元宗(美濃守)
  • 将宗(越中守)
  • 九右衛門
  • 就宗(権兵衛)
 また、湯浅氏は元々備後の国人領主で守護山名氏の下知に従っていたが、その後大内氏へ、そして毛利氏へと臣従していったという。
【写真左】井原八幡宮本殿
 尾首城から右(東)に伸びる丘陵の南面に建立されている。
 社伝では、康保元年(964)の創建で、暦応2年(1339)の再建。
 木造狛犬(県重文・室町時代)、太鼓(町重文・文和3年(1354)のほか、室町時代の棟札等を伝えている、とある。
【写真左】尾首城の反対側丘陵の末端部
 写真では独立した小丘陵にみえるが、実際には南東部から伸びた長い丘陵の末端部である。
 下段の写真はその左側部
【写真左】丘陵部の中央部
 この写真には見えないが、すぐ左に井原八幡宮の本殿が設置されている。
【写真左】堀切か
 左側が尾首城主郭側とされている小山で、右が上段で紹介した丘陵部

 この写真はその両側を分断するような間道で、堀切跡にも見える。
【写真左】間道(堀切)側から先端部の尾首城本丸を見る。
 写真では分かりにくいが、下段に郭のような壇跡を見ることができる。
【写真左】丘陵側中央部
 近年人工的に改変された跡があり、城郭としての明確な遺構は認めがたいが、この辺りも当時城砦施設があったものと思われる。


追記
 湯浅氏の墓・鳳林寺


●所在地 広島県世羅郡世羅町大字伊尾597
●探訪日 2011年10月2日
【写真左】鳳林寺
 墓はこの写真の左側にある。











 尾首城主であった湯浅氏の墓が祀られている鳳林寺を訪ねた。

 鳳林寺は、尾首城から国道432号線を2キロ程南下したところにある。
 墓は、境内下の駐車場の左(南)側の少し高い所にある。

現地の説明板より

“湯浅氏の墓
 尾首城主湯浅氏歴代の墓として、芸藩通志に記されており、室町期から末期にかけてのものである。
 湯浅氏は、室町時代のころ尾首城を築き、毛利氏の武将として活躍した。なお、付近にとびが丸城主下見氏の墓がある。
 世羅町”
【写真左】湯浅氏の墓・その1
 宝篋印塔のものと、五輪塔型式のものが混在しているが、整然と並んでいる。

【写真左】湯浅氏の墓・その2
 五輪塔形式のもの





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