比叡尾山城(ひえびやまじょう)・その1
●所在地 広島県三次市畠敷町
●別名 畠敷本城・比海老城
●築城期 建久3年(1192)
●築城者 佐々木七郎秀綱(三吉氏)又は藤原(三吉)兼範
●高さ 標高400m(比高200m)
●遺構 郭・井戸・竪堀・堀切等
●登城日 2012年6月6日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
比叡尾山城のある三次市は、昔から「霧の海」として知られる。秋から冬にかけると、放射冷却現象で、三次の町は日の出頃から広く霧が立ち込め、午前11時ごろまで続くという。
【写真左】高谷山から比叡尾山城及び三次市街地を見る。
高谷山は三次市の西方に聳える山で、東麓を国道54号線が走り、三次の町並みがほぼ見渡せる風光明媚な山である。
三次の中心部で、神野瀬川・西城川・馬洗川など中小の河川が変化にとんだ川筋を描きながら、本流江の川と合流する。このため、多くの水分が蒸気となって発生するが、盆地であるためその蒸気(霧)はいつまでもこの場所で溜り、それがこの町を「霧の海」として有名にさせた。
出雲から安芸・備後の山城に向かう早出のとき、管理人は時々この光景に遭遇してきた。三次の西方に高谷山という山があるが、この時期になるとこの山から観たその雲海の映像がテレビ・新聞で紹介される。こうしたこともあって、三次のこの地では「霧が晴れたら昼飯」などという面白い話も生まれた。
比叡尾山城はその霧の町の北方に東西に延びる連山の一角にある。
【写真左】比叡尾山城・比熊山城・尾関山城の配置図
三次市内案内図を基に追記したもので、比熊山城については、近いうちに取り上げる予定。
【写真左】比叡尾山城案内図
比叡尾山城の東方にある古刹岩屋寺を中心にした案内図であるが、西側(左)に比叡尾山城が記されている。
南麓を走る県道434号線沿いに「岩屋寺入口」という小さい看板があり、そこから狭い道を蛇行しながら登っていくとこの図が建っている箇所に突き当たる。
現地の説明板より
“比叡尾山城跡
中世、三次盆地を支配した三吉氏代々の居城で、1591(天正19)年に三次町の比熊山城に移るまでの約400年間続きました。標高410m(麓からの高さ220m)の頂上からの眺望は素晴らしいものです。今でも熊野神社の裏から本来の大手道を登ることができます。
【写真左】比叡尾山城遠望
南東麓から見たもので、頂部は南北に長くのびた平坦地であることが分かる。
本丸に相当する主郭は、南北70m×東西40mで、石垣で組まれた門の跡や土塁も明確に残っています。複雑に配置された郭は約50を数え、その一つには石組の半地下式の穴蔵跡もあります。
主郭の東の谷にある一画は埋門(うずめもん)を構えて、側面を堅固な石垣で築いており、相当な規模の建物があったことが想像されます。あるいは、合戦が日常化する戦国時代には家族が生活していたのかもしれません。
【写真左】比叡尾山城跡略測図
この図は当城の南麓に建立されている熊野神社の脇に設置されているもので、本丸を中心とした区域とは別に、東側の中腹部にも細長い郭段を持つ箇所がある。この箇所が建物があったとされる箇所。
三の丸に当たる郭の北側の斜面下をよく見ると、窪地で水が湧き出しており井戸の設備が考えられます。周囲の入り組んだ土塁と郭は、籠城の際大切な水の手(飲み水)を守る役割を果たしていたのでしょう。
さらに、西斜面に幅3m、深さ2mの溝がまっすぐ麓近くまで掘り下げてあります。これは攻めてくる敵兵を分散させる機能を持つ戦国時代特有の「竪堀」と呼ばれるもので、当時の軍学書にも重要な施設として書かれています。
また、城跡より谷を隔てた東側には三吉氏の菩提寺であった高(光)源寺跡があり、ここには多くの墓石が残っています。
三次市
三次市教育委員会”
【写真左】登城道
登城道としては現在南麓の熊野神社から向かうコースと、岩屋寺コースの途中から逸れていくものの2コースがあるようだ。
今回は岩屋寺コースの方を選択し、何度も蛇行する狭い林道を車で向かうと、途中で手造りの「比叡尾山城」とかかれた看板がある駐車場にたどり着く。
