三良坂・福山城(みらさか・ふくやまじょう)
●所在地 広島県三次市三良坂町灰塚
●築城期 戦国期
●築城者 湯谷又八郎久豊(元家)
●城主 湯谷又衛門実義
●高さ 標高300m/比高80m
●遺構 郭・土塁・井戸・堀切
●登城日 2010年11月26日
三良坂・福山城(以下「福山城」とする)は、合併して現在三次市となった三良坂町の「ハイヅカ湖」というダム湖の下流部灰塚地区に築城された小規模な山城である。
【写真左】三良坂・福山城遠望
ハイヅカ湖の北岸から見たもの。
このダム湖は最近できたもので、ダム湖ができる前は、横山城をぐるっと回るように上下川が大きく蛇行し、麓の周囲には10数軒の民家が建っていたようである。
ダム湖になったことから、写真にも見えるように周囲に道路ができ、この位置から登る比高となる。おそらく30m前後だろう。
湯谷(広沢田利)又八郎久豊
築城者は湯谷又八郎久豊といわれ、彼は吉舎町の南天山城主・和智誠春の弟である。
湯谷氏は広沢田利氏ともいわれ、鎌倉時代に広沢実村が所領であった三谷郡を、二人の息子(江田実綱と和智実成)に分割相続させたが、そのうち一部の所領を残して、広沢田利を継承したものとされている。
田利という地区は、現在の灰塚ダムの下流域になるが、広沢田利氏が当時支配していた地区は、さらに上流部を含めた三良坂の北東部であった。
戦国期に至って、田利氏は吉舎の和智氏と同盟を結ぶべく、誠春の弟・和智久豊を養子として迎え、湯谷(田利)又八郎久豊と称した。
ところで、南天山城については未投稿だが、和智氏は室町前期は備後守護職であった山名氏に属し、応仁の乱後、山口の大内氏(麾下・毛利氏)と山陰の尼子氏の間にあって、一時尼子氏に降ったが、その後毛利氏の台頭に合わせるように、同氏に属していった。
戦国期に至って、田利氏は吉舎の和智氏と同盟を結ぶべく、誠春の弟・和智久豊を養子として迎え、湯谷(田利)又八郎久豊と称した。
【写真上】ハイヅカ湖案内図
現地に設置されているものだが、横山城や萩原山城など史跡関係の表示はない。
上方が南、下方が北を示す。
左図に管理人によって、二城の位置を追記している。
横山城は、この図でいえば、「モミジ山」とされている個所で、萩原山城は、朱色で塗った個所になる。
なお、萩原山城の位置については最近分かったため、未登城であるが、おそらく標識などもないだろう。(次稿「萩原山城」参照)
南天山城・萩原山城・横山城
ダム建設後、横山城跡には写真にあるようなモミジがたくさん植えられ、「モミジ山」と命名されたようだ。
登城路は、その植林の際造られたような個所が西麓側に見える。ただ、最近はほとんど管理されていないようで、じっくりと見ないと登城路が消えかけている。
和智氏は北方の固めとして、最初に湯谷又八郎久豊に築かせたのが、横山城より上流2キロ余りにあった萩原山城(H380m)である。この場所は南東側から流れてくる上下川と、北東側から流れてくる総領川が合流する地点で、天然の水濠が配置された交通・軍事上の要地であった。
さらに、久豊は下流に萩原山城を補完する出城として築城したのが、今稿の横山城である。築城させた久豊は、当城を嫡男の又衛門実義に守らせた。
誠春・久豊誅殺と和智氏諸城の落城
永禄6年(1563)9月1日、毛利元就の長男・隆元が尼子氏攻めの途中、和智誠春の饗応を受けたあくる日、安芸佐々部で謎の死を遂げた。享年41歳。
嫡男隆元の死は、饗応した和智誠春・湯谷久豊兄弟による陰謀・毒殺によるものとの嫌疑がかけられ、同年12年(別説もある)厳島において幽閉され、殺害された。
【写真左】下の郭から本丸を見上げる
誠春・久豊兄弟が殺害されたことにより、吉田郡山城から、南天山城及び、久豊の本城であった萩原山城に対し、追討の兵が発せられた。
南天山城では、城代家老加板原佐渡守をはじめ重臣29名が、防戦することもなく自害。
萩原山城は城主を失ったこともあり、籠城する者もなく、出城であったこの福山城では、城主で久豊の嫡男であった実義らは、寄せ手が来る前に家臣28名とともに自害した。
南天山城では、城代家老加板原佐渡守をはじめ重臣29名が、防戦することもなく自害。
萩原山城は城主を失ったこともあり、籠城する者もなく、出城であったこの福山城では、城主で久豊の嫡男であった実義らは、寄せ手が来る前に家臣28名とともに自害した。
【写真左】本丸
規模は66m×22mと南北に長い。
間伐された跡のようで、整理されているが、現地には標識などなにも設置されていない。
【写真左】二の丸に繋がる犬走り
写真には撮っていないが、二の丸は北側を中心に設置され、東側のこの犬走り状のルートと連絡している。
【写真左】本丸南端部の堀切跡
横山城の南方には、大小3カ所の堀切があったようだが、現在その場所は道路が付設され、主だった部分が消滅している。
この写真はそのうち北端部に残った小規模な堀切跡と思われる。
【写真左】西麓からハイヅカ湖を見る
湖には写真にみえるような噴水設備が設置されている。
【写真左】田戸岬・その1
ダム湖ができたことによって新しくできた岬。
【写真左】田戸岬・その2
このシンボリックな構造物を含む広場には、「灰塚ダム建設対策同盟会解散総会」として、次のような宣言文が建立されている。
近世のダム開発事業によって、地元住民の苦悩の歴史が記されている。
“総会宣言
国土交通省による灰塚ダム定礎式が挙行される今日、われわれは組織解散を議決した。
思えば37年の長い歩みであった。
苦渋 苦闘の日々であった。
墳墓の地が消える悲憤の日々であった。
新たな住処(すみか)を求める不安と希望の日々でもあった。
このダム建設を容認した決断は、正しかったのか…
私達は、それぞれが自分にむかってずっと問い続ける。
新しい故郷(ふるさと)創りの厳しい営みの中に答えを探している。
下流の受益住民の表情と、行政の熱意に答えを求めている。
私達の子供たちと未来の孫たちの笑顔に答えがほしい。
私達は、37年間一度も組織分裂にみまわれることはなかった。
同盟会員一人ひとりの知性が、輝く栄光の歴史であった。
ここに万感の思いをこめて、栄光の歴史の閉幕を宣言する。
平成15年(2003)3月8日
灰塚ダム建設対策同盟会解散総会”
戦国の永禄年間、城主が毛利方に攻められ前に、家臣ともども自害したこの場所において、「無血開城」の現代版のような歴史があったわけである。
ダム建設によって失われるものと、得るものがある。失われるものは長い間営々と続いてきた歴史と文化だ。得るものは新たな歴史の創造である。そして、子や孫たちの笑顔にその答えを求めるという。
昨今、この国の施政者にこうした理念を持った哲学が本当にあるのだろうか。
37年もの間、苦闘・苦悩の日々をたどりながらも、分裂することもなく対応してきた地元民の方々に敬意を表したい。
総会宣言に言及をいただきありがとうございました。
返信削除地元住民より
拝復 此方こそ御笑覧いただきありがとうございます。
削除トミー拝