2011年7月20日水曜日

鎮海山城(広島県竹原市竹原町貞光)

鎮海山城(ちんかいさんじょう)

●所在地 広島県竹原市竹原町貞光
●築城期 天正13年(1585)
●築城者 能島村上武吉
●形態 水軍城
●遺構 郭
●高さ 標高・比高93m
●指定 竹原市指定史跡
●登城日 2010年6月20日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 広島県竹原市の山城としては、以前取り上げた「木村城」(2010年5月12日投稿)があるが、鎮海山城は比較的新しく安土桃山時代に築かれた海城(水軍城)である。
【写真左】鎮海山城遠望
 南西麓からみたもの。











 竹原市は南に瀬戸内海を望み、大崎上島を中心に、東には大三島を、西には以前取り上げた丸屋城(広島県呉市下蒲刈町三ノ瀬)のある芸予諸島とも近い。このため、瀬戸内の各地区を支配してた海賊衆・水軍などとも交流があった。

 竹原市の市街地のうち、南西部は「ひょうたん開」といわれた江戸時代の干拓地(干陸地)であったことから、東方に築城された鎮海山城は当然海城・水軍城であった。
【写真左】登城口付近
 麓の街並み路地はせまいため、近くに「郷賢祠(きょうけんし)」という地元の賢人を祀った広場があり、そこに駐車スペースがある。


  現地の説明板より

“竹原市史跡「能島村上氏の遺跡」 指定 平成4年12月24日
 鎮海山城跡 1カ所 村上元吉宝篋印塔1基 及び戦死者五輪塔9基

市史跡『鎮海山城跡』

 鎮海山城跡=三島村上水軍の総大将・村上武吉・元吉父子が天正13年9月(1585)、豊臣秀吉に能島を追われ、小早川隆景領の竹原へ移り、鎮海山城を築き、拠点とする。

 天正15年(1585)筑前名島へ移動し、その後豊前蓑島へ移る。
 文禄元年(1592)長州大津郡へ移動。慶長2年(1597)竹原鎮海山城に帰る。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いには、水軍を率いて伊予三津ヶ浜に出陣し、元吉は戦死、村上水軍は敗退して竹原へ逃れ帰る。
【写真左】ピークを過ぎた登城路
 登山コースは西側から北の方に向かって登り、一旦鞍部があり、北に向かうと「里山ハイキングコース:バンブー公園」方面に向かう。

 鎮海山城本丸へ向かうには、上記と反対の尾根を南に向かう。
 写真は、その分岐点近くの位置。

 慶長6年(1601)毛利氏の防長への移動に従って竹原を退去し、周防屋代島に移動するまでの約6年間の能島村上氏の拠点であった山城。

 城郭は、市街地に突き出た小丘上にあり、かつては深い湾に突き出た岬にあったと考えられる。郭は標高88.1mの本丸を中心に約10段ほど北西に一列に並び、南西に海に突き出るような形で郭が張り出している。
 郭はいずれも削平した痕跡程度で明確ではない。

 本丸には、石組が約3m×4.5mあり、以前そこに城山神社が祀られていたと伝えられている。墓=城跡の北西に城主村上元吉の宝篋印塔が1基と、その西側に戦死者の墓と伝えられる五輪塔9基が並ぶ。
  竹原市教育委員会”
【写真左】本丸下から見た切崖
 全体に竹林が続くコースで、標高が高くないものの、天険の要害個所が多い。
 竹が繁茂しているため、崩落を防いでいるのかもしれない。


村上武吉

 築城者である村上武吉は、毛利元就から始まって、隆元・小早川隆景・毛利輝元と歴代毛利氏に仕えた能島村上水軍能島城・その1(愛媛県今治市宮窪町・能島)参照)の領主である。

 元々村上氏の出自は、清和源氏または村上源氏の流れといわれ、平安末期から伊予の河野氏と瀬戸内の制海権を競った。

 南北朝期、南朝方であった北畠顕家の子が村上家に養子として入り、村上師清と名乗ったのが、のちの三島(能島・来島・因島)村上氏の祖といわれているが定かではない。村上武吉の父・村上義忠は、このうち能島村上水軍の当主である。

 以前にも紹介した石山本願寺籠城戦における「第1次木津川河口の戦い」で、村上水軍の活躍を述べたが、まさにこのときの中心人物が、村上武吉である。
【写真左】本丸
 史料によれば、本丸を中心に南北一列に9段の郭があったというが、踏査したときはすでに相当崩壊しているようで、この本丸付近の遺構(石垣の一部)が、かろうじて残っている。


 豊臣秀吉が四国の長宗我部を落とした時、能島村上氏は当地から強制的に離れる(領地替え)ことになった。移住してきた地がこの竹原である。

 結局、村上氏は竹原鎮海山城に天正13年(1585)入城してから、その間一時離れたとはいえ、慶長6年(1601)まで、約16年竹原を本拠とした。その後向かった周防屋代島というのは、現在の周防大島の中央部にある地区である。
【写真左】本丸から西麓に竹原の街並みを見る
【写真左】本丸から竹原港を見る。
 港の向うに見える島は、生野島・大崎上島など。
【写真左】能島村上元吉の墓
 本丸から降りは反対側のコースをとり、北側に向かった。このコースは急傾斜で、文字通り切崖である。
 しばらくすると、村上元吉、すなわち武吉の息子の墓所に出てくる。

 現地の説明板より

能島村上元吉の墓(市史跡)

 天正13年(1585)秀吉の四国平定後の領地替えで、三島村上氏(能島・来島・因島)の中で最強の能島村上水軍の武吉、元吉父子は、隆景領に移り、鎮海山城を本拠とした。

 慶長5年の関ヶ原の戦に西軍として主家の河野氏の旧領地奪回をめざして、東軍の加藤嘉明の松前城を攻め、伊予三津ヶ浜で戦死した。
 竹原市教育委員会”

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