そこから10分程度歩くとご覧の溜池が見える。たまたまこの日地元の初老の方が山菜を取りに来ていて、御親切に本丸まで案内をしていただいた。
この溜池の上部及び下部には田圃があり、代々この谷間の棚田で耕作をしてきたが、自分の代で耕作は断念したという。三吉氏が約400年間居城したこの比叡尾山城の遺構には、居館跡らしき箇所が残るが、おそらくその当時この周囲にも田畠が開墾されたのだろう。そして、この方(初老)の代になっても受け継がれていったものだろう。当然こうした溜池も鎌倉・室町期に居城と併せて造成されていたと考えられる。
三吉氏と比叡尾山城
●所在地 広島県三次市畠敷町
●別名 畠敷本城・比海老城
●築城期 建久3年(1192)
●築城者 佐々木七郎秀綱(三吉氏)又は藤原(三吉)兼範
●高さ 標高400m(比高200m)
●遺構 郭・井戸・竪堀・堀切等
●登城日 2012年6月6日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
比叡尾山城のある三次市は、昔から「霧の海」として知られる。秋から冬にかけると、放射冷却現象で、三次の町は日の出頃から広く霧が立ち込め、午前11時ごろまで続くという。
【写真左】高谷山から比叡尾山城及び三次市街地を見る。
高谷山は三次市の西方に聳える山で、東麓を国道54号線が走り、三次の町並みがほぼ見渡せる風光明媚な山である。
三次の中心部で、神野瀬川・西城川・馬洗川など中小の河川が変化にとんだ川筋を描きながら、本流江の川と合流する。このため、多くの水分が蒸気となって発生するが、盆地であるためその蒸気(霧)はいつまでもこの場所で溜り、それがこの町を「霧の海」として有名にさせた。
出雲から安芸・備後の山城に向かう早出のとき、管理人は時々この光景に遭遇してきた。三次の西方に高谷山という山があるが、この時期になるとこの山から観たその雲海の映像がテレビ・新聞で紹介される。こうしたこともあって、三次のこの地では「霧が晴れたら昼飯」などという面白い話も生まれた。
比叡尾山城はその霧の町の北方に東西に延びる連山の一角にある。
【写真左】比叡尾山城・比熊山城・尾関山城の配置図
三次市内案内図を基に追記したもので、比熊山城については、近いうちに取り上げる予定。
【写真左】比叡尾山城案内図
比叡尾山城の東方にある古刹岩屋寺を中心にした案内図であるが、西側(左)に比叡尾山城が記されている。
南麓を走る県道434号線沿いに「岩屋寺入口」という小さい看板があり、そこから狭い道を蛇行しながら登っていくとこの図が建っている箇所に突き当たる。
現地の説明板より
“比叡尾山城跡
中世、三次盆地を支配した三吉氏代々の居城で、1591(天正19)年に三次町の比熊山城に移るまでの約400年間続きました。標高410m(麓からの高さ220m)の頂上からの眺望は素晴らしいものです。今でも熊野神社の裏から本来の大手道を登ることができます。
【写真左】比叡尾山城遠望
南東麓から見たもので、頂部は南北に長くのびた平坦地であることが分かる。
本丸に相当する主郭は、南北70m×東西40mで、石垣で組まれた門の跡や土塁も明確に残っています。複雑に配置された郭は約50を数え、その一つには石組の半地下式の穴蔵跡もあります。
主郭の東の谷にある一画は埋門(うずめもん)を構えて、側面を堅固な石垣で築いており、相当な規模の建物があったことが想像されます。あるいは、合戦が日常化する戦国時代には家族が生活していたのかもしれません。
【写真左】比叡尾山城跡略測図
この図は当城の南麓に建立されている熊野神社の脇に設置されているもので、本丸を中心とした区域とは別に、東側の中腹部にも細長い郭段を持つ箇所がある。この箇所が建物があったとされる箇所。
三の丸に当たる郭の北側の斜面下をよく見ると、窪地で水が湧き出しており井戸の設備が考えられます。周囲の入り組んだ土塁と郭は、籠城の際大切な水の手(飲み水)を守る役割を果たしていたのでしょう。
