2012年6月8日金曜日

大利城(広島県北広島町大利原雲月小学校裏)

大利城(おおとしじょう)

●所在地 広島県北広島町大利原雲月小学校裏
●築城期 南北朝後期か
●築城者 福屋杢丞隆次
●高さ 標高H682m(比高100m前後)
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2012年5月23日

◆解説(参考文献「石見町誌」等)
島根県の西部石見の国は大まかに区分けすると、東から石東、石央そして石西の三つに分かれる。このうち中央に位置するのが石央で、現在の浜田市を中心としたエリアである。
【写真左】北側から大利城を見る。
 この日(2012年5月23日)は、石見から向かったが、以前通った雲月山側の114号線(今福芸北線)ではなく、旭町都川の113号線(都川中野線)から入った。

 この写真は113号線と114号線が交差する雲月山分かれ側から見たもので、左麓には雲月小学校がある。



今稿の「大利城」は、石見国の石央に所在する今市城主福屋杢丞隆次が、南方の安芸国発坂城主であった栗栖氏を攻める際、当地(北広島町大利原)に築いた城といわれている。

現地の説明板より

天文21年、奥山庄の所領をめぐって起こった栗福合戦の際、石見国毛原庄今市城主 福屋木工丞隆次が、安芸国発坂城主 栗栖権頭親忠を攻める際、その本陣を築いた地であり、大利城と称していた。
 展望台からは、周囲の田園を望むことができる。”
【写真左】東麓に設置された案内板
 雲月小学校の東方に設置されている。









栗栖氏

安芸・栗栖氏についての確実な史料は見当たらないが、貞治5年(1366)すなわち室町幕府2代将軍・足利義詮晩年の頃、当地に「与一野年貢帳」という史料が残り、同氏の戸河内在住がこの頃といわれ、栗栖親忠の父親命(ちかのぶ)が、おそらく南北朝後期に下野国から当地に移住してきたものとされる。
【写真左】登城道
 登城口は上記の案内板から道路を挟んだ位置に階段があり、そこから歩いて登るが、速足だと5分程度でたどり着く。







大利城のある現在の北広島町大利原からほぼ南に下って、国道191号線に入りそのまま大田川の支流板ヶ川を下ると、戸河内の土居という地区に出る。この地区に築かれた発坂城(未登城)は、栗栖氏の本拠城といわれた。

親忠の代になると、戸河内・筒賀・加計など13カ村の大田庄、そして現在の島根県益田市・浜田市と接する北広島町の八幡原を中心とする24カ村の奥山庄まで君臨する一大勢力となっていた。
【写真左】本丸付近
 この日はご覧の通り雑草が伸び、遺構の確認が困難だったが、定期的に清掃はされているようだ。

 縄張り図などはないため、詳細は不明だが、中央部に本丸(長径15m、短径10m程度)を置き、南側に堀切を介して長い尾根上の郭段があるようだ。



福屋氏

 石見の福屋氏についてはこれまで、江津市の本明城(もとあけじょう)(島根県江津市有福温泉)福田城(島根県江津市有福温泉町本明福田)松山城(島根県江津市)、及び浜田市の家古屋城(かこやじょう)(島根県浜田市旭町)小石見城(島根県浜田市原井町)、邑南町の桜尾城跡・その1(島根県邑智郡邑南町市木)などで紹介してきているが、改めて整理しておきたい。
【写真左】展望台(本丸)
 本丸跡には展望台が設置されている。











 福屋氏は元々益田氏の支族である。益田氏の基礎を築いた兼高の三男・兼広が建治2年(1202)那賀郡跡市郷福屋を領し、福屋氏始祖となった。

 兼広はその後邑智郡の日和城を本拠とし、天福元年(1233)には同じ跡市の本明城に移り住むことになる。なお、福屋の姓を名乗ったのはこの本明城に入ってからとされている。そして、以後、横道・井田・堀等庶家を輩出していく。
 南北朝期には同族の三隅・周布氏と同じく主に南朝方として活躍し、北朝方であった惣領家・益田氏とは対立した。
【写真左】堀切
 この写真ではとても堀切遺構であることは分からないが、この位置から約5m前後の段差を持たせ、再び盛り上がって尾根が南にのびている。

 少し降りてみようとしたが、結構な傾斜のため途中で断念した。



雄鹿原合戦

 最初に指摘しておきたいことは、上掲した現地の説明板の下線部分で「天文21年」すなわち戦国時代に「栗福合戦」(雄鹿原合戦)があったと記されているが、この戦いはこの時期ではなく、応永年間から永享元年、すなわち1421~1429年のころである。

 石見の福屋氏と、安芸山県郡の栗栖氏との領有争いは相当前から行われていたようで、興国4年(1341)の雲月作戦における八幡高原での合戦などはその前哨戦とも考えられる。

 このころ、石見守護であった大内氏の支配力の低下があり、石見(石央)の安芸国との国境線付近はもっとも監視の届かない地域となった。このため当該地に所領を持つ地頭(国人領主)などは、各々が独自の道を歩み始めたため、こうした争いが生じたと考えられる。
【写真左】芸北町雲月地区案内板
 文字が小さいため判読が困難だが、この図には当城(大利城)での合戦のほか、雲月山に向かう114号線沿いに3か所の合戦跡が記されている。






  1. 鹿廻合戦
  2. 塔ノ峠合戦
  3. 宇津々木多和合戦


 当該合戦の引き金となったのは、雄鹿原の農民が栗栖氏の年貢の取り立てが厳しいため、石見の福屋氏の支配下に入りたいとの動機からであった。

 このため当初、両氏の領有境界変更の交渉が行われたが、これが成立せずついには交戦となった。戦いは応永28年(1421)ごろから始まり、以後8年間にわたって繰り広げられ、永享元年(1429)8月、雄鹿原合戦において栗栖氏が敗退し決着がついた。
【写真左】本丸から北東を見る。
 中央に見える道は、11号線(旭戸河内線)で、この道を進むと浜田来尾(きたお)に繋がる。






福屋杢丞隆次

 ところで、石見国毛原庄今市城主 福屋木工丞隆次という部将については、福屋氏系図では記載されておらず、不明である。ただ、時期を考えると、同氏第8代の氏兼のころで、当時福屋氏は、江津市有福温泉の「本明城」を本拠とし、支城の一つであった毛原庄今市城に福屋隆次がいたものと思われる。
ところで、現地では「木工丞」と記されているが、「杢丞」が正式な名称だろう。
【写真左】本丸から北を見る。
 当日当城に向かった道で、旭町都川に繋がる。








 なお、この毛原庄今市城の比定地については確実なことは分からないが、おそらく現在の浜田市旭町今市に「城山城」(H380m)という城砦が記録され、安芸の国に近いことからこの場所とも考えられる。

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