さらに、西斜面に幅3m、深さ2mの溝がまっすぐ麓近くまで掘り下げてあります。これは攻めてくる敵兵を分散させる機能を持つ戦国時代特有の「竪堀」と呼ばれるもので、当時の軍学書にも重要な施設として書かれています。
また、城跡より谷を隔てた東側には三吉氏の菩提寺であった高(光)源寺跡があり、ここには多くの墓石が残っています。
三次市
三次市教育委員会”
【写真左】登城道
登城道としては現在南麓の熊野神社から向かうコースと、岩屋寺コースの途中から逸れていくものの2コースがあるようだ。
今回は岩屋寺コースの方を選択し、何度も蛇行する狭い林道を車で向かうと、途中で手造りの「比叡尾山城」とかかれた看板がある駐車場にたどり着く。
そこから10分程度歩くとご覧の溜池が見える。たまたまこの日地元の初老の方が山菜を取りに来ていて、御親切に本丸まで案内をしていただいた。
この溜池の上部及び下部には田圃があり、代々この谷間の棚田で耕作をしてきたが、自分の代で耕作は断念したという。三吉氏が約400年間居城したこの比叡尾山城の遺構には、居館跡らしき箇所が残るが、おそらくその当時この周囲にも田畠が開墾されたのだろう。そして、この方(初老)の代になっても受け継がれていったものだろう。当然こうした溜池も鎌倉・室町期に居城と併せて造成されていたと考えられる。
三吉氏と比叡尾山城
さて、比叡尾山城については、狐城と千人塚(広島県三次市布野町下布野)、でも紹介しているが、三吉氏が最初に築いた城砦とされている。
また、この備後・三吉氏の出自については、尾関山城(広島県三次市三吉町)でも述べたように、佐々木姓三吉氏と、藤原姓三吉氏の二説があり、はっきりしないが、後段で示すように、藤原姓三吉氏の第11代豊秀の妻の法名として刻銘された墓石が、同氏菩提寺であった高源寺跡に残ることもあり、藤原姓三吉氏の可能性が高い。
【写真左】近年まで田畠として耕作していた箇所
本丸の東北部にあって、一段と低くなった箇所で平坦地であるが、田畠であったこともあり湿地帯となっている。
この箇所も屋敷跡ではなかったかといわれている。指さしている方はご案内を頂いた初老の方。
【写真左】石積み跡
上記の位置から西南に向けて残るもので、おそらくこの段に屋敷があったものと思われる。
【写真左】祠跡か
先ほどの位置からさらに本丸方向に向かうと、切り立った切崖となるが、その手前に高さ8m前後の岩塊がある。この頂部には写真に見えるような祠跡らしき遺構が残る。
瓦片や祭祀用と思われる銅製の花瓶らしきものが2,3点在している。
説明板にもあるように、比叡尾山城は後に比熊山城に移ることになるまで約400年間、三吉氏の居城であったとされている。天正19年(1591)から逆算すると、1191年すなわち建久2年前後となり、築城期は鎌倉開幕期である。
南北朝期に至るとこの三吉氏も、同国(備後)の江田・広沢・宮氏などと同じく、後醍醐天皇が船上山に拠った際馳せ参じている。しかし建武新政後は他の一族らと同様に、足利尊氏に与し武家方として活躍することになる。このときの記録には、建武3年(1336)、尊氏から軍勢催促を受けた三吉河立紋五郎の名が残る。
参考までに藤原姓三吉氏の略譜を記す(「三次町国郡志」より)。
『城郭体系』によれば、本丸は70m×40mの規模とし、北半分に土塁を設け、北西隅に井戸と門、南半分には石垣を築き、南隅にも門を設けて枡形の構えをとり、本丸西南の45m×20mの郭に下っている、と記されている。
このことからこの写真は上の郭(左側の土塁)と段差はあるものの、本丸として位置づけされている。
当城の郭群の中でもっとも規模の大きい箇所である。
戦国期
戦国期における三吉氏の動きについてはこれまで、尾関山城(広島県三次市三吉町)、生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)でも記しているように、位置的にも北の尼子氏、南の毛利氏の間に挟まれたところから、当然両氏との争いが多く残る。
戦国初期の永正年間、江の川の支流・可愛川(えのかわ)沿いで、当時の高田郡甲立の五龍城(広島県安芸高田市甲田町上甲立)主・宍戸氏と連合した三吉氏は、吉田の毛利氏(弘元・興元)と戦っている。
また、同じころ当時毛利氏と親戚関係にあった石見南部の高橋氏とも争っている。
【写真左】土塁を越えて本丸中央部に向かう。
西側に向かうと階段があり、ここから主郭部に繋がる。
三吉氏のように備北地方にあった国人領主たちは、当初大内氏や尼子氏との間に挟まれ、その都度一族延命のため両氏に結びついていった。その後、安芸の毛利氏が台頭してくると状況は大きく動き出した。
天文22年(1553)、毛利氏に恭順を示していた江田氏(高杉城(広島県三次市高杉町)参照)が突然尼子氏に寝返った。これを機に一気に元就が動き出した。
同年4月6日、元就は世羅を経て江田氏と同族の和智氏の領内・吉舎に入り、さらに寄国固屋(三良坂町長田)を攻めた。この時三吉氏(致高・広高父子)はいち早く毛利氏に対し誓紙を送り、忠節を誓っている。しかし、これでは毛利氏は納得していなかったとみえ、翌5月に「人質」の要求を出している。
ところで、三吉氏が比叡尾山城から、西方の比熊山城に移ったのは、天正19年(1591)とされている。この年の3月14日、豊臣秀吉は諸国検地において、毛利輝元に出雲・石見・隠岐・安芸・備後・周防・長門・伯耆三郡・備中半国合わせて、120万石の朱印状を与えている。
【写真左】近年まで田畠として耕作していた箇所
本丸の東北部にあって、一段と低くなった箇所で平坦地であるが、田畠であったこともあり湿地帯となっている。
この箇所も屋敷跡ではなかったかといわれている。指さしている方はご案内を頂いた初老の方。
【写真左】石積み跡
上記の位置から西南に向けて残るもので、おそらくこの段に屋敷があったものと思われる。
【写真左】祠跡か
先ほどの位置からさらに本丸方向に向かうと、切り立った切崖となるが、その手前に高さ8m前後の岩塊がある。この頂部には写真に見えるような祠跡らしき遺構が残る。
瓦片や祭祀用と思われる銅製の花瓶らしきものが2,3点在している。
説明板にもあるように、比叡尾山城は後に比熊山城に移ることになるまで約400年間、三吉氏の居城であったとされている。天正19年(1591)から逆算すると、1191年すなわち建久2年前後となり、築城期は鎌倉開幕期である。
南北朝期に至るとこの三吉氏も、同国(備後)の江田・広沢・宮氏などと同じく、後醍醐天皇が船上山に拠った際馳せ参じている。しかし建武新政後は他の一族らと同様に、足利尊氏に与し武家方として活躍することになる。このときの記録には、建武3年(1336)、尊氏から軍勢催促を受けた三吉河立紋五郎の名が残る。
参考までに藤原姓三吉氏の略譜を記す(「三次町国郡志」より)。
- 兼範 ⇒兼宗 ⇒兼家 ⇒信兼 ⇒秀高 ⇒光高 ⇒高家 ⇒家秀 ⇒秀明 ⇒煕秀 ⇒豊秀 ⇒豊高 ⇒致高 ⇒隆亮 ⇒筠斎広高 ⇒元高
『城郭体系』によれば、本丸は70m×40mの規模とし、北半分に土塁を設け、北西隅に井戸と門、南半分には石垣を築き、南隅にも門を設けて枡形の構えをとり、本丸西南の45m×20mの郭に下っている、と記されている。
このことからこの写真は上の郭(左側の土塁)と段差はあるものの、本丸として位置づけされている。
当城の郭群の中でもっとも規模の大きい箇所である。
戦国期
戦国期における三吉氏の動きについてはこれまで、尾関山城(広島県三次市三吉町)、生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)でも記しているように、位置的にも北の尼子氏、南の毛利氏の間に挟まれたところから、当然両氏との争いが多く残る。
戦国初期の永正年間、江の川の支流・可愛川(えのかわ)沿いで、当時の高田郡甲立の五龍城(広島県安芸高田市甲田町上甲立)主・宍戸氏と連合した三吉氏は、吉田の毛利氏(弘元・興元)と戦っている。
また、同じころ当時毛利氏と親戚関係にあった石見南部の高橋氏とも争っている。
【写真左】土塁を越えて本丸中央部に向かう。
西側に向かうと階段があり、ここから主郭部に繋がる。
三吉氏のように備北地方にあった国人領主たちは、当初大内氏や尼子氏との間に挟まれ、その都度一族延命のため両氏に結びついていった。その後、安芸の毛利氏が台頭してくると状況は大きく動き出した。
天文22年(1553)、毛利氏に恭順を示していた江田氏(高杉城(広島県三次市高杉町)参照)が突然尼子氏に寝返った。これを機に一気に元就が動き出した。
同年4月6日、元就は世羅を経て江田氏と同族の和智氏の領内・吉舎に入り、さらに寄国固屋(三良坂町長田)を攻めた。この時三吉氏(致高・広高父子)はいち早く毛利氏に対し誓紙を送り、忠節を誓っている。しかし、これでは毛利氏は納得していなかったとみえ、翌5月に「人質」の要求を出している。
- 『三吉其外彼一家中人質に出し…』(譜録:渡辺三郎左衛門)
ところで、三吉氏が比叡尾山城から、西方の比熊山城に移ったのは、天正19年(1591)とされている。この年の3月14日、豊臣秀吉は諸国検地において、毛利輝元に出雲・石見・隠岐・安芸・備後・周防・長門・伯耆三郡・備中半国合わせて、120万石の朱印状を与えている。
三吉氏が比熊山城へ移城していった理由の一つには、この秀吉の検地によるところもあったのかもしれない。
次稿では、比叡尾山城に関係する他の史跡を取り上げたい。
【写真左】土塁
本丸・主郭側にあるもので、西から北にかけL字状の配置となっている。内側からの比高は1~2m前後だが、前記したようにこの下の郭との比高差はさらに高く平均して7~8mを測る。
【写真左】主郭
二辺の土塁で囲まれた主郭は、20m×30m前後の規模を持つ平坦地となっており、東側に開口された位置から二の丸・三の丸へと繋がる。
【写真左】二の丸・門跡
主郭から東に向かって一段低くなった箇所で、この傾斜部に門があったとされる。
【写真左】三の丸
二の丸から南側にある帯郭を介して接続されたもので、奥行は南に向かって約30m程度の規模を持つ。
また、三の丸をさらに南に下ると、5,6段の中小郭があるが、当日は整備されておらず写真に撮っていない。
なお、その先をさらに下っていくと、南麓の熊野神社につながる。
【写真左】三の丸から振り返って本丸を見る。
三の丸をはじめ、二の丸・本丸の規模は想像以上に大きく、しかも削平面はきわめてフラットで加工精度がいい。
比熊山城に移る直前の天正19年まで使用されたことを考えると、このころ三吉氏が既に近世城郭へと改修を始めていたような雰囲気が感じられる。
【写真左】三の丸から三次の市街地を俯瞰する。
この日も霧は立ち込めていなかったが、全体に靄がかかっていた。
次稿では、比叡尾山城に関係する他の史跡を取り上げたい。
【写真左】土塁
本丸・主郭側にあるもので、西から北にかけL字状の配置となっている。内側からの比高は1~2m前後だが、前記したようにこの下の郭との比高差はさらに高く平均して7~8mを測る。
【写真左】主郭
二辺の土塁で囲まれた主郭は、20m×30m前後の規模を持つ平坦地となっており、東側に開口された位置から二の丸・三の丸へと繋がる。
【写真左】二の丸・門跡
主郭から東に向かって一段低くなった箇所で、この傾斜部に門があったとされる。
【写真左】三の丸
二の丸から南側にある帯郭を介して接続されたもので、奥行は南に向かって約30m程度の規模を持つ。
また、三の丸をさらに南に下ると、5,6段の中小郭があるが、当日は整備されておらず写真に撮っていない。
なお、その先をさらに下っていくと、南麓の熊野神社につながる。
【写真左】三の丸から振り返って本丸を見る。
三の丸をはじめ、二の丸・本丸の規模は想像以上に大きく、しかも削平面はきわめてフラットで加工精度がいい。
比熊山城に移る直前の天正19年まで使用されたことを考えると、このころ三吉氏が既に近世城郭へと改修を始めていたような雰囲気が感じられる。
【写真左】三の丸から三次の市街地を俯瞰する。
この日も霧は立ち込めていなかったが、全体に靄がかかっていた。